第2話 無菌の箱庭と血の匂い
国家治安維持局、地下六十階層。
分厚い防爆扉と幾重ものセキュリティゲートの奥に存在するそこは、暗部『鴉』に所属する鉄鋼マシーナリーたちの専用メンテナンスルームである。
空気は常に低温に保たれ、オゾンと消毒液の匂いが微かに漂っている。壁一面に並ぶサーバー群からは低く冷たい稼働音が響き、頭上の蛍光灯が白々と無機質な光を落としていた。
「まったく、毎回毎回、派手に装甲を焼いてきやがって。お前は自分の体がどれだけ高価な代物か、少しは理解しているのか?」
白衣を着た初老の男が、電子タバコの紫煙を吐き出しながらぼやいた。
整備班長の東雲である。白髪混じりの無精髭を生やし、目の下には常に深いクマを作っている男だが、鉄鋼マシーナリーの保守・調整技術において彼の右に出る者はいない。
部屋の中央に鎮座する巨大なメンテナンス・チェアに、上半身裸の戌亥が座っていた。
彼の首から下は、幾つもの太いケーブルで背後のコンソールと物理的に接続されている。人工筋肉の出力調整と、機械脳に蓄積された戦闘データの吸い上げが行われている最中だった。
「敵の火力は想定の範囲内だった。装甲の破損は三パーセント未満だ」
「俺が言っているのは外装の人工皮膚の話だ。顔の右半分が吹き飛んで、合金の頭蓋骨が丸見えだっただろうが。培養皮膚の定着には時間がかかるんだぞ」
東雲はピンセットと特殊な生体接着剤を使い、戌亥の右顔面に新たな人工皮膚を精巧に貼り合わせていく。
冷たい金属の表面が、人肌の温もりを持つシリコンと培養細胞のハイブリッド素材で覆われ、凄惨な機械の髑髏が、徐々に端正な青年の横顔へと戻っていく。
「痛覚センサーは切っているな?」
「ああ。常にオフに設定している」
「……そうか」
東雲の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
彼は深く息を吐き、戌亥の冷たい瞳を覗き込むようにして言った。
「迅。お前はまだ二十代の、本来なら未来がある若者だ。……四年前のあの爆破テロで、瀕死の重傷を負ったお前を俺たちがサイボーグとして蘇らせたのは、本当に正しかったのか。時々、わからなくなる」
四年前に起きた、瀬戸内プラント爆破テロ事件。
新京の土台となる埋め立て工事の最中、過酷な労働に反発したレジスタンスが起こした大規模な自爆テロだった。当時、若き治安維持局の末端局員だった戌亥は、逃げ遅れた労働者たちを庇い、爆発の直撃を受けた。
両手両足を失い、内臓の大半が焼け焦げた。本来なら、そのまま命を落とすはずだった。
だが、国家は彼の並外れた忠誠心と精神力を評価し、極秘裏に進められていた第三世代サイボーグ計画の素体として彼を選んだ。
失われた肉体の代わりに、強靭な鋼鉄の骨格と人工筋肉が与えられた。人間としての弱さ、迷い、そして痛みを切り捨てる対価として、圧倒的な力を手に入れたのだ。
「無意味な感傷だ、東雲」
戌亥の機械的な声が、冷えた部屋に響く。
「俺の命は四年前のあの日、一度終わっている。今の俺を形作っているのは、偉大なる国家の技術であり、国家の恩義だ。ならば、この体も命も、すべては国家の所有物。俺は国家の犬であり、それ以上でも以下でもない」
「……徹底した模範解答だな。治安維持局の教本を読み上げているようだ」
「事実を口にしたまでだ」
東雲は肩をすくめ、顔の皮膚の接合部を医療用レーザーで滑らかに焼き潰した。
「作業完了だ。ケーブルを外せ」
コンソールからの物理接続が解除され、戌亥はメンテナンス・チェアから立ち上がった。新しい皮膚は顔の筋肉の動きに完全に同調し、人間と全く見分けがつかない。
戌亥が傍らのハンガーに掛けられていた黒いハーフコートに腕を通そうとした、その瞬間だった。
――ピィン。
戌亥の網膜に、黄色いアラートが点滅した。
機械脳がメインフレームからの緊急データを受信したのだ。
『警告。中層居住区・第三ブロックにて、市民の生体データ異常を検知』
『対象ID:733−0912』
『心拍数、アドレナリン分泌量の上昇を確認。ストレス値85パーセントを超過。音声認識システムにより、反国家的なキーワードの抽出に成功。「配給」「足りない」「国家の嘘」』
『総合判定:クラスC・思想犯の初期症状。思想的汚染の拡大を防ぐため、対象を即時拘束せよ』
戌亥はコートを羽織り、ヤタガラスをホルスターに収めながら踵を返した。
「どうした?」
「仕事だ。思想犯の芽を摘みに行く」
「……下のスラムから帰ってきたばかりだぞ。たまには休んだらどうだ」
「犬に休日は必要ない」
それだけを残し、戌亥は足早にメンテナンスルームを後にした。
*
新京・中層居住区。
地下六十階層から高速エレベーターで地上へ出た戌亥を待っていたのは、第一話の舞台であった薄汚れた下層区とはまるで違う、息を呑むほど美しい世界だった。
頭上を覆う巨大な環境制御ドームには、雲ひとつない青空がホログラムで投影されている。
通りには塵ひとつ落ちておらず、白亜の美しい集合住宅が規則正しく立ち並んでいた。街路樹として植えられた桜は、遺伝子操作と徹底した温度管理により、一年三百六十五日、常に満開の薄紅色の花を咲かせている。
風は巨大な空調システムによって穏やかにそよぎ、微かに人工の花の香りがブレンドされていた。街角のスピーカーからは、国家の繁栄と市民の幸福を祝う、耳障りの良いオーケストラ音楽が流れている。
だが、その完璧すぎる美しさは、どこか薄ら寒く、死の匂いがした。
行き交う市民たちの顔には、一様に「幸福な微笑み」が貼り付いている。誰も大きな声で笑わず、誰も怒らず、誰も悲しまない。
彼らは知っているのだ。自分たちの首の後ろに埋め込まれたICチップが、脈拍から発汗、声のトーンに至るまで、すべての生体情報を二十四時間監視していることを。
少しでも不満の感情を抱けば、ストレス値の異常としてメインフレームに報告される。だから彼らは、常に穏やかで、満ち足りた良き市民を『演じ続けなければならない』。
この中層居住区は、平和で美しい、無菌状態の箱庭だった。
ただし、恐怖という見えない檻で囲まれた箱庭だ。
戌亥が石畳の通りを歩いていくと、周囲の市民たちが弾かれたように道を譲った。
黒いコートを羽織った長身の男。その無表情な顔と、威圧的な重い足音。それが何を意味するか、新京の市民なら誰でも知っている。治安維持局の暗殺者、『鴉』だ。
市民たちの笑顔が引きつり、伏し目がちに通り過ぎていく。戌亥のAR視界には、彼らの心拍数が急激に上昇していくデータが次々と表示されていた。
目的の座標に到着する。
公園の入り口付近で、人だかりができていた。いや、誰も近寄ろうとせず、遠巻きに巨大な円を作って立ち尽くしているだけだ。
円の中心には、二名の治安維持局警備隊員(生身の人間だ)がいた。彼らは、くたびれた作業着姿の中年男を冷たい石畳の上に押さえつけている。
男の傍らには、落として泥にまみれた合成パンの包みが転がっていた。
「離せ! 俺は何も悪いことはしていない!」
中年男は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、警備隊員に必死で抵抗していた。
「配給が少なすぎるって言っただけだ! 娘が熱を出してるんだ! 薬も買えない、栄養のある飯も食わせられない! 一生懸命働いているのに、なんでこんなに苦しいんだ! 国家は俺たちを守ってくれるんじゃないのか!」
悲痛な叫びが、人工の桜の下に響き渡る。
それは、ごく当たり前の、父親としての悲しみであり、理不尽に対する正当な怒りだった。
だが、遠巻きに見ている市民たちは、誰一人として男を助けようとはしない。それどころか、同情の目を向けることすら恐れていた。男に共感し、心が揺れ動けば、自らのICチップのストレス値が跳ね上がり、同罪として連行されてしまうからだ。
彼らは凍りついたように立ち尽くし、ただ無関心を装うことしかできない。
「黙れ。国家に対する不満の表明は、思想的重罪だ。おとなしくしろ」
警備隊員が警棒で男の背中を殴りつける。男はうめき声を上げてうずくまった。
そこへ、戌亥が歩み出た。
ズシン、という重い足音が響いた瞬間、警備隊員たちが弾かれたように直立不動の姿勢をとり、敬礼した。
押さえつけられていた男が顔を上げ、戌亥を見る。男の目に、絶望の色が浮かんだ。鴉の執行官が来たということは、自分の罪がシステムによって『確定』したことを意味するからだ。
「ID:733−0912。国家への反逆思想、ならびに社会秩序を乱す言動を確認した」
戌亥は感情の欠落した声で、事務的に告げた。
「ひっ……違う、俺は国家に逆らうつもりなんてない! ただ、ほんの少し不満をこぼしただけで……! お願いだ、見逃してくれ! 俺が連れて行かれたら、妻と娘はどうやって生きていけば……!」
「個人の事情は、システムには考慮されない」
戌亥は男の首根っこを、鋼鉄の右腕で無造作に掴み上げた。
常人の筋力を遥かに超越した力。大人の男の体が、まるで羽虫のようになす術もなく宙に浮く。
「ああっ、痛い、腕が、もげる……ッ!」
男が悲鳴を上げるが、戌亥の顔には微塵の同情も浮かばない。
彼の網膜には、男のステータスの上に『思想的汚染源』という赤い文字が点滅している。この男の悲しみが周囲に伝播すれば、完璧なシステムにバグが生じる。だから、今すぐこの場で摘み取らなければならない。
それが、国家の意思だ。
通りの外れに、黒塗りの重装甲護送車が音もなく滑り込んできた。
思想矯正施設行きの車両だ。そこへ送られた者が、再びこの美しい中層居住区に戻ってきたという記録はない。
「やめろ、やめてくれえええっ! 誰か、誰か助けてくれ! 嘘だろ、こんなの狂ってる!」
泣き叫ぶ男を片手で引きずりながら、戌亥は護送車へと歩く。
周囲の市民たちは、恐怖に顔を青ざめさせながら、いっせいに目を伏せた。誰も男の声に応えない。桜の花びらが、狂ったような美しさで舞い散っている。
護送車の後部ドアが開き、戌亥は掴んでいた男をゴミ袋でも捨てるかのように、無慈悲に車内へと放り込んだ。
鉄の床に叩きつけられた男が這い出ようとする前に、分厚いドアが容赦なく閉められる。
ガチャン、と重いロックの音が響き、男の絶叫は完全に遮断された。
護送車が排気音も出さずに走り去っていくのを見届け、戌亥は静かに振り返った。
公園の周囲にいた市民たちは、嵐が過ぎ去った後のようにそそくさと散開し、再び「幸福で穏やかな市民の日常」という芝居へと戻っていく。
先ほどまで一人の男が理不尽に連れ去られていたことなど、最初から無かったかのように。
戌亥の視界に表示されていた黄色いアラートが消え、ステータスは『オールグリーン(正常)』に戻った。
システムは守られた。国家の安寧は保たれた。
戌亥の頭上では、人工の太陽が眩しいほどの光を放っている。下層区の泥と血の匂いはここには届かない。だが、この無菌の箱庭を満たしている空気は、どこまでも冷たく、息が詰まるほどに淀んでいた。
戌亥迅は舞い散る造花の桜を一瞥することもせず、黒いコートの裾を翻し、次なる命令を待つためにその場を立ち去った。
彼の中に、連れ去られた男の家族を憐れむ心はない。
彼は国家の犬だ。狂った世界を守るための、完璧な部品なのだから。




