第1話 鋼の猟犬
この年表は日本に起こったかもしれない架空の歴史である。
【1980年〜1998年】冷戦末期と『東京ナイトオウル』の誕生
ソ連ではゴルバチョフが連邦存続に成功するが、独立運動鎮圧に追われ国際舞台から後退していく。
一方の日本。1990年、大学生の犬養旭弘がボランティア団体『東京ナイトオウル』を設立する。
1998年のNPO法人化を経て、団体は全国規模の互助ネットワークへと成長。しかしその裏では、のちに暗部『鴉』となる狂信的な側近たちが静かに集い始めていた。
【2010年】犬養による著書『国家と自由』発刊
社会不安が渦巻く中、犬養が自身の政治的ビジョンを綴った『国家と自由』を出版。
既存システムを痛烈に批判し、新たな秩序を説いたこの本は若者たちの間でベストセラーとなり、のちの絶対的な政治活動指針となる。
【2012年〜2016年】『国家自由主義国民党』結成と独裁体制の完成
2012年、犬養が政権を掌握。
議会自由法、国会思想法、国家自由報道法の『独裁三法』を強行採決し、自衛隊を『日本防衛軍』へと国軍化する。
党内の若き改革派議員・小津家高は当初犬養に接近するが、反対派を抹殺した『東京事変』の惨状を目の当たりにし、犬養の狂気と危険性を確信する。
【2018年〜2022年】アメリカの『新モンロー主義』と世界の激変
アメリカは国内の分断から孤立主義へと転換し、世界の警察を放棄して米軍撤退を急ぐ。
その空白を突き、北朝鮮が武力で朝鮮半島を統一。しかし経済封鎖を受け、統一朝鮮は中国の属国へ成り下がり、中国が東アジアの絶対的な覇権を握る。
【2026年〜2027年】中国の崩壊と小津の極秘亡命
中国の首都・北京周辺に巨大隕石が落下。指導部が一瞬で消滅し、中国は核兵器を抱えた軍閥割拠時代へと突入する。
隣国の無政府状態を口実に、犬養は『企業活動国家自由法』を発布し国家総動員体制へ移行。この異常な全体主義化を前に、小津家高はアメリカへの極秘亡命を果たす。
【2028年〜2029年】東京水没と「臨時首都・神戸」
2029年、暴走した中国軍閥の核ミサイルが東京に着弾。首都は壊滅し、水没する。
犬養らは神戸に臨時首都を設置し、軌道上の衛星レーザー兵器で該当軍閥を地図上から消滅させる。
一瞬で都市を蒸発させる日本の超兵器に戦慄したアメリカは、直接介入を避け、CIAを通じた秘密工作へと国家戦略をシフトさせる。
【2031年】瀬戸内プラント爆破テロ事件と『鉄鋼マシーナリー』の誕生
神戸臨時政府が進める瀬戸内海巨大埋め立てプロジェクトの現場で、自爆テロが発生。
鎮圧に向かっていた若き局員・戌亥迅が瀕死の重傷を負う。
国家への狂信的な忠誠心を評価された戌亥は、サイボーグ『鉄鋼マシーナリー』として蘇生。以降、最強の「国家の犬」として暗躍を始める。
【2033年〜2034年】EU・NATOによるソ連侵攻
日本の超兵器への恐怖から、欧州では『ドイツ民族復興党』が躍進。
その影響を受けたEUとNATOが、内紛で弱体化したソ連への武力侵攻を開始。ユーラシア大陸西部も激しい戦火に包まれる。
【2035年初頭】新首都『新京』誕生と『日本亡命政府』の樹立
瀬戸内海の埋め立て事業が完了し、新首都『新京』が誕生。元号が『進和』に改められる。階層的リング構造と完全監視社会による、無菌のユートピアが完成する。
時を同じくして、アメリカにて小津家高が『日本亡命政府』を樹立。
さらにCIA特務サイボーグであるエイダ・クロムウェルが、日本を内部から崩壊させるべく新京へ極秘潜入する。
【2035年中盤】指導者の死と狂気の『大国葬』
絶対的指導者であった犬養旭弘が病に倒れ、表向きの死が発表される。
しかし犬養は、自身の脳髄のみを官邸地下の生命維持装置へ移植し、永遠に近い命を手に入れていた。後継首相には中卒の成り上がりである木下英雄が指名されるが、彼は地下の犬養の意思を代行する完全な傀儡でしかない。
犬養の葬儀は新京全体を巻き込む異常な『大国葬』として執り行われ、その裏で数千人に及ぶ国家犯罪者や思想犯が、指導者への強制的殉死として秘密裏に大量処刑される。
【2035年以降】機械仕掛けの死闘と国家の破綻
大国葬の狂騒の中、物理的な肉体を捨て国家と融合した犬養の狂気。
それを知らずに反逆者を狩り続ける戌亥迅。
そして、相反する使命を負ったエイダ・クロムウェル。
彼らの死闘の裏で、完璧に見えたユートピア『新京』は、静かに破綻へのカウントダウンを進めていく。
進和元年。新首都『新京』。
かつて瀬戸内海と呼ばれた広大な水域を、膨大な泥とコンクリート、そして血の滲むような強制労働によって埋め立てて造り上げられたこの人工の大地は、完全なる階層社会を形成していた。
中央にそびえ立つ天皇の御座所と政府中枢、それを取り囲む特権階級の居住区は、気候すらも完璧にコントロールされた無菌のユートピアである。そこには常に穏やかな人工の陽光が降り注ぎ、街角のスピーカーからは国家の偉大さを讃えるプロパガンダの音楽が静かに流れている。
だが、すり鉢状に広がる都市の外周部へと向かうにつれ、その美しき虚構は剥がれ落ちていく。
新京の最果て、第十一外周区。
絶えず稼働する重工業プラントから吐き出される煤煙と、安価な合成食料工場の排気が混ざり合うこのスラム街には、いつだって油と錆の匂いがこびりついていた。
空を覆う分厚い灰色の雲から、冷たい酸性雨が降り注いでいる。
戌亥迅は、ぬかるんだ泥とコンクリートの残骸を踏みしめながら、暗い路地裏を歩いていた。
黒い強化繊維のハーフコートを身にまとった長身の青年。雨に濡れた黒髪の隙間から覗く双眸は、ガラス玉のように冷たく、一切の体温を感じさせない。
一見すると、彼はどこにでもいる少し影のある青年にしか見えなかった。
だが、すれ違う野良犬すらも、彼が放つ無機質で圧倒的な死の気配に怯え、路地の奥へと逃げ込んでいく。
戌亥の視界は、常人とは全く異なる世界を捉えていた。
彼の網膜には、常に淡い緑色のAR(拡張現実)データが明滅している。視界の端を、うつむき加減で歩き去っていく労働者の男が通り過ぎた。その瞬間、男の首の裏に埋め込まれた国民管理ICチップの信号を戌亥の機械脳がスキャンする。
網膜上に、男の氏名、年齢、労働階級、心拍数、現在のストレス値、そして『犯罪係数』が瞬時に表示される。新京の地下深くに鎮座する巨大なメインフレームと常時接続されたこのシステムにより、国家はすべての国民の行動と思想を二十四時間監視しているのだ。
男の犯罪係数は正常値の範囲内だった。戌亥は視線を外し、再び前へと歩を進める。
「――鴉・〇四。対象の捕捉を完了した」
戌亥の聴覚神経に直接、しゃがれた男の声が響いた。
国家治安維持局、暗部『鴉』の整備班長であり、戌亥のオペレーターを務める東雲からの秘匿通信だ。
「現在地より北北東へ三百メートル。廃棄された旧第三造船所の資材倉庫だ。サーモグラフィによる生体反応は七。全員が旧中国軍閥から裏ルートで流出した違法インプラントで武装している。リーダー格は指定手配犯の男だ。国家反逆罪、ならびに違法武装の容疑。捕縛の必要はない。その場で全個体を処理しろ」
「了解した」
戌亥は感情の乗らない声で短く答えると、歩く速度を上げた。
泥を蹴るたび、ズシン、ズシンと異常なほど重い足音が響く。それもそのはずだった。彼が身にまとっている人工皮膚の下には、人間の血肉など存在しない。
戌亥の身体の七十パーセントは、軍事用の超硬度合金の骨格と、高出力の人工収縮繊維で構成されている。
第三世代兵器化サイボーグ『鉄鋼マシーナリー』。
それが、国家の犬として反逆者を狩る戌亥迅の正体だった。
廃棄造船所の前に到着する。巨大なトタン屋根の倉庫は赤茶色に錆びつき、入り口の分厚い鉄扉は内側から強固にロックされていた。
戌亥は立ち止まると、黒いコートの裏側から一丁の巨大な拳銃を引き抜いた。
大口径対装甲拳銃『ヤタガラス』。
およそ人間が携帯するサイズではない。普通の人間が引き金を引けば、反動で腕の骨が肩から粉々に砕け散るほどの威力を秘めた、化け物のような銃だ。戌亥はその重い鉄塊を片手で軽々と持ち上げ、銃口を鉄扉の鍵穴付近に押し当てた。
躊躇いはない。即座に引き金を引く。
鼓膜を突き破るような爆音。徹甲弾が放たれ、鉄扉のロック機構を根こそぎ粉砕した。紙屑のようにひしゃげ、吹き飛んだ扉の破片を鋼鉄の腕で払い除け、戌亥は静かに薄暗い倉庫の中へと踏み入った。
潮風と、饐えたような生活臭が鼻をつく。
「なんだ貴様は!」
倉庫の奥、積まれたコンテナの陰から怒声が響いた。
同時に、強烈なマズルフラッシュが闇を切り裂く。七人の武装テロリストたちが、侵入者に向けて一斉にアサルトライフルを掃射したのだ。
凄まじい鉛の暴風が、一直線に戌亥の身体に殺到する。
回避行動すらとらない戌亥の黒いコートが、ボロ布のように引き裂かれていく。数発の銃弾が彼の顔面に直撃し、精巧に作られていた青年の人工皮膚が、まるで剥がれかけた塗装のように弾け飛んだ。
だが、血は一滴も流れない。
銃撃が止む。
硝煙の向こう側で、微動だにせず立ち尽くす戌亥の姿を見たテロリストたちは、息を呑んで凍りついた。
裂けた頬の皮膚の奥から覗いていたのは、銀色に鈍く光る超硬度合金の無機質な骨格と、赤く点滅する人工の眼球だった。
「ひっ……化け物、か……ッ!」
「治安維持局の、暗殺部隊だ! 殺せ! 撃ち殺せェ!」
恐怖に顔を引きつらせたテロリストの一人が絶叫し、再び引き金に指をかけようとした。
遅い。
戌亥は無表情のままヤタガラスを構え、機械的な精密さで連続して引き金を引いた。
轟音。一発目の弾丸が、絶叫した男の上半身に直撃する。
肉体を貫通するのではなく、運動エネルギーのすべてが男の胸郭で炸裂した。人間の臓器と骨が原型を留めず粉砕され、赤い霧となって背後のコンテナにぶちまけられる。上半身の半分を文字通り消し飛ばされた男は、悲鳴を上げる間もなくその場に崩れ落ちた。
間髪入れず、二発目、三発目、四発目が放たれる。
戌亥の視界には、テロリストたちの生体反応、筋肉の収縮の兆候、武器の射線がすべて緑色のワイヤーフレームで可視化されていた。彼らが次にどこへ逃げ、どう動くか、コンマ一秒先の未来まで完全に予測できている。
戌亥が銃口を向けるたびに、轟音と共にテロリストの肉体が弾け飛び、四肢が宙を舞い、血の雨が降った。
開始からわずか数秒で、四人がただの肉塊に変わった。
残るは三人。
「ふざけるな! 国家の犬め!」
生き残っていたテロリストのリーダー格が、血走った目で咆哮を上げ、コンテナの陰から猛然と突進してきた。
彼の右腕から肩にかけての肉体は、異常に肥大化した違法な機械鎧に置換されている。その先端からは超高熱の熱光学ブレードが伸び、周囲の湿った空気をチリチリと歪ませていた。
「自由を奪い、俺たちから搾取し続ける国家が正しいはずがあるか! 配給の合成食料じゃ、ガキの腹を満たすことすらできねえんだよ! 犬養の狂った世界をぶっ壊してやる!」
男の怒りは、最もなものだった。
国民は番号で管理され、底辺で死ぬまで過酷な労働を強いられる。少しでも不満を口にすれば、思想矯正施設という名の地獄へ送られ二度と帰ってこない。この美しき新京という箱庭は、数え切れないほどの死体と理不尽の上に成り立っている。彼らは生きるために、国家に牙を剥くしかなかったのだ。
だが、男の血を吐くような叫びは、戌亥の心に何の波紋も生じさせなかった。
戌亥の視界に表示された男のステータスには、『犯罪係数:クラスA』『即時処分対象』という赤い警告文字が点滅している。国家のメインフレームが敵と定めたのなら、それは敵だ。そこに個人の感情や、相手の正義が入り込む余地は一ミリたりとも存在しない。
男の振り下ろした高熱のブレードが、戌亥の頭部を真っ二つに両断しようと迫る。
戌亥は避けることすらしなかった。彼はおもむろに自身の左腕を頭上に掲げ、男の渾身の一撃を直接受け止めた。
ギィィィン! というけたたましい金属音と、目も眩むような火花が散る。
戌亥の左腕の装甲が熱でわずかに赤熱したが、切断には至らない。
「な……馬鹿な。俺のブレードを、ただの装甲で……!?」
驚愕に目を見開くリーダーに向けて、戌亥は自らの右腕を突き出した。
彼の右腕の内部機構が、ガチャリと重い音を立てて解放される。肘から先の装甲が前方にスライドし、内部から極太の鋼鉄の杭が姿を現した。
零式・重圧粉砕腕。
通称、パイルバンカー。
「国家反逆罪。これより刑を執行する」
機械のように無機質な声と共に、戌亥は右腕の先端を男の分厚い機械鎧の胸部に押し当てた。
カシャッ、と内部で巨大な火薬カートリッジが装填される音が響く。
「ま、待て――」
ドガンッ!!
倉庫全体を揺るがすような大爆発が起きた。
至近距離で炸裂した特殊空砲の絶大なエネルギーが、鋼鉄の杭を恐るべき速度で射出した。
杭は男の分厚い違法インプラントの装甲を紙のように貫き、その奥にある心臓、肺、脊髄を完全に粉砕して背中へと突き抜けた。
圧倒的な衝撃波により、男の身体は背後のコンテナに叩きつけられ、胸に巨大な風穴を開けたまま、原型を留めない赤い染みへと変わった。
残された二人のテロリストは、リーダーが文字通り粉砕された光景を前に完全に戦意を喪失した。
彼らは手放したアサルトライフルを拾うこともせず、仲間たちの血で赤く染まったコンクリートの床にへたり込み、腰を抜かしていた。
戌亥はパイルバンカーの機構を戻し、空になったカートリッジをチリン、と床に排莢すると、ゆっくりと彼らに歩み寄った。
「た、助けてくれ……俺たちはただ、まともな飯が食いたくて……家族が……」
涙と鼻水を流し、血溜まりの中で手を合わせて命乞いをする男たち。
戌亥は彼らを見下ろし、冷たい人工の眼球で首元のICチップをスキャンした。メインフレームとの照合がコンマ数秒で完了し、視界に『対象確認。例外なく処分せよ』という最終命令が表示される。
戌亥はヤタガラスの銃口を、命乞いをする男の眉間に向けた。
「やめ――」
銃声が二発、連続して倉庫の静寂を切り裂いた。
二つの頭部が弾け飛び、物言わぬ肉の塊が床に転がる。
完全な静寂が戻った。
むせ返るような血と焦げた肉の臭いが、倉庫の中に充満している。
「東雲。全対象の沈黙を確認した。任務完了だ」
戌亥が虚空に向けて呟くと、すぐに通信が入った。
「……了解した。ご苦労だったな。回収部隊(掃除屋)を回すから、お前はすぐに帰投しろ。顔の人工皮膚が派手に剥がれているぞ。そのまま表を歩けば、善良な市民が怯える」
「分かっている」
通信を切り、戌亥はヤタガラスをコートの裏に収めた。
足元の生温かい血溜まりに、自分の顔が映っている。
半分は、端正な人間の青年の顔。もう半分は、皮膚が剥がれ落ちて剥き出しになった、凄惨で無機質な機械の頭骨だ。
戌亥は自身の剥がれた皮膚の断面に触れる。
痛みはない。痛覚は任意で完全に遮断されている。
数年前、レジスタンスの爆弾テロによって彼自身の生身の肉体は死んだ。今ここにあるのは、国家の命令を受信し、それを完璧に実行するためだけに作られた殺戮の道具だ。
自由など必要ない。
自らの意思など必要ない。
すべては、偉大なる国家の安寧のために。
戌亥迅は背を向け、遺体の転がる倉庫を後にして、再び降りしきる酸性雨の中へと歩き出した。
冷たい雨が、彼の鋼鉄の身体にこびりついた血の汚れを無慈悲に洗い流していく。
美しくも狂った国家の最底辺で、鋼の猟犬は血の味を噛み締めながら、ただ次の命令だけを待ち続けていた。




