↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鋼の狂犬  作者: 八咫 日本


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
27/101

第27話 戦友の境界線

 治安維持局本部、暗部『鴉』専用メンテナンスルーム。

常に冷却ガスの稼働音が響く無機質なその空間に、今は戌亥迅ただ一人が静かに佇んでいた。東雲班長が交換用の人工収縮繊維を取りに席を外している、わずかな空白の時間。

整備台に腰を下ろした戌亥の網膜ディスプレイには、直近の任務における膨大な戦術データが高速で羅列されていた。

その最下層。システムの中枢に近い領域に、一行のエラーログがひっそりと記録されている。

『Error: Processing Delay 0.12sec - Subroutine Conflict』

穏健派官僚を暗殺した際に生じた、0.1秒の動作遅延。

国家の所有物であり、完全な兵器である鉄鋼マシーナリーにとって、自身の観測データを改竄・隠蔽することは、国家システムに対する明確な『背信行為』を意味する。機械に秘密など存在しない。情報を隠匿し、嘘を吐くのは、自我を持つ「人間」だけだ。

だが戌亥は、瞬き一つすることなくアクセス権限を上書きし、そのエラーログを指定した。

自らの胸の奥底に生じた泥のような「躊躇い」。それが何なのか、彼自身にもまだ解析できてはいない。ただ、これをシステムに報告してはならないという、直感にも似た名状しがたい衝動だけがあった。

『Log Deleted(消去完了)』

静かな電子音と共に、ログが完全に消滅する。

それは、完璧な猟犬であった男の中に「自我」という名の致命的なバグが決定的に根を下ろした、重く、静かな反逆の瞬間だった。

その直後、軽い電子音と共に自動ドアが開いた。

「あーあ、息が詰まるわ、ホンマ」

気怠げな関西弁と共に現れたのは、御堂牡丹だった。彼女は手にした微糖の缶コーヒーのプルタブを弾き開けながら、戌亥の隣の整備台に無造作に腰を下ろした。

「最近、木下局長をはじめ上の連中が、軍の『金剛』と張り合っててピリピリしとるやろ。現場のウチらまでとばっちりで、やってられへんで」

牡丹はコーヒーをあおりながら、まるで世間話でもするように笑いかける。

いつもなら、戌亥は彼女の軽口に対して「任務に支障はない」と、機械的に即答するはずだった。

「…………」

だが、戌亥の返答は、ほんのわずか――コンマ数秒だけ遅れた。

バグの隠蔽。システムへの背信。その自覚なき「自我」の波紋が、彼の論理回路に目に見えないほどのノイズを生んだのだ。

「……上がどうであろうと、俺たちのやることは変わらない」

戌亥が短く返したその時、牡丹は缶コーヒーを口に運ぶ手をピタリと止め、横目で戌亥の横顔をじっと見つめた。

共に幾多の死線を潜り抜けてきた彼女の鋭敏なセンサーは、戦友の返答の間に生じた「普段とは違う空白」を、そしてその奥にある決定的な異変を、正確に感知していた。

沈黙が落ちる。

冷却ガスの低いモーター音だけが、二人の間に流れた。

もしここで彼女が問い詰めれば、あるいは報告ボタン一つを押せば、戌亥は即座に異端として解体されるだろう。

しかし、牡丹は視線を前に戻すと、ふっと小さく息を吐いた。

「……せやな。ウチらは首輪の鎖の長さで、的を撃ち抜くだけや」

彼女はいつもの飄々とした笑みを浮かべ、再びコーヒーを喉に流し込んだ。

深くは踏み込まない。

互いの命を預け合う戦友だからこそ、暗黙のうちに引かれた越えてはならない境界線がある。彼が自ら口を開かない限り、彼女が無理にその深淵を覗き込むことは絶対にない。それが、狂った国家の中で生きる猟犬同士の、不器用で心地よい信頼の形だった。

激しい死闘の合間に訪れた、束の間の静寂。

二体のサイボーグは、それぞれの胸の内に異なる思いを抱えながら、ただ並んで冷たい空気の底に沈んでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。