第26話 交差する幻影
半壊した旧地下浄水施設の分厚い隔壁を、戌亥迅が強引に蹴り破って外へ出る。
紫煙を上げる彼の右半身はレーザー網によってドロドロに溶け、チタン合金の骨格が剥き出しになっていた。しかし、その痛々しい姿を出迎えたのは、救護班でも木下局長でもなく、計算し尽くされた陣形で施設を包囲する国防省直轄『金剛』の部隊だった。
「治安維持局の最高位執行官。随分と非効率な罠の抜け方ですね」
部隊の中央で、連隊長である権藤鉄幹が冷徹な視線を戌亥に向けていた。
権藤もまた、独自の演算からこの偽装拠点の座標を割り出していたのだ。木下の「軍より先に手柄を」という焦燥など、権藤の完璧な数式の前では最初から意味を成していなかった。
「自らの装甲を削り、力技でトラップを抜ける。それは論理ではなく、ただの蛮勇です。やはり君たちは――」
権藤の理知的な言葉が最後まで紡がれることはなかった。
上空の暗がりから、突如として銀色の閃光が音もなく降り注いだのだ。
殺気すら伴わない完全な奇襲。
未知の流体金属が鋭利なブレードに変形し、戌亥と権藤の間を分断するようにアスファルトを深く抉り取る。
「――待ち伏せの待ち伏せ、ってところかしら」
何もない空間が陽炎のように歪み、光学迷彩を纏ったCIAの特務サイボーグ、エイダ・クロムウェルがその輪郭を微かに現した。
戌亥は激しく損傷した身体を軋ませ、反射的に『ヤタガラス』を抜く。
だが、それよりも権藤の反応の方が遥かに速く、そして無機質だった。
彼は奇襲を受けても一切の驚きや動揺を見せず、流れるような動作で右の重装甲義腕をパージした。背部のウェポンラックから六銃身大型ガトリング砲がせり出し、空いた右肩のジョイントへ瞬時に接続される。
「光学迷彩。光の屈折率の誤差、風速、および攻撃軌道から対象の現在座標を特定。……面制圧を開始します」
権藤が淡々と数式を読み上げると同時、六つの銃身が狂ったような回転音を響かせた。
それは、暴任せの乱射などではない。権藤の放つ弾幕は、エイダの回避ルートを数学的に完全に塞ぐための「檻」だった。
数千発の徹甲弾が、寸分の狂いもなく計算された等間隔の幾何学模様を描き、空間そのものを削り取っていく。逃げ場を失わせ、確実に標的をすり潰すための、あまりにも美しく、そして恐ろしい弾道の網目。
(……なんて隙のない弾幕。遊撃の余地が全くないわね)
暗闇の中、流体金属のシールドを展開して弾雨を凌ぎながら、エイダは冷徹に戦況を分析していた。
あの巨漢のサイボーグ(権藤)の動きには、一切の感情も、迷いも、そして「遊び」がない。弾道計算は完璧であり、行動予測にエラーが存在しない。
(完全にプログラムされたつまらない機械、ね。計算通りすぎて、逆に攻略は容易いけれど……問題は――)
エイダの視線が、弾幕の嵐の向こう側に立つもう一体のサイボーグへと向けられた。
装甲の半分を失い、駆動系から火花を散らしている戌亥迅。
彼は権藤の美しい弾幕に加わることはなく、ただ一点、エイダがこの完璧な包囲網を破って脱出するであろう「唯一の死角」にヤタガラスの銃口をピタリと合わせ、無表情のまま引き金に指をかけていた。
計算式ではなく、ただ命を刈り取るためだけの純粋な殺意と直感。
(あの野良犬……狂っているが予測不能な野良犬。あっちの方が、よほど厄介だわ)
権藤の完全な論理と、戌亥の狂気じみた直感。
相反する二つの脅威を同時に相手にするのは、ミッションの完遂においてリスクが高すぎるとエイダのシステムは弾き出した。
「今日は顔見せだけにしておくわ。優秀な番犬さんたち」
鈴を転がすような声だけを空間に残し、エイダは流体金属を素早く回収すると、光学迷彩の出力を最大にして夜の闇へと完全に溶け込んだ。
対象の熱源反応と質量データの完全なロスト。
それを確認した権藤は、ピタリとガトリング砲の回転を止めた。
「対象の離脱を確認。これ以上の弾薬の消費は非効率と判断します」
静寂を取り戻した廃工場地帯。
権藤は銃身から白煙を上げるガトリングを下ろし、一切の感情を交えずに振り返った。
その視線の先で、戌亥はヤタガラスを下ろすこともなく、ただ暗闇の彼方を赤い単眼レンズで無言のまま見据えていた。新京の闇の底で、三つの異次元の兵器が初めて交差した夜だった。




