第24話 最初のノイズ
新京の上層区に位置する高級居住ブロック。
その一室で、戌亥迅はヤタガラスの重い銃口を、床に這いつくばる初老の男へ向けていた。
男は体制内部の穏健派官僚。海外スパイに新京の機密情報を横流ししたという国家反逆の容疑により、暗部である鴉に極秘の暗殺指令が下されていた。
部屋の警備システムはすでに物理的に沈黙し、護衛のプライベート・セキュリティたちも部屋の隅で物言わぬ肉塊へと変わっている。
男の腹部からは赤い血が流れ、もはや逃げ場はどこにもない。戌亥の網膜ディスプレイには、対象の生体反応と「処刑対象」の赤いマーカーが冷徹に明滅している。
通常であれば、標的が命乞いの言葉を発するよりも早く、20ミリ徹甲弾がその頭部を吹き飛ばしているはずだった。
だが、男は自らの命を惜しんで懇願するのではなく、傍らのデスクから血濡れた手で一枚のアナログ写真を取り落とし、それを必死に庇うように床へ抱え込んだ。
写真には、彼によく似たあどけない笑顔の少女が写っている。
「殺してくれ……私の命はどうなってもいい……ッ!」
男は戌亥の巨大な銃口から目を逸らさず、血の涙を流しながら絶叫した。
「だが、娘だけは、娘だけは助けてくれ! あの子は何も知らないんだッ!」
その悲痛な叫びが、音声データとして戌亥の聴覚センサーに入力された瞬間だった。
突如、戌亥の視界を覆うインターフェースに、未知の文字列が滝のように走った。
Error: Unidentified Emotional Construct Detected
Warning: Logic Circuit Conflict
Subroutine [EMPATHY_REMNANT] is trying to initialize
System Override... Processing Delay...
チッ、という微かな電子音。
戌亥の人工筋肉に伝達されるはずの「引き金を引け」という絶対命令が、システム内で発生した謎のノイズに阻害され、指の動きが停止した。
痛覚でも、物理的な損傷でもない。ただ男の「娘を想う悲哀」という非合理的なデータが、完全な機械であるはずの戌亥の思考回路に、論理的説明のつかない泥のような「躊躇い」を生み出したのだ。
0.1秒。
人間の感覚では瞬きにも満たないその空白の時間は、演算を極めた鉄鋼マシーナリーにとっては永遠にも等しい致命的なエラーだった。
だが、強固な治安維持局のメインフレームが即座にノイズを強制終了させ、システムは正常な殺戮プログラムへと復帰する。
轟音。
ヤタガラスが火を吹き、官僚の上半身が赤い霧となって弾け飛んだ。
硝煙が立ち込める中、真っ二つに裂けた少女の写真が、血の海となった床へヒラヒラと舞い落ちる。
戌亥は銃を下ろし、無表情のまま網膜の隅で点滅を続ける『処理遅延 0.12sec』というエラーログを見つめた。
完璧な機械の奥底で、決して存在してはならない人間性の残滓が産声を上げた事実など、孤独な猟犬自身にすらまだ理解できるものではなかった。




