第20話:幻影との邂逅と死闘
新京の絶対的な聖域、官邸地下へと繋がる第一防壁内・中枢サーバー群。
国家のすべての情報を統括するその広大な空間は、絶対零度に近い冷却ガスと青白いLEDの光に満ちた、完璧な無菌室であるはずだった。
だが今、分厚い隔壁は紙細工のように切り裂かれ、メインフレームには見たこともない規格のデータ・ケーブルが深々と突き刺さっていた。
重い足音を響かせ、戌亥迅がサーバー群の広間に踏み込む。
網膜ディスプレイに表示された侵入者の熱源反応は、サーバーの裏側でピタリと止まっていた。戌亥は足音を殺すこともなく直進し、右腕の大口径対装甲拳銃『ヤタガラス』の銃口をその座標へと向ける。
「そこだ」
引き金を引く。20ミリ徹甲弾が轟音と共にサーバーラックを粉砕した。
だが、確かな手応えは無い。
次の瞬間、戌亥の左側方、何もないはずの「空間」が陽炎のように歪んだ。
「……随分と野蛮なノックね。これが日本の最高位執行官の挨拶かしら」
鈴の転がるような、それでいて絶対零度のように冷たい女の声。
光学迷彩の皮膜がシュルリと解け、背景に完全に溶け込んでいた一つの影が姿を現した。
女だった。外見年齢は20代半ば。美しいブロンドの髪を束ね、一切の無駄がない漆黒のタクティカルスーツに身を包んだアメリカ人。
CIA特殊作戦部『ファントム・スレッド』所属、エイダ・クロムウェル。
戌亥のシステムが瞬時に対象をスキャンするが、返ってくるのは「解析不能」のエラーコードのみ。彼女の身体を構成する技術は、新京のデータベースの何世代も先を行く未知のテクノロジーだった。
戌亥は警告も対話も行わない。女の姿を認識した瞬間、即座にヤタガラスの引き金を連続で引いた。
秒間数発の徹甲弾の嵐。人間の反射神経では絶対に回避不可能な弾道。
だが、弾丸がエイダの肉体を捉える直前、彼女の両腕が泥のように形を崩し、瞬時に銀色に輝く巨大な流体金属の盾へと変形した。
キィィィィンッ!
甲高い金属音が鳴り響く。戌亥の徹甲弾はシールドに弾かれるのではなく、波紋を打つ流体金属の「柔」の性質によって運動エネルギーを完全に吸収され、床へと無力に滑り落ちた。
「直線的すぎるわ。本当に、ただの飼い慣らされた『犬』なのね」
エイダが冷笑を浮かべた瞬間、彼女の右腕のシールドが瞬時に極薄の高周波ブレードへと再構成された。
彼女の姿がブレる。速い。鉄鋼マシーナリーである戌亥の光学センサーすら一瞬見失うほどの、文字通り「幻影」のような超加速。
戌亥は本能的に左の義腕を盾にするが、遅かった。
銀色の閃光が走る。
火花が散り、戌亥の堅牢なチタン合金の装甲が、まるで熱したナイフでバターを切るように、音もなく深く切り裂かれた。
「――ッ」
戌亥の巨体が大きく後方へ弾き飛ばされる。左腕の装甲がパックリと割れ、内部の人工筋肉繊維と駆動軸が完全に露出していた。大量の青黒い合成血液が噴き出し、網膜ディスプレイがかつてない深刻なダメージ・アラートを明滅させる。
(装甲を、一撃で……?)
これまでの敵は、束になってようやく戌亥の装甲を削る程度だった。だがこの女は、たった一振りで鉄鋼マシーナリーの骨格にまで刃を届かせたのだ。
「どうしたの? 吠えるだけが取り柄?」
エイダが流体金属の刃を翻し、再び肉薄してくる。
戌亥はヤタガラスを捨て、最大の武器である零式・重圧粉砕腕を展開した。人工筋肉の出力を限界まで引き上げ、突進してくるエイダの胸部めがけて、極太の鋼鉄杭を射出する。
ズガァァァァンッ!!
空間を揺るがす炸裂音。すべてを粉砕してきた必殺の一撃。
だが、エイダの身体は杭が触れる寸前で水のようにしなり、物理法則を無視した軌道で横へと滑った。パイルバンカーの凄まじい衝撃波だけが虚空を穿ち、背後のサーバー群を粉々に吹き飛ばす。
「馬鹿力だけの剛腕。……当たらなければ意味がないわ」
すれ違いざま、エイダの両腕から鞭のように伸びた流体金属の触手が、戌亥の右脚に巻き付いた。そのまま凄まじい遠心力で投げ飛ばされ、戌亥は巨大なコンソールに激突する。
システムダウンを警告する赤い文字が視界を埋め尽くす。
装甲はズタズタに引き裂かれ、火花と合成血液を垂れ流す戌亥。圧倒的な「敗北」の二文字が、物理的なダメージとして彼のシステムに刻み込まれていく。
彼がかつて経験したことのない、明確な「苦戦」。
戌亥の直線的で重厚な「剛」の力は、エイダの変幻自在で最新鋭の「柔」の前に、ことごとく無力化されていた。
それでも、戌亥の感情回路は絶望を演算しない。
彼は無表情のまま、ちぎれかけたケーブルを引き抜き、再び立ち上がろうと前傾姿勢をとる。破壊されるまで標的に食らいつく。それが国家の犬としてのプログラムだからだ。
エイダがとどめの一撃を放とうとブレードを振り上げたその時、彼女の耳元の通信機が短く鳴った。
『――データの吸い出し完了。撤退せよ』
エイダの動きがピタリと止まる。
彼女は倒れ伏す血まみれの戌亥を見下ろし、その瞳に僅かな哀れみの色を浮かべた。
「……今日はここまでね。狂った国家の、哀れな奴隷さん」
次の瞬間、エイダの身体を再び光学迷彩の皮膜が覆い、彼女の姿は完全な透明へと溶けて消えた。
空間には、チリチリと焼け焦げる配線の匂いと、静かな冷却ファンの音だけが残された。
完全に一人取り残された中枢サーバー群。
戌亥は床に膝をついたまま、滴り落ちる自身の合成血液を見つめていた。
感情の動揺はない。だが、彼の戦術データベースには、これまでとは全く異なる「規格外の強敵」の存在が、決して消えない深い傷痕とともに焼き付けられていた。
新京の無菌の壁は破られた。
孤独な猟犬の、本当の死闘がここから始まろうとしていた。




