第10話:忍び寄る影
官僚とブローカーの始末を終え、データ流出の危機は去ったかに見えた。しかし、本部でのサルベージと解析の結果、戌亥の網膜ディスプレイに不吉な警告が打ち出される。
「一部の暗号キーが物理メディアに書き出され、すでにオフラインで持ち出されている」
データの断片はマイクロチップ化され、外部の工作員の手に渡ろうとしていた。受け渡しポイントは新京郊外の巨大工業港湾施設。戌亥は即座に愛機を駆り、海風が吹き荒れるコンテナ群の迷宮へと単独で急行した。
だが、現場の空気はこれまでと全く異なっていた。
ストリートのギャングや企業警備員たちが発するような、粗暴な殺気や足音、下品な通信のやり取りが一切ない。巨大なクレーンが立ち並ぶ暗闇の中には、不気味なほどの静寂だけが支配していた。
直感的な悪寒が戌亥の背筋を駆け抜けた瞬間、空間そのものが歪んだ。
光学迷彩によるステルス状態が解除され、何もない空間から突如として黒ずくめの戦闘部隊が現れる。彼らは一言も発することなく、完璧なフォーメーションで戌亥の死角を突いた。
足元に転がってきた円筒形のデバイスを見た瞬間、戌亥のサイボーグボディが本能的なアラートを鳴らす。
強烈な青白い閃光と衝撃波が弾け、戌亥の視界が激しくノイズに塗れた。電磁パルス(EMP)手榴弾。ヤタガラスの駆動系に深刻なエラーコードが滝のように流れる。
続く銃撃は、頭部や胸部といった装甲の厚い部位ではなく、関節部の駆動系やセンサーの隙間という、サイボーグ特有の急所だけを的確に狙い撃ちにしてきた。無駄のないカバーリング、ハンドサインのみで行われる意思疎通、そして対義体用の特殊徹甲弾。
(こいつら、只の傭兵じゃない。国家規模の訓練を受けた、本物の工作員だ……!)
かつてない苦戦だった。人工筋肉が硬直して悲鳴を上げ、外装のアーマーが次々と削り取られていく。これまでの無双状態が嘘のように、戌亥は防戦を強いられた。
しかし、戌亥は倒れなかった。一時的な機能不全を、ヤタガラスの規格外の出力と生存本能という名のタフネスで強引にねじ伏せる。機動力を取り戻した戌亥は、銃弾を浴びながらも肉迫し、圧倒的な膂力で黒ずくめの部隊を次々と破壊していった。どれほど戦術が優れていようと、最後は個の暴力が戦線を崩壊させた。
だが、敵の真の狙いは戌亥の殲滅ではなかった。
部隊のリーダー格が、自らの命を捨てる覚悟で戌亥の前に立ちはだかり、巧みな近接格闘で執拗に時間を稼いできたのだ。相打ち覚悟の凶刃を躱し、戌亥がリーダーの胸に致命の一撃を突き入れたその時、背後の海面から甲高いモーター音が鳴り響いた。
ステルス仕様の小型高速艇が、夜の海へと滑り出していく。
その甲板には、夜風に長い髪をなびかせるひとつの影があった。距離と暗闇に阻まれ顔までは見えない。しかし、その手には間違いなく暗号キーのチップが握られており、そのシルエットから放たれる気配は、今まで戦ってきた誰よりも冷たく、底知れなかった。
精鋭の工作員たちは、彼女を逃がすためのただの囮だったのだ。
追撃は不可能だった。
機能低下を知らせるアラートが鳴り響く中、戌亥は暗い海へと消えていく航跡をただ見つめるしかなかった。
ターゲットの逃亡。それは、戌亥にとって任務の「部分的な失敗」を意味する、初めての出来事だった。これまでの圧倒的な力による解決が通用しなかったという現実が、冷たく重くのしかかる。
新京という強固な壁の外側から、まだ見ぬ巨大な影が確実に忍び寄ってきている。あの女は何者なのか。背後にいる国家とは。
冷たい潮風が、焦げた硝煙の匂いを洗い流していく。これまでの戦いは、閉鎖都市の中でのほんの小競り合いに過ぎなかった。国境を越えた巨大な謀略が、今まさに始まろうとしている。戌亥は鈍く痛む右腕を庇いながら、暗い水平線を静かに睨みつけた。




