【8】日曜はパンの日
部屋の外に出てまず思ったのは、この建物が新築らしいということだった。壁は染み一つなく、真新しい塗料の匂いがする。同じ階には他にも部屋があるが生活感は感じられない。
突き当たりにエレベーターが見える。
「エレベーターの中には防犯カメラがあるだろうし、気付かれて電気を止められればまた閉じ込められてしまう」
エレベーター横の表示からここが三階だと確認できた。今現在、エレベーターが停まっているのは一階だ。
「階段に行くにもエレベーター前を通らないといけない、か」
運良く防犯カメラに映らずに一階まで階段で降りられたとしても、マンションの玄関には他の見張り役がいるかもしれない。
脱出経路としてエレベーターも階段も却下となると、残されたのは窓だけだ。
「……どうしよう」
三階くらいの高さなら、雨樋を伝って降りられるかもしれない。落ちてしまったとしても死ぬことはないだろう。
「試してみるしかないよね」
自然光の取り込み目的で造られた小窓を「お願い、開いて」祈るような気持ちで開けた。
「ぎりぎり通れそう」
窓枠に手をかけたその時——
〈会合終了。首尾は問題ないか報告せよ〉
奪ってきた無線機から声が響いた。
気絶させた男性は二時間後だと言っていたのに、予定が繰り上がったのか。この場所に戻るまでにどのくらいの時間がかかるのかわからないが、大変不味い状況である。
慌てて窓に身体を滑り込ませて、外の雨樋に手を伸ばした。
「わっ!?」
予想外なことにその場所には先客がいた。
「お、お嬢様!?」
その先客も私と同じように目を丸くしていたが「シッ!」すぐに唇に人差し指を当てる。
——私を捕まえないのはガブリエーレファミリーの構成員ではないのだろうか。
疑いの目を向ければ、金髪の美女は片手で器用にネックレスを外して渡してきた。ペンダントトップに彫られた獅子の紋章には見覚えがあった。声を出さずに頷いてネックレスを彼女に返す。
長い金糸を揺らして先行する女性に続いて地面に降り立った。そのまま手を引かれて、建物の裏手に案内される。
「えっ!?」
逃げてきたマンションから死角になる場所には、見慣れたベーカリーのロゴが塗装されたミニバンが停まっていた。
基本的に和食を好む祖父母が日曜日の朝食だけは必ずパンを買ってくる——長年ずっと不思議に思っていた謎が解けた。
「何か持ってきたものはありますか?」
澄んだ青い瞳の女性は手の平を広げて、私に差し出している。
「あ、はい。無線機を」
私が腰に挟んでいた無線機を渡すと、彼女は素早く分解し始めた。
「やはりGPS探知機が装着されていますね」
「壊しますか」
「いえ、GPSを利用して時間稼ぎをしましょう。私は仕込みをして戻るのでお嬢様は助手席で待っていてください」
GPS探知機だけを取り出した女性は、流れるような動作で私を助手席までエスコートしてくれた。
「……私って、本当に何も知らされてなかったんだ」
今までに祖父母が両親と電話やメールをしているところは見たことがなかった。まさか国際的に展開されているチェーン店のベーカリーがレオンハルト家との連絡手段だったとは。何と原始的な方法だろうか。
「お待たせしました。お怪我はありませんか?」
二分も経たずに戻ってきた女性は車を発進させる。
「擦り傷くらいなので大丈夫です」
「あとで手当てさせていただきます」
濃い色のスキニーパンツに革のジャケットというシンプルな服を着こなしている彼女はモデルのように美しい。すらりとした足がアクセルを踏み込み、速度超過で違反切符を切られない範囲まで加速させる。
「撹乱目的として同じ車を都内と近隣県に走らせています。GPSと合わせて多少の時間稼ぎにはなるでしょうが、先を急ぎましょう」
「あなたは父の?」
「ええ、その通りです。ご当主の命令でミアお嬢様をお迎えにあがりました」
信号待ちの間に彼女は「運転をしながらで申し訳ございません」私に向かって頭を下げた。
「私はあなた様の護衛を仰せつかりました。ミシェル・クロフォードと申します」




