第五話 均衡を保つ一族
ぼんやりと視界に色が戻ってくる。
「……う、いたい」
再び見慣れない天井だった。頸あたりを強打されたせいで、未だに鈍く痛む。
——申し訳ないと謝っていたわりに容赦がなかったな。手加減を知らないのかな。
痛みを発する場所に手を伸ばして擦っていると意識がはっきりしてきた。
「あれ、そういえば、縛られてない」
いつの間にか手足が自由に動かせるようになっている。ゆっくりと上体を起こすと、大きなベッドに寝かされていたことに気付いた。壊れた椅子や傷だらけの柱が見当たらないので、最初に目覚めた部屋とは別の場所に運ばれたようだ。
髪の毛は綺麗に洗われて乾かされた後だった。
「えっ、もしかして」
恐る恐るシーツを捲る。バスルームで濡れてしまったニットとデニムパンツからバスローブに着替えさせられていたが、普段の付け心地と変わらないのでもともと身に付けていたランジェリーは脱がされなかったようだ。
「……セーフ!」
サンダルウッドとムスクの残り香が鼻を掠める。
「あの人はどこへ?」
人の気配を探ってみたが、この部屋には私の他には誰もいないようだった。
アンドレアと名乗った緑の瞳を持つ男性。彼の名前や外見からも日本人ではないということはわかりきっていた。落ち着いた立ち居振る舞いからおそらく年齢は私よりも上だろう。
僕の部下がと話していたことから彼こそが誘拐を企てた首謀者あるいは首謀者に近しい人物なのか。
「私と結婚したいってことは、レオンハルトの名を利用する気か」
——そう、狙われた理由は私の出自に関係したものだ。
「私たちの愛しい、ミア。遠く離れていてもずっと大切に想っているからね。広い世界を自由に羽ばたいておいで」
それこそが十数年もの間、両親と顔を合わせていない理由だった。
私は両親や祖父母に守られるがまま、今まで平穏な日常を生きてきたけれど、遂に向き合うべきときが訪れたのかもしれない。
◆
欧州有数の名家であるレオンハルト家は、時代や情勢を問わず、欧州で絶対中立の誓いを掲げている。
世界情勢によってその中立がどこに定められるのか、とても複雑なところではあるが、極端な例を挙げるならば、治安維持機関や反社会的組織のどちらにも味方をせず、当主の指揮のもと独自の判断で行動する一族である。
長い歴史のなかで培われたレオンハルト家当主が握る人脈や財力は、欧州の均衡を保っている力関係をいとも簡単に崩壊させてしまうだろうと言われている。であるだろう——と予想されているのは、未だにその誓いが破られたことがないためである。
しかし、強大な力ゆえにレオンハルト家は表と裏のどちらの社会からも秘密裏に狙われてきた。「当主の弱みを握って我らに従わせよ」と卑劣な手段を厭わない輩も数多くいる。
そして私は、現当主であるノア・レオンハルトの血を受け継いだ娘である。
レオンハルト家の慣習として、一族に生まれた子が女児だった場合には、表舞台に姿を現すことはなくひっそりと育てられる。また、男児だった場合には、己の立場を理解して身を守ることができる年齢まで成長すると後継者候補として世に公表される。
それらの特殊な措置は、子どもの命が脅かされる可能性をできる限り少なくする目的でとられている。つまり、レオンハルト家の子どもは世間一般には顔が知られていないということだ。
そのように秘密の多い一族の中でも特に、私の両親はふたりで目立たずに愛を育んだらしく、現当主が婚礼の儀を執り行ったということは世間に公表されたが、彼の配偶者の姿形は一度も公開されていない。
そんな両親のもとに生まれた私は、のびのびと育ってほしいという母の希望と、心配性で過保護な父の意向で、幼少期に欧州を離れて、母方の祖父母に育てられた。そして、現在に至る。
本来であれば、レオンハルト家でもごく一部の信用できる人物しか、私がノア・レオンハルトの娘であるという情報を知り得ないはずである。
いったい、どこから重要機密が漏れたのか。味方がひそかに敵に通じている、つまり内通者がいる可能性が高い。
——何が起きているんだろう。
私はレオンハルト家の内情を知らないため、ただ不穏な空気が漂っていることしかわからなかった。




