第五十三話「高鳴」
嵐のようなお嬢様一行が去り、ミニドリップにようやく静寂が戻る。
窓の外はすっかり日が落ち、夜の帳が下りていた。古びた壁掛け時計の短針は、十九時を少し回ったところを指している。
私はカウンターの中で柏木さんたちが使ったグラスを丁寧に洗い、沢崎さんは慣れた手つきでテーブルを拭き上げていた。
莫大な利益と、修学旅行における厄介な仕事を残して去っていった柏木さん。
今の時点で、もう修学旅行が不安である。そんな余韻に浸る間もなく、いつものようにドアベルが鳴り響いた。
「はぁー……疲れたぁ……もう足痛ーい……」
気だるい足取りで入店してきたのは、この店の常連客である性格以外は完璧な女性、武藤さんだ。
オフィスカジュアルな装いに、少し乱れた髪。手にはコンビニの袋がぶら下がっている。どうやら今日も忙しかったらしい。
「いらっしゃいませ、武藤さん。お疲れのご様子ですね」
「あぁ……癒しを……私にはるちゃん成分を……」
カウンター席に座るなり、突っ伏して液状化する武藤さん。
私はやれやれとため息をつきつつ、いつものアイスコーヒーと、ミルクとガムシロップが入った容器を用意する。
――その時だった。
ちょうどお手洗いで席を外していた沢崎さんが、首をマッサージしながらカウンターに戻ってくる。
「――お、愛姉さん。お疲れっす」
何気ない、いつもの挨拶。しかし、その声を聞いた瞬間、液状化していた武藤さんがバネ仕掛けのように跳ね起きた。
「……え?」
武藤さんの目が、大きく見開かれる。その視線は、エプロン姿の沢崎さんに向けられていた。
「ま……真夜ちゃん……?」
「……久しぶりっす、愛姉さん」
沢崎さんが照れくさそうに鼻の下を擦る。家庭の事情でミニドリップを離れてから数週間。武藤さんとこうして顔を合わせるのは久しぶりだ。
武藤さんは、信じられないものを見るように数回瞬きをして、それから——
「う、うわぁぁぁぁん!! 真夜ちゃぁぁぁん!!」
子供のような半べそ顔と共に、沢崎さんに抱き着く武藤さん。
「ちょっ、愛姉さん!?」
「もー! 心配したんだからぁ……!」
心の底から心配していたんだろう、武藤さんが涙目で訴える。普段は残念な様子が目立ち、合コンの愚痴も多い彼女だけど、こういうところは憎めない。
私が沢崎さんの店を手伝いに行くと決めた時も、誰よりも心配し、そして応援してくれていた。
「もう会えないかもって思ってたー! ぐすっ……良かったぁ……元気そうで……!」
「……すんません、心配をおかけしました」
沢崎さんはどこか嬉しそうで、そして申し訳なさそうだった。彼女はポケットからハンカチを取り出し、優しく武藤さんに手渡す。
「これで涙拭いてくださいよ。化粧崩れるっすよ」
「うぅ……ありがとう……。真夜ちゃん、優しい……好き……」
「愛姉さんまで白井みたいなこと言わないでくださいよ」
ハンカチで目元を拭う武藤さんを見ながら、沢崎さんが小さく笑う。その光景を見て、私も胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
「……で、感動の再会はいいんだけども」
ひとしきり感情を爆発させてスッキリしたのか、武藤さんがアイスコーヒーを一口飲んでから、首を傾げた。
「どうして今日、真夜ちゃんがいるの? もしかして待望の復帰?」
「いや、今日はただの手伝いっす。ちょっと修学旅行の打ち合わせがあって」
「修学旅行!? ちょっと! 聞いてないよはるちゃん!」
『修学旅行』、いかにも武藤さんが食いつきそうな単語である。彼女の反応はもはや想定通りでさえあった。
「すみません、私も今日知りましたので……」
「どういうこと……そんなことあり得る? まあでもそっかー、言われてみればそんな時期かー! いいねえ青春だねえ! え、どこ行くの? てか誰と回るの? はるちゃん! 恋のハプニングの予感は!?」
怒涛の勢いで質問を浴びせてくる武藤さん。さっきまでの様子はどこへ行ったのだろうか。
「行き先は北海道です。班は私と、沢崎さんと……」
私が言い淀むと、沢崎さんが嫌そうな顔で引き継いだ。
「……柏木っていう、以前春姉にダル絡みしてきた女子っす」
「ぶふっ!」
沢崎さんの言葉を聞いて、武藤さんがコーヒーを吹き出しそうになる。
「えぇ……はるちゃん、それ生きて帰ってこれる?」
心配そうな眼差しを向けてくる武藤さんに、私は小さく首を振った。無理です、耐えられません。
「まあ、あいつの狙いは俺みたいだし、多分春姉に被害はないっすよ」
「それなら良いんだけど……でも、いいね北海道。私も行きたいなー!」
武藤さんが頬杖をつき、うっとりとした表情で天井を見上げる。
「北海道と言えば……やっぱり、グルメよねぇ」
「ですよね」
私と同時のタイミングで沢崎さんも『だよな!』と声を上げる。
「当たり前でしょ! 海鮮丼にジンギスカン、味噌ラーメンにスープカレー! あとスイーツも外せないわよね! ルタオのチーズケーキとか、六花亭のバターサンドとか!」
「流石は武藤さん、詳しいですね。ちなみに私は『かま栄』のパンロールを狙っています」
「女子高生とは思えないチョイス……いや、確かに美味しいんだけども」
「俺はラーメン横丁の制覇っすかねー」
「こっちはこっちで男子高校生みたいなこと言ってるし……え、何? それとも私が最近の女子高生を知らないだけ……?」
花より団子、色気より食い気。これがミニドリップの総意である。
「あー、私も行きたいなー北海道。有給取って恵梨ちゃんと怜ちゃん引き連れて行こうかなー」
「……絶対駄目ですからね? この人の場合、本当に来そうだから怖いんですよ」
呆れ気味に私は小さく呟く。武藤さんならやりかねない、割と本気で思っている。
「ちぇっ……あ、でもさ」
武藤さんが不意に、にやりと笑みを浮かべた。その視線が私に向けられる。何だろう、嫌な予感しかしない。
「修学旅行ってことはさ……当然、あるよね?」
「……何がですか」
「自由行動中にこっそり抜け出しちゃうイベントよ! ほら、あのイケメン君と!」
……だと思った。やっぱりそういう話か。
「伊田さんのことなら、別の班ですので遭遇する確率は極めて低いかと」
「えー? そんなことないって! 観光地なんて限られてるんだし、運命の赤い糸がピピッと反応して、時計台の下でバッタリ……なんてことも! フゥー!」
「ないですね。時計台に行く予定もありませんし」
「夢がないこと言うなぁ……じゃあ、小樽運河は? ガス灯が灯る夕暮れ時、一人佇むはるちゃんを見つけた彼……! みたいな!」
唐突に武藤さんが身振り手振りで寸劇を始める。
「そして二人は、並んで運河を歩くの……水面に映るガス灯の灯り、冷たい北風が二人の距離を縮めて……」
「なるほど、そこで久保田 利〇の『LA・LA・LA LOVE SONG』が流れるわけですか。ふむ……良いですね、趣があります」
グラスを布巾で磨きながら、私は脳内でイメージする。うん、悪くないな。
「出たよ、はるちゃんの古い曲選……ロンバケとか親の世代でしょ、私だって再放送で見たくらいなのに。ほーんと、はるちゃんって高校生じゃないよね」
「いえ、れっきとした現役の女子高生です」
「で、よ。実際どうなの? ちょっとくらい期待してんじゃないのー?」
「してません。私はただ、美味しいものを食べて、無事に帰ってきたいだけです」
「まったくこの子は、素直じゃないなぁ」
私の反応が不満なのか、武藤さんが口を尖らせる。すると、今まで黙って聞いていた沢崎さんが口を開いた。
「……でもよ、愛姉さんの言うことも一理あるぜ」
「え?」
私が驚いて顔を向けると、沢崎さんはどこか遠い目をしていた。
「夜景だぜ、夜景。好きな人と二人きりで眺める夜景……悪くねえな」
「……そういえば、沢崎さんって変なとこロマンチストでしたね」
「う、うるせえ! でも、せっかく遠くまで行くんだ。普段見れないもん見て、普段しねえ話をするって考えたら……別に変な話じゃないだろ!」
沢崎さんが、珍しく真面目なトーンで言う。その言葉には『本音でぶつかってみろ』という彼女なりのアドバイスが含まれているようにも感じられた。
「そうそう! 真夜ちゃんの言う通り! 素晴らしき札幌の夜景を、二人きりで見る……。そんなシチュエーション、一生に一度あるかないかよ?」
武藤さんがここぞとばかりに畳み掛ける。
「普段の学校生活じゃ見えない一面が、旅先なら見えるかもしれないしさ!」
「……普段見えない一面、ですか」
その言葉が、私の心に僅かに引っかかった。
伊田さんのこと。好きだと言ってくれた彼のこと。私はまだ、彼のことをよく知らない。ひどい話、知ろうともしていなかった。表面的な優しさや、クラスでの人気者という側面しか知らないのが現状だ。
「そう! だからさ、ちょっとくらい隙を見せてみなって。彼だって、きっとチャンスを狙ってるはずなんだから」
「隙と言われましても……そもそも、普段の連絡すら滅多にしてませんし」
「えっ、毎日ラブラブチャットしてるんじゃなかったの!?」
「何ですか……ラブラブチャットって……」
「それはもう、ねぇ……お姉さんの口からはとても……」
武藤さんがニヤニヤしながら私をからかう。
「武藤さんって、たまに中年男性みたいなこと言いますよね。今の時代、ひょんなことでもセクハラになりますから注意してくださいね」
「違うもん! これは、はるちゃんがからかい甲斐あるからだもん!」
「まさかの他責ですか……。昔教わりませんでしたか? 人のせいにするのは良くないと」
「うん、学んだ。なんなら今日後輩に言った」
「うわぁ……最悪な上司ですね……」
私と武藤さんのいつものやりとりに沢崎さんが苦笑する。
「久しぶりに見たなーこのやり取り。ホント、春姉って愛姉さんと話してる時が一番活き活きしてるよな」
「そんなことはありません。まあ、出来の悪い姉を持ったような気分になることはありますが」
「ひどい! でも、私はそんなはるちゃんが好き!」
「はいはい……」
武藤さんに頭をわしゃわしゃと撫でられつつも、私は適当に返事をしながらため息をついた。
――あらためて、伊田さんのことを振り返る。真面目な話、二人きりになるチャンスなんてあるわけがない。正直、私自身求めてもいない。
第一、私は柏木さんから仕事を任されているのだ。自分の色恋沙汰にかまけている余裕などない。
そう自分に言い聞かせていた――その時だった。
エプロンのポケットに入れていたスマホが、短く震えた。通知音と共に、画面が明るくなる。
「……?」
こんな時間に誰だろう。もし、私に連絡をしてくるような稀有な人がいるとすれば養父くらいだが……。あるいは、今日渋々連絡先を交換した柏木さんか。
私は布巾で手を拭き、何気なくスマホを取り出した。画面に表示された名前を見て、私の動きが止まる。
『伊田俊樹』
予想外の相手に、心臓が小さく跳ねた。通知の内容はメッセージアプリのチャットが一通。
『今、電話しても大丈夫ですか?』
「…………」
あまりのタイミングの良さに、私は言葉を失う。監視カメラでも仕掛けられているのか。まるで、こちらの会話を聞いていたかのような……。
「ん? どうしたのはるちゃん、固まっちゃって」
私の異変に気づいた武藤さんが、不思議そうに顔を覗き込んでくる。
「……いえ」
私はスマホの画面を伏せ、ひとまず深呼吸をすることに。
さっき『そんなつもりはない』と言い切った癖に、こうも冷静さが失われるとは。
「……ちょっと、電話が来たので。裏行ってきます」
「え? 誰から? まさか――」
「……営業の電話です」
「営業? いやいや、こんな寂れた喫茶店に何の営業が来るって言うのよ! あ! さてはイケメン君ね! そうでしょ! 絶対そうだー!」
完全に見透かした武藤さんは鼻息荒くまくしたてる。私は逃げるようにキッチンの奥へと向かった。
見間違いかもしれないと思い、私は画面をもう一度確認する。
『今、電話しても大丈夫ですか?』
そのシンプルな文字列が、やけに重たく、そして熱く感じられた。
私は震える指で、『大丈夫です』とだけ返信し、スマホの画面をまっすぐ凝視し、固唾をのんで見守る。
本当に他意はない。特別な感情があるなんてこともない。ただ、今まで経験したことのない出来事に……緊張しているだけなのだと、そう自分に強く言い聞かせるのだった。




