第五十四話「誘引」
――薄暗いキッチンの奥。
シンクの蛇口から、ぽたりと水滴の落ちる音がやけに大きく響いた。冷蔵庫の低いモーター音が、静寂を際立たせている。
私の手の中には、わずかに振動を続けるスマートフォン。画面には『伊田俊樹』という文字が、暗闇の中で白く発光している。
『今、電話しても大丈夫ですか?』
そのメッセージに『大丈夫です』と返信してから、わずか数秒後の着信だった。まるで、私の返事を画面に張り付いて待っていたかのような早さだ。
「……ふぅ」
私は小さく深呼吸をして、心の準備を整える。たかがクラスメイトからの電話だ。何も気負うことはない、淡々と用件を聞けばいい。
自分にそう言い聞かせ、私は応答ボタンをタップして、スマホを耳に当てた。
「……はい」
『あ、香笛さん? 夜分遅くにすみません。今、大丈夫でしたか?』
スピーカー越しに聞こえてきたのは、少し高めな、耳馴染みの良い声。伊田さんの声だった。
周囲が静かなせいか、彼の吐息や、わずかな衣擦れの音まで鮮明に聞こえてくる気がして、私は無意識に背筋を伸ばした。
「はい、問題ありません。どうしましたか、こんな時間に」
『あ、いや……その、大した用事じゃないんですけど。ほら、今日って修学旅行の班決めのプリント提出日だったじゃないですか』
「……そうですね」
『香笛さん、誰と同じ班になったのかなって……気になりまして』
電話の向こうで、彼が申し訳なさそうに頭を掻いている姿が目に浮かぶようだった。クラスでの私の立ち位置を理解しているからこそ、気にかけてくれたのだろうか。
その不器用で真っ直ぐな優しさが、少しだけむず痒い。
「ご心配には及びません。班は無事に決まりました」
『そうなんですね! えっと、ちなみにどなたと?』
「沢崎さんと、その……柏木さん、そして取り巻きの方々です」
『…………えっ?』
見事なまでの沈黙が電話口に落ちた。数秒の後、伊田さんが素っ頓狂な声を上げる。
『さ、沢崎さんと、柏木さん!? あの二人と同じ班なんですか!?』
「色々ありまして、そういうメンバーになりました。私も正直、どうしてこうなったのか疑問は尽きません」
『そ、それ……大丈夫なんですか? 香笛さん、板挟みになって胃に穴が空いたりしませんか?』
「まあ……多分、なんとかなると思います。一応、利害は一致していますので」
私の言葉に、伊田さんは『そうなんですか……?』とまだ不安そうな声を漏らした。彼が心配するのも無理はない。客観的に見て、火と油を同じ箱に詰めたような班編成なのだから。
でも私は、最近の柏木さんの様子からして、そこまでの不安はないと踏んでいる。
修学旅行の話題が一段落すると、ふいに会話が途切れた。
「…………」
『…………』
何とも言えない、ぎこちない空気が漂う。
普段の教室なら、彼の方から適当な話題を振ってくれるか、私が適当に切り上げるかのどちらかだ。しかし、今は電話という閉鎖的な空間。相手の表情が見えない分、間を持たせるのが非常に難しい。
『あ、あの』
「えっと……」
見事にタイミングが被った。
『す、すみません! 香笛さんからどうぞ』
「いえ、大したことではありません。……明日は少し、冷え込むみたいですね」
言ってから、私は心の中で頭を抱えた。
いくらなんでも、今の話題はパッとしなさすぎる。中高年の世間話ではないのだから。私には若者らしい会話の引き出しというものが絶望的に欠如しているらしい。
『最近すっかり秋らしくなってきましたよね。香笛さんも風邪引かないように気をつけてくださいね』
「……ありがとうございます」
見事に、会話が終了してしまった。
このまま『では、おやすみなさい』と通話を切るべきだろう。用件は済んだのだから。それなのに、私の手はスマホを耳から離そうとしなかった。
何か、別の言葉を待っている自分がいる。もしかしたら、伊田さんも同じなのかもしれない。
『……香笛さん』
数十秒の沈黙を破り、伊田さんが私の名前を呼んだ。
その声は、先ほどまでの気さくなトーンとは違い、どこか切羽詰まったような、真剣な響きを帯びていた。
「……は、はい」
『あの……修学旅行の、二日目か三日目の自由行動の時なんですけど』
ゴクリ、と私が息を呑む音が、自分自身の耳に大きく響いた。
『もし良かったら……少しだけ、二人で会えませんか?』
「っ……」
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。先ほどフロアで武藤さんが言っていた『自由行動中のイベント』。それが、まさか現実のものになろうとしているなんて。
『あ、いや、もちろん香笛さんの班の予定が優先ですから! 無理にとは言いません! ほんの少しの時間でもいいんです。時計台の下でも、運河の近くでも……どこか少しだけでも、香笛さんと一緒に回りたくて』
必死に言葉を紡ぐ伊田さんの声が、私の胸の奥をチクチクと刺激する。
私は柏木さんから、沢崎さんと二人きりにするという仕事を引き受けている。私が席を外す口実があれば、柏木さんの計画遂行にも都合が良いのでは。
……そうだ。これはあくまで、柏木さんのミッションを遂行するための、論理的かつ合理的な判断だ。決して、私が伊田さんと会いたいから了承するわけではない。
私は、心の中で自分への言い訳を完璧に組み上げてから、ゆっくりと口を開いた。
「……わかりました」
『えっ』
「班の行動スケジュール次第にはなりますが……お互いの都合が合うタイミングでなら、構いません」
『ほ、本当ですか!?』
電話の向こうで、表情が明るくなるのが手に取るようにわかった。その素直で純粋な喜びに触れ、私の胸の奥に言葉にできない熱がじんわりと広がっていく。
――そして。
その熱に当てられたのか、私の口は、自分でも信じられないような言葉を紡ぎ出していた。
「……あ、あの」
『どうしました?』
「修学旅行を前に、事前に必要なものを……買いに行きたいと思いまして」
『……はい』
「もし、伊田さんがお暇なら……その、今度の土曜日に、一緒に行ってもいいです……よ」
永遠とも思える静寂。自分でも、なぜ彼を誘ったのかわからなかった。というか、何だ今の私の台詞は。何で妙に上から目線なんだ、我ながら非常に恥ずかしい。
必要なものなど、一人で休日に駅前のショッピングモールへ行けば済む話だ。わざわざクラスの男子を、それも私に好意を向けている相手を誘う必要など、どこにもない。
それでも。修学旅行の前に、彼の嬉しそうな声をもう少しだけ聞いていたいと、一瞬悪くないと思ってしまったのも……また事実だったのだ。
『――――ッ!!』
突如、電話の向こうから、何かが激しく崩れ落ちるような鈍い音が響き渡った。
「い、伊田さん? 大丈夫ですか?」
『いってて……すみません、ベッドから落ちました』
「……何をしているんですか」
『いや、だって! 香笛さんから誘ってくれるなんて夢にも思っていなかったので、びっくりしてしまって……!』
スマホ越しに、痛そうだけど嬉しそうに笑う彼の声が聞こえる。
『行きます! 絶対行きます! 今度の土曜日ですよね!? 何があっても空けておきますから!』
食い気味に、大きく喜びを表しながら了承する伊田さん。その必死な様子に、私は思わず口元をほころばせてしまった。
「わかりました。では、時間と場所は後で送ります」
『はい! 待ってます! ……あー、なんか今日寝れないかもしれません』
「子供ですか。それに、まだ月曜日ですよ? しっかり寝てください。それでは、おやすみなさい」
『おやすみなさい、香笛さん。……電話、付き合ってくれてありがとうございました』
通話が切れ、画面が暗くなる。私はスマホを胸に当て、深く、長く息を吐き出した。
「……何をやっているんですかね、私は」
心臓は未だに早鐘を打っている。頬は熱く、きっと鏡を見なくても赤くなっているのがわかる。休日に、二人きりで買い物。
それは武藤さんで言うところの『デート』というモノに分類されるのではないだろうか。
私は両手で自分の頬を叩き、強引に熱を散らした。冷静になれ。これはただの買い出しだ。修学旅行に向けた、合理的な物資調達の場に過ぎない。
そう自分に言い聞かせ、私は表情を『無』に戻して、キッチンからフロアへと歩みを進めた。
******
「…………」
居住スペースとキッチンの境目である暖簾をくぐった瞬間、私は足を止めた。
フロアの奥。カウンター席の辺りから二つの不審な人影が見えたからだ。
「あら、奥さん。聞きましたこと?」
「ええ、聞きましたとも。『おやすみなさい』だなんて、甘い声が聞こえてきましたわね!」
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる武藤さんと、武藤さんの芝居がかったノリに合わせる沢崎さん。こちらの様子を遠巻きに見守り、そして聞き耳を立てていたらしい。
「……盗み聞きは良くないですよ」
私は冷ややかな視線を向け、カウンターの中へと戻った。
「盗み聞きなんて人聞きの悪い! 私たちはただ、はるちゃんの身を案じて見守っていただけよ!」
「そうだぜ春姉! 《《営業の電話》》にしてはやけに長かったから、悪徳業者に騙されてるんじゃないかって心配でな!」
「……クラスメイトからの、修学旅行に関する何でもない連絡ですよ」
私が布巾を手に取りながら答えると、武藤さんがカウンターに身を乗り出してきた。
「何でもない連絡ぅ? こんな時間にぃ? そんな硬いトーンじゃなかったじゃない! ほらほら白状しなさい! 相手はイケメン君からでしょ!? どうだったの!?」
目を輝かせ、鼻息荒く質問を浴びせてくる武藤さん。相変わらず、他人の恋バナに対する嗅覚だけは異常だ。
「どうも何もありません。ただ、修学旅行前の買い物も一緒に行けばいいかなと思ったので、土曜日に約束をしただけです」
私はグラスを磨きながら、できるだけ淡々とした口調で答えた。隠すようなことでもない。変に隠せば、この残念なOLはさらに面倒な勘繰りを入れてくるからだ。
――しかし。
私のその言葉を聞いた瞬間、武藤さんと沢崎さんの動きがピタリと止まった。
「……え?」
武藤さんが、ポカンと口を開ける。沢崎さんも、目を丸くして私を見ていた。
「え、ちょっと待って。買い物? 土曜日に、二人で? え? 修学旅行中のデートだけじゃなく?」
「はい、そうですが」
「な、何それ! 思った以上に凄い展開になってるんだけど!」
武藤さんがバンッとカウンターを叩き、絶叫した。そんな彼女の反応が面白くて、私はわざと自分から彼を今週の買い出しに誘ったのだと告げる。
「嘘!? はるちゃんから誘ったの!? マジで!? 人に興味がなさすぎて機械なんじゃないかと疑われているで有名なあのはるちゃんが!?」
頭を抱えて身悶えする武藤さん。どうやら、会話の内容までは武藤さんの地獄耳でも拾いきれていなかったらしい。
「確かに興味はないですが、そんな悪評で有名になった覚えはありません」
「マジか……春姉……すげえ……」
「な、なに感心しているんですか沢崎さん。これはただの買い出しで……」
「いいや! これは立派なデートよ! 修学旅行前の買い出しデート! 何着ていくの!? どこ行くの!? 私、服見立ててあげようか!?」
息を吹き返した武藤さんが、目を血走らせて私に迫ってくる。しまった。これでは、火に油を注いだようなものだ。
「結構です。普段通りの服で行きますし、特別なことは何もしません」
「ダメよ! せっかくのチャンスなんだから、少しは女の子らしい格好しなきゃ! よし真夜ちゃん、私たちではるちゃんをプロデュースするわよ!」
「うっす。愛姉さんがそう言うなら、俺も協力するっす!」
「二人とも、勝手に話を進めないでください」
私の抗議も空しく、武藤さんと沢崎さんは『あそこのブランドが』『春姉はすぐ白いワンピースを着る』などと、勝手に盛り上がり始めてしまった。
……白いワンピースの件については余計なお世話である。
私は深いため息をつき、これ以上の抵抗は無駄だと悟り、ひたすらグラスを磨き続けることにしたのだった。
******
嵐のような時間が過ぎ去って二人が帰り、ミニドリップに再び静けさが戻ってきた。
時刻は二十一時半を過ぎたところ。私はエプロンを外し、外にある店の看板を仕舞うために店のドアを開けた。
秋の夜風が、火照った頬を冷ましてくれる。鈴虫の音が心地よく響き、空には薄雲の向こうに月がぼんやりと浮かんでいた。
『OPEN』と書かれた木製の重い看板を持ち上げながら、私はふと、先ほどの電話のやり取りを思い出していた。
「……はぁ」
無意識のうちに、ため息が漏れていた。
自分でも、何であんなに緊張したのかわからなかった。ましてや、今週の土曜日に買い物を誘うなんて。私らしくない行動だ。
私は彼のことが好きなわけではない。決して、恋愛感情があるわけではない。彼と買い物に行くのは、修学旅行という非日常のイベントに向けた準備を、経験豊富な彼にアドバイスしてもらうためであり、非常に効率的だからだ。
そう、すべては計算の上。何も慌てることはない。
私は心の中で、懸命に言い訳を並べ立てる。
――しかし。
看板を店内に運び入れようとした瞬間、不意にある記憶がフラッシュバックした。
『良かった。この気持ちを、諦めなくていいんですね』
――以前、私が彼に酷い言葉を投げつけ、喧嘩をして。そして、仲直りをしたあの時。夕暮れのミニドリップ店内で、彼がホッとしたように、けれどひどく優しく微笑んで言った、あの言葉。
「っ……」
その光景が脳裏に蘇った途端、冷まされたはずの頬が、一気にカッと熱を持った。手の中の看板を落としそうになり、慌てて抱え直す。
……だめだ。あの時の彼の表情を思い出すと、どうにも胸の奥がざわざわとして、冷静な思考が吹き飛んでしまう。
「こんなにかき乱されるなんて……」
自分でも制御できないこの感情に、どこか悔しさすら覚える。私は、常に冷静で、人とは一定の距離を保って生きてきた。
なのに、たった一人の男子高校生にここまでペースを崩されている自分が、滑稽で、少しだけ歯痒い。
私は看板を所定の位置に置き、店の鍵を閉めた。カチャリ、という金属音が夜の静寂に響く。
今週の土曜日の買い物。そして、およそ一ヶ月後に迫る修学旅行。さらに、伊田さんとの自由行動での抜け出し。
これから待ち受けるであろう怒涛のイベントの数々に思いを馳せ、私は小さく息を吐いた。
「はぁ……」
深いため息を吐きつつも、私の胸の奥底には不安と同じくらい――いや、それ以上の『期待』が、ほんの少しだけ顔を覗かせていた。
私自身もまだ認めたくない、かすかな感情の芽生え。
私は熱の引かない頬を冷たい両手で包み込みながら、静まり返った店内の奥、自室へと歩を進めるのだった。




