第9話 恐ろしくて優しい人
じりじりと内側から焼かれているような気がした。
何かが足首を掴んで、私を沼の底へと引きずりこんでいくようで、怖くてたまらない。
私は、目を開けているのか、瞑っているのか。
上下の感覚さえ、あやふやだった。
遠くで私の名を呼ぶ声が微かに聞こえた。
あの人が、私を呼んでいる。
……グエン。
貴方は、私を掬い上げようとしているの?
それとも、沈んでいく私を追いかけようというの?
ああ、目が回る。
音が、遠ざかっていく……。
*
「無事でよかった」
そう言って、リーが私を抱きしめてくれた。
この月影の谷に、よく生きて帰れたと自分でも思う。
私は、母や伯父、ほかの大人たちとともに人攫いに遭ってしまったのだ。
もう二度と谷には戻れないと思っていた。
黒狼の峰に奴隷として連れ去られてしまったのだから。
彼らは戦支度をしていた。
近いうちにどこかの氏族に戦を仕掛けるようで、手薄になる村の労働力として私たちは連れてこられたのだ。
大人は井戸掘りを、子どもだった私は水汲みをやらされた。村の下方にある泉から桶に水を汲み、一日に何度も往復した。
夜になると、私はずっと母の胸の中で泣いていた。
辛くて、怖くて堪らなかった。
黒狼の峰のリーは、虫でも見るような目で私たちを見る。その目が何より怖かった。
転機はすぐに訪れた。
突然、騎馬の轟音が黒狼の村を襲ったのだ。
戦士たちの怒号と、人々の悲鳴。
赤い旗が村を埋め尽くした。
それがどこの氏族のものか、子どもの私には分からなかった。
でも、これは逃げるチャンスだと、伯父が言った。
私たちは、ほかの奴隷たちと一緒に、合戦の隙を見て走り出した。
逃げ切れるかなんて分からない。でも、必死に走った。
だが、間の悪いことに、黒狼の兵士に見つかってしまった。
兵士は剣を構えて、私たちの前に立ちふさがった。
お前たちも戦え、逃げるなら殺すと、彼は叫んだ。
もう、死ぬのだと思った。
だが、次の瞬間、その兵士は悲鳴を上げ、地に這った。
私たちの前に、熊のように大柄な男が立っていた。
「意味が分からん……仲間を、それもこんな子どもや女を、なぜ殺そうとする……」
男は呟きながら、こちらを振り返った。
顔を血しぶきで汚し、獣のように目をぎらつかせていた。
「終わるまで、その辺の小屋にでも隠れていろ。安心しろ、火は付けない」
腰が抜けてしまった私に、男が手を差し出してきた。
この男は、恐ろしい人殺しだ。
なのに、どうして戦の中で、見知らぬ者を守ろうとするのだろうか。
私は引き寄せられるように、彼に手を伸ばした。
そのとき、風を切って何かが私たちの間を横切っていった。
男が、チッと舌を打つ。
地面に矢が突き刺さっていた。
男の頬から、ドクドクと血が流れていた。
「さっさと行け! ここは戦場だ、次は知らん!」
そう言って、男は走り去ってしまった。
そう、あれが、グエンとの出会いだった。
彼にとっては私はただの子どもでしかなく、たまたま目にした蛮行を止めただけだったのだろう。
ささいなことと忘れているようだけど、私ははっきりと覚えてる。
なんて、恐ろしい人。
なんて、優しい人。
奪いながら、与える。
私には矛盾に見えたそれは、彼とっては何の不思議もないことなのだろう。
私は、獣の中に何故か高潔さを見つけてしまった。
決して忘れられるものではなかった。
でも、二度と会うことはないのだと思っていた。
「あの男は危険だ」
谷に帰りついた私に、リーはそう言った。
彼が火の塚のリーだと知ったのもそのときだった。
「今回、お前たちは救われた。だが、彼は野心の塊だ。北の王を目指しているという話だし、いずれそうなるのだろう。そのために、この先、あの男は幾多の氏族を滅ぼす……」
リーの言葉はまるで予言のようだった。
「月影の谷も例外ではない」
これまで森の中で自給自足の生活をし、ほかの氏族との交流も極力控え、ひっそりと私たちだけの楽園を作り上げてきた。
でも、私たちは特別ではない。
月影の谷の一族もこの島に暮らす一氏族にすぎず、覇をめぐる大きな時代のうねりから、外れることはできないのだ。
「奪う者は、いつか奪われる側に回る。我々に、その順番が回ってこないとは限らないのだからね」
「リー! 私たちは、誰からも何も奪ってません!」
「……森の命を頂いている。動物たちの命を奪い、植物の命を奪っている。彼らからすれば、我々はただの殺戮者だよ。この世界は、人間だけでできているのではないのだから」
リーの微笑みは優しくて、悲しげだった。
私はウサギのシチューが大好きで、いつも楽しみにしていた。でもその日から、素直に喜べなくなってしまった。
森の動物たちを可愛がり戯れる一方で、私はその肉を口する。
グエンは、戦の中で敵のリーの首を取るが、民の命は守った。
もしかしたら、同じなのだろうか。
でも同時に、まったく違うとも思う。
答えなんて出なかった。
ただ、月影の谷という閉じた世界しか知らなかった私に、グエンは森の外には厳しくも広い世界があることを教えてくれたように思った。
年に一度、私たちは他の氏族から塩を買う。森ではどうしても手に入らないものだったから。
私は毎年、商人に火の塚の状況を尋ねた。
「恐ろしい快進撃だよ。あんたらも、もし火の塚と接触することがあったら、大人しく傘下に入るこったな。俺の一族もそうした。逆らいさえしなけりゃ、案外いい統治者だよ、あのリーは」
商人の言葉に、私は曖昧な笑みを浮かべた。
彼は言葉を濁したが、通常、他の氏族を併呑するとき、飲み込まれる側のリーは処刑される。反抗の芽を摘むためなのだろう。
人殺しを、良い統治者と呼んでいいのだろうかと思った。
良いリーとは何なのだろう。
黒狼の峰で見た、彼の姿が頭を離れない。
今も、同じように血にまみれているのかと思うと恐ろしくて堪らなかった。
それなのに、どうしてこんなにも彼のことを考えてしまうのか。
また、次の年も、私は商人にグエンのことを尋ねていた。
そして数年が過ぎた。
あの日、森で彼を見つけたとき、息が止まるかと思った。
弓を持っていた。狩りの途中で、森に迷い込んだのかもしれない。
森の草木を眺め、目を細めて微笑んでいた。
少年のようだと思った。
私は、彼の本当の顔を、今初めて見たのだと思った。




