第8話 黒狼の峰へ
翌日、俺たちは黒狼の峰へ向かった。
馬車には、俺とディーナ、それにダレンとイーファが乗っていた。
窓の外を流れる景色に、ディーナは一度も目を向けなかった。膝の上に両手を重ね、じっと俯いている。
イーファが時折やわらかな声で話しかけても、返ってくるのは小さな頷きだけだった。
俺も、何を話せばよいのか分からなかった。
重たい沈黙が車内を満たし、車輪の軋む音だけが虚しく響いていた。
黒狼の峰に行こうと伝えたとき、ディーナの顔が曇った。
あまり行きたくはないようだった。
俺は席を外し、イーファに理由を尋ねてもらったが、それでも何も答えなかった。
外に出るのが嫌なのか、黒狼の峰が嫌なのか、それも分からない。
イーファは、ふといつもディーナの髪を梳かしている櫛が目に入ったらしい。
「これは、黒狼の峰で作られたものですのよ。繊細で美しい細工でしょう。とても器用な職人たちがいるらしいですわ。リーが村の新しい冬の手仕事にお勧めになったのですって」
山羊の角細工だ。
ディーナは、改めて櫛をじっと見つめていたという。
何が彼女の琴線に触れたのかは分からなかったが、その後、彼女は外出を了承してくれた。
黒狼の峰は、火の塚から数時間ほど北へ進んだ高地にある。
切り立った崖と岩肌に囲まれたその村からは、遠くまで連なる山並みの絶景が見渡せる。
少しでも、ディーナの気が晴れることを願った。
黒狼の峰の一族は、八年前、俺が初めて滅ぼした氏族だった。
併呑し、今では火の塚の民として暮らしている。
あの日のことはよく覚えている。
黒狼の峰のリーの首を取り、もう二度と後戻りはできない、自分には守るべきものがあるのだと覚悟を決めた日だった。
戦わねば、蹂躙されるのは火の塚だった。
俺には、リーとして民を守る責任があった。そのために戦っていた。
だが、今はどうだろう。
ただ戦うために戦っている。己の空虚さを埋めるための、自分勝手な戦だ。
あの日の思いはどこへ行ってしまったのだろうか。
村へ入り、馬車を降りた。
ゆっくりと、村の中を歩いていく。
村人たちは、仕事の手を止めこちらへ目を向けた。
「グエン様だ」
「リーだ。いや、北の王だ」
子どもが好奇心に満ちた目で見つめ、年寄りたちが頭を下げる。
近づいてくるわけではない。しかし、拒絶でもない。
俺たちは、静かに歓迎された。
ディーナの肩が少し震えていた。
彼女は戸惑うように、徐々に集まってきた村人たちを見つめていた。
そのとき、人垣をかき分けて、一人の少年が俺の前に走り出てきた。
口を真一文字に結び、眉を険しくさせている。
見覚えのある顔だった。
畑の水やりの途中だったのか、少年は手に柄杓を握っていた。
その柄杓を真っすくに俺に向けて、言った。
「あんた、北の王になったんだってな!」
「ああ」
ぞんざいな口を利く少年に、周囲の大人たちが肩を叩き首を振る。
俺としては、別にこれしきのことで怒りなど湧きはしなかったが。
「氏族を幾つ滅ぼした?」
「さあな、数えてなどいない」
「……なんでだ」
「何がだ」
少年を見つめ返すと、彼はますますムッと眉を寄せる。
「あんたは、俺たちの村を焼かなかった。村のみんなを奴隷にしなかった。負けたやつは、勝ったやつの奴隷になるのが普通なのに」
「そうだな。最近は随分と奴隷が増えた。もう、要らんな」
「……なんでだ」
少年は同じ問いを繰り返した。
納得がいかぬというように唇を噛んでいる。
「あんたは、西の王とは違うと思ってた。親父とは違うと思ってた。それなのに……。あんた、何やってんだよ!」
少年は、俺が殺したリーの末の息子だ。
成人した息子たちは処刑したが、彼だけはまだ幼かったことから助命した。
「……お前がリーを名乗り、再び黒狼の峰を興すというならやればいい。かかってこい。次は、望みどおり全てを焼き尽くしてやろう」
ことさらに下卑た笑みを作って、少年を見下ろした。
彼はギリギリと歯噛みしていた。
「俺は! あんたがアードリーになるのを見たい! でも、それは今のあんたじゃない。昔のあんただ!」
柄杓を地面に投げつけ、少年は走り去っていった。
あの頃とくらべて、随分、大きくなったものだと思う。
だが、勝手に憧憬を抱いて、勝手に幻滅するなんて、まだまだ子どもだと思った。
村人たちは気まずげに目を逸らした。
ディーナは、そんな彼らをじっと見つめていた。
少年の言動に驚いたのか、少し青ざめた顔をしていた。
そして、少年と入れ替わるように、一人の老女が出てきた。
「あの子ったら……。リーよ、大変失礼いたしました」
にこにこと手に持っていた盃を差し出してきた。
「お納めください」
「いい出来だな」
「ありがとうございます。リーのおかげで、私たちの角細工も有名になりまして、嬉しい限りです」
「うむ」
角細工は、元々彼らの冬の間の手仕事だった。
手先の器用な者たちがそれぞれ好きなように作り、村の中でのみ販売していた。
それを統一した意匠にし、技術の練度を上げ職人として育成するために工房を作った。それが軌道に乗り、黒狼の角細工は商人が買い付けに来るまでになった。
村が潤うなら何よりだ。頑張ったのは彼らなのだし。
盃を懐に仕舞い、俺たちは村を抜け高台へと登った。
ディーナの歩みは遅かった。時折立ち止まり、胸元を押さえている。
おぶってやりたかったが、きっと彼女は拒むだろう。
歩調を合わせるように、俺はゆっくりと進んだ。
登り切った岩場に、強い風が吹き抜けていく。
ここからは、谷と山々がどこまでも続いて見えた。
ディーナの髪が風になぶられて、揺れていた。
イーファが彼女の肩にそっと外套をかける。
「人の心とは、不思議なものだな。俺はあの子の親兄弟を殺したというのに」
「別の側面から見れば、黒狼の峰はあなた様に救われたとも言えますから」
山々を眺めながらダレンがそう言った。
頷くことなどできなかった。
俺は、俺の立場で動いただけだ。
攻撃される前に、攻撃した。それだけのことだ。
「……救いなどしていない」
「黒狼のリーは、自領の民を蔑ろにしていましたし、他氏族の者を攫ったりと、非道を行っておりましたから」
「ふん。まるで、俺の話のようだな」
この頃は、すっかり自嘲が板についてしまったように思う。
ダレンの言葉を借りるなら、非道なリーである俺はいずれ誰かに倒され、火の塚の民はそいつに救われるというわけだ。
隣でダレンが肩をすくめている。
風が岩肌を撫でていく。
白い雲が千切れて流れ、どんどんと形をかえていく。
ダレンと並んで、それをじっと眺めていた。
「私は覚えていますよ」
「……何をだ」
「兵のひとりが、略奪を行いました」
「……」
「あなたは皆の前で、その男を鞭打った」
そんなこともあった。
俺が課した命令を破ったからだ。
「勝ったからといって、奪ってよい理由にはならぬ、と」
ダレンは遠くの峰を見ながら続けた。
「女子どもに手を出す者は、俺の兵ではない、と」
俺は目を伏せた。
ダレンの言葉が胸に刺さる。
今でも略奪は禁じている。
だが、こっそりと目を盗んで蛮行を行う者がいることも知っている。
知っていて、規律を正してはいない。
俺にそれを咎める資格がないからだ。
「……昔の話だ」
「いいえ、今も変わらず、あなたは誇り高き我らのリーです」
力なく首を振った。
今の俺が、どれほどそこから遠ざかってしまったか、自分が一番よく知っている。
もう昔には戻れない。
じっと掌を見つめた。
月影の谷の一族。
どんなに洗っても、この手から彼らの血が消えることはないのだ。
そのときだった。
背後で、イーファが声を上げた。
「ディーナ様……!」
振り返ると、ディーナの身体がぐらりと傾いだ。
イーファが慌てて支える。
駆け寄ると、彼女の顔は真っ青だった。
唇の色も悪い。
「ディーナ」
呼んでも返事はない。
荒い呼吸だけが漏れている。
イーファが額に触れ、息を呑んだ。
「熱い……です」
細い身体が、小さく震えていた。
村へ入ってからずっと顔色が悪かった。
気づいていたはずなのに。
俺は奥歯を噛みしめた。
「砦に戻る。すぐに馬車を回せ!」
「いえ、その前に村で休ませましょう。すぐに手配いたします」
ダレンが駆け出した。
俺はぐったりとするディーナを抱き上げた。
腕の中の身体は驚くほど熱かった。
そんな状態でも、彼女は俺を拒むように身を固くする。
「ディーナ……少しだけ耐えてくれ。村に着くまで」
苦しげに眉を寄せ、彼女は目を閉じたまま何も言わない。
吹きつける山風の中で、俺は彼女を強く抱きしめたまま、高台を下りた。
元リーの家の一室に、ディーナを横たえた。
俺はディーナの手を握り、額の汗をぬぐった。
体が辛いのならそう言ってほしかった。
俺と話したくなくても、イーファがいたのだから。
だが、俺は頼るに値しない男なのだろう。彼女にそう思わせてしまったのは、結局俺なのだと、項垂れるばかりだった。




