第7話 淡い希望、そして諦め
ディーナは食事を摂るようになった。
ほんの少しずつだったが、口にするようになったのだ。
普通に食事できるようになったのは、それからさらに半年後のことだったが、彼女が死の選択を捨ててくれたのだと、俺は心底安堵した。
その頃には、専属の侍女イーファにだけは口を利くようにもなった。
最初の言葉は、食事を運んでくる侍女への「ありがとう」だった。か細い消え入りそうな声だったという。
それを伝え聞いた俺は、喜びに胸が沸き立った。
気がつけば、彼女の部屋へと走っていた。
勢いよく扉を開けた。
そして目に入ったのは、窓辺にとまった数羽の小鳥を見つめて微笑むディーナの横顔だった。
あの日、森で見た彼女がそこにいた。
胸が震え、目が熱くなる。
『あら、熊さんも聞きに来てくれたのね』
歌声と、そんな声が聞こえた気がした。
だが、俺を振り返った彼女の顔は冷たく固まってしまう。
ああと、俺は情けない声をこぼしていた。
「……構わない……。俺に向けたものでなくても、お前が笑ってくれるなら……」
熱く滲んだ視界の中で、ディーナは目を伏せていた。
久しぶりに見せてくれた微笑みを、俺はチリチリと痛む胸に刻んだ。
いつか、俺にも微笑んでくれるのではないかと、淡い期待を抱きながら。
その後、ディーナは短い言葉を紡ぐようになっていった。
「とても美味しいわ」
「今日はいい天気ね」
他愛のないことを、ぽつりと口にするのだ。
献身的に世話をするイーファにだけは、信頼を寄せているようだった。
しかし、相変わらず俺に対しては沈黙を貫いていた。目も合わせない。
思いがけず彼女の微笑みを見た日から数か月、そして彼女を攫ってから一年が過ぎていた。
それでも俺は、彼女の部屋に通い続けていた。
返事はないと分かりつつ、その日あったことや、なんとか話題を見つけて彼女に話した。
なんということもない部下の痴話喧嘩や、今年は流行り病もなく一族の子どもらも元気だとか、仔馬が生まれた、小麦の実りがいい、なんでも思い浮かんだことを語った。
だが、だんだんと、話の種も尽きてきた。
そして、今まで触れなかったことを初めて語った。
「子どもの頃、俺は父が嫌いだった。……母をいつも泣かせていたからな」
「…………」
「おかしいだろう? 今の俺は、父と同じだ。いや、もっと質が悪いか……」
父の非道を語りながら、俺は自身の罪に身を裂かれそうになる。
俺に父を非難する資格などないのだ。
己の欲望のために、月影の谷の一族を滅ぼしたのだから。
自分の心がどんどんと摩耗していくのが分かる。
ディーナはもう夜伽を拒むこともなくなった。
だが、それだけだった。
まるで人形を抱いているようだった。
どんなに優しく抱いても、決して声を漏らさない。
そして行為の後、彼女は無言で泣き続けるのだ。
諦めたのは俺のほうだった。
彼女の体を手に入れることはできても、心にはもう永遠に手が届かないのだと。
その辛さから、彼女のもとへ通う回数は減っていった。
行ったとしても沈黙に耐えられず、数分で部屋を去ることが増えていった。
*
月日は虚しく流れ、あの略奪の夜から二年が過ぎた。
俺は、遮二無二に戦に力を注いでいた。
戦いの中に身をおけば、例え一時的にしろ胸の苦しさを忘れることができたのだ。
手段は選ばなかった。
欲しいものは力づくで手に入れた。それが虚しい代償行為だと分かっていても、歯噛みしながら奪い続けた。
そして、俺はついに北の王となった。北部の氏族を束ねる盟主たる北の王に。
火の塚のグエンの名は以前にも増して、島中に轟くことになったのだ。
一族を上げて祝杯を上げる。
先々代の頃には弱小だった火の塚を、北の王の一族にまで引き上げたのだから。これで我が一族の安寧は約束され、この地を襲おうという者はいなくなるだろう。
しかし、一時の達成感に酔っても、その後は恐ろしいほどの虚無感に襲われた。
献上された美女達を侍らそうと、贅沢三昧の宴を繰り広げようと、その虚無感は消えなかった。
上王となるのも、遠い夢ではなくなった。
東の王、西の王に連なる氏族も次々に飲み込んでいた。
だが、戦果を上げても、何も満たされることなく月日が過ぎていく。
ディーナの顔を見るのが辛かった。
俺と彼女の溝は深まってゆくだけだった。
そして、亀裂が深まれば深まるほど、皮肉なことに戦果が上がってゆくのだ。
勝つことへの高揚感など無かったが、勝たなければならないと思っていた。
それは脅迫観念めいている。
しかし、勝ったとしてその後はどうすればいい?
アードリーになったとしても、その後は誰と戦えばいい?
負けて死ぬことよりも、勝った後のほうが恐ろしく思えた。
そんなある日、侍女イーファがディーナの言葉を俺に告げた。
どんなに短い言葉でも、なんでも伝えるようにと命じていた。
「あの方は、アードリーになるわ」
彼女はそう言ったらしい。
この島の頂点アードリー。
ディーナは、俺がそうなることを望んでいるのか。
鼓動が早まった。
彼女の口から、俺に関することが出てきたのは初めてだった。
俺のことなど関心の外だと思っていたが、そうではないのかもしれない。
ディーナが望むなら、アードリーだろうが、世界の王だろうが、何にだってなってやる。
「だって、欲しいものを手に入れるまで、決して戦いを止めないのだから……」
彼女の言葉の続きを聞いて、思った。
俺はやはり愚か者で、彼女にとってはただの略奪者でしかないのだと。
時間が解決してくれる。そんな考えは、甘えでしかなかったのだ。
加害した者が己を憐れむなど滑稽でしかない。
俺を打ちのめす、痛烈な言葉だった。
拳を握った。
俺の顔がよほど恐ろしく歪んでいたのだろう、イーファは震えていた。
側に控えていたダレンは、妻イーファの肩を抱き寄せ、そっとその背をさすった。
「……グエン様。気分転換に、ディーナ様とお出かけになられるのはどうでしょう」
ダレンがそう言った。
唐突な提案だったが、なんとか場の空気を変えようとしているのだと分かる。
「黒狼の峰の村はどうでしょう。あの高地の村からの眺めはとても良いですし、視察も兼ねて。私が馬車の御者を務めます。イーファも同行させれば、ディーナ様も了解くださるのではないでしょうか」
「……そうだな。手配はお前に任せる」
侍女として勤めを果たしてくれているイーファに文句を言うつもりも、怯えさせるつもりもなかった。
ただ、分かり切っていたはずの現実を突きつけられて、胸が軋んでしまったのだ。
そして、さりげなく妻をいたわるダレンと、夫を信頼するイーファの姿が、眩しくて羨ましくてならなかった。




