第2話 出逢い
秋の気配が漂う森の中は、意外にも明るかった。
キラキラと眩い光が、幾筋もの帯となって降り注いでいる。茂る緑の葉の合間を真っ直ぐに降りてきて、下草を所々白く輝かせていた。
俺は予定外の散策を一人楽しんでいた。
狩りの最中、獲物を深追いしている自覚はあったが、谷の森に入り込んだところで大事にはならないと踏んでいた。
初めて来た森だったが、方角は見失っていない。供とはぐれはしたが、彼らもさほど案じてはいないだろう。
思いがけず得ることになった休息だと思って、この時間を楽しもうと思う。
このところ戦続きだった俺にとって、この散策は久しぶりの癒しのようだった。
この広い島には、大小さまざまな氏族が暮らしている。
山に住む者、海に生きる者、森に神を見出す者。
だが、豊かな土地は限られている。氏族同士は絶えず覇権をめぐって争いを繰り返していた。
俺は、火の塚の一族を従える族長だ。
代々受け継いできた土地と一族を守るために、他の氏族との戦いに邁進してきた。
戦乱の中では、力こそが何よりも正義だった。勢力の拡大が、己の身を守ることにもなるのだから。
だが、月影の谷の一族だけは我関せずと、ひっそりと暮らしていた。
巨木の神を祀る森の民。
彼らは戦にも交易にもほとんど関わらず、古い歌と祈りを守りながら生きているという。
俺は今まで、彼らに露ほどの興味もなかった。ほかの氏族にしても、谷のどん詰まりにある弱小の一族など眼中に無かっただろう。
その月影の谷の一族の住む森に、俺は足を踏み入れていた。
ゆっくりと歩を進めてゆくうちに、美しいこの森を気に入り、日を改めて散策に訪れるのも良いかもしれない、そう思い始めていた。
そのとき、微かに風が歌声を運んできた。
美しく清らかな、透き通る女の声だった。
――谷そよぐ風が 祖の祈りの歌を 今日も我に運びくる
神は我らを見守り給う 約束の明日を与え給う
まるで森の妖精が、突然、俺の耳に囁きかけたように思えた。
声は頭の中で響き渡り、ストンと胸に落ちるとドクドクと鼓動を乱した。
供たちと合流すべく、森から出ようとしていたはずだった。
それなのに、背後から聞こえてくる歌に振り返ってしまうと、もう帰るという選択ができなくなっていた。
妖精の歌声に誘われて、俺は森の奥へと進んでいった。
不思議な高揚感だった。
まるで、誰かが切実に俺を呼んでいるような気がしたのだ。
そして、彼女を見つけた。
胸の前で指を組んで跪き、目を閉じて巨木を仰いでいた。
彼女はとうとうと歌い続ける。
白い肌に流れるような輝く金色の髪、華奢な身体、そして呪文のように俺を虜にする歌声。
――安らぎの朝と 穏やかな夜を 繰り返し与え給う
その愛に この身を捧げ 祈りを重ねましょう……
彼女の歌いあげる高く切ない旋律が、俺の胸を突き刺していった。
衝撃だった。
生まれて初めて、何かに心を奪われるという意味を知った。
チリチリと我が身を焼かれるような、同時にゾクゾクと背筋を震わすような感動だった。
立ち尽くし、息もできぬほどだった。
数多くの吟遊詩人を招いたが、こんな歌い手に出会ったことなど無かった。
奇跡のように美しい歌に魅せられて、ふらふらと彼女に近づいていった。
不意に彼女の歌が止み、俺を振り返った。
自分でも気づかぬうちに、彼女のすぐ後ろまで来ていたのだ。
「……!!」
彼女は大きく見開いた瞳を揺らして、俺を見上げた。
そして、さっと後ずさってゆく。
警戒する彼女から慌てて距離をとり、精一杯温和な笑みを浮かべた。
「申し訳ない。驚かせるつもりはなかった」
「……」
「貴女の歌に聞き惚れてしまった。つい引き寄せられて、こんな近くまで……」
片膝をついて深く頭を垂れる。この程度で、彼女を安心させる自信はなかったが、せめて悲鳴を上げて逃げ出されないようにと、俺は必死に紳士的にふるまったのだ。
自分が美男子などではなく、無骨で粗野な男であることを、俺は十分に承知している。大熊とアダ名されるほどなのだ。か弱い女性から見れば、さぞや恐ろしい大男に見えるだろう。
逃げないでほしい、そう願いながら、俺は笑みを絶やさぬようにゆっくりと語りかけた。
「胸が震えた。こんな俺でも……。あまりの美しさに人の歌声とは思えなかった。森の妖精が歌っているのかと思うほどに……。月影の谷の一族は妖精の血を引いているのかな?」
少しおどけて首をかしげてみせると、なんと彼女はクスリと笑った。
逃げ腰で半身になっていた彼女は、緊張をやわらげ、ゆっくりと俺に向き直ってくれた。
そして、えくぼの愛らしい悪戯な微笑みを見せたのだ。ちらりと覗いた小さな白い歯が、より一層可愛らしい。
「ええ、私たちは妖精の末裔なの」
そよそよと風が吹いて上空の梢を揺らすと、光の帯が彼女の上で踊るように揺れた。
ああ、妖精は本当に居た。
俺はもう、彼女から目を離すことができなくなっていた。
ゴクリと唾を飲み込む。
「……では、この愛らしい妖精殿の名前はなんというのか、教えて貰えないだろうか。どうやら俺は、貴女の信奉者になってしまったようだ」
「名前を聞くときは、まず自分から名乗るものでは?」
「これは失礼した。俺はグエンだ。火の塚の大熊と言えば、貴女も知っているだろうか」
「グエン様……」
俺が名乗ると、彼女はじっと見つめてきた。
そして小さく頷き、一人で何やら納得していた。怯えてはいないようだ。
「お噂は常々……どんなに恐ろしいお方かと思っていたのに……」
クスクス笑う彼女の言葉に、俺のほうが驚いた。俺のことが怖くないらしい。
少し上目遣いで、こちらがたじろいでしまうほどにじっと目を合わせて微笑むのだ。
一層、俺の鼓動は早まってゆく。ほんの少し話しただけで、こんなにも心が踊るのは初めてだった。
「私はディーナ。巨木の神に歌を捧げる巫女なの。この歌は、神に捧げるためだけに歌う歌。でも、見て……」
彼女がゆっくりとあたりを見回す。その先を見れば、沢山の鳥が枝にとまっていた。リスやモモンガなどの小動物もいる。茂みからは狐らしき動物も顔を覗かせていた。
「いつも、私の歌を聞きに集まってくれるわ。今日は森の熊さんも聞きに来てくれた。だから少しだけ、いつもより上手に歌えた気がするわ。褒めてくれてありがとう」
ディーナはニコニコと人懐っこく笑った。少し頬が上気している。
俺はキョロキョロと視線を泳がせた後、思わず吹き出してしまった。熊さんとは、俺のことか。
すると彼女も声を上げて笑い出した。
途端に、鳥や動物達が去ってゆき、二人だけになった。
静かな木漏れ日の下で、俺達は目を見合わせる。
彼女は、木の名を教えてくれた。花の名を教えてくれた。
「美しい花だな」
「ええ。でも可哀そうな花なの」
「どうして?」
「綺麗だから、摘まれてしまうの……。あなたは摘んだりしないでね。このままここで咲かせてあげて」
そっと花を撫でるようにして、そう言った。
彼女が親しげに笑いかけてくれるのは、何故なのだろう。
ああ、俺が一目でディーナに心を奪われたように、もしかしたら彼女も俺に……、いやよそう、都合の良い愚かな妄想だ。勘違いをしてはいけない。
初見で嫌悪されることはあっても、好意を抱かれることはない。俺の頬には醜い傷跡があるのだ。
俺は軽く頭を振った。
だが、頼み事を一つするだけなら、構わないのではないかと思う。
もう一度歌って欲しいのだ。
彼女は神に歌を捧げる巫女と言った。人間に聞かせる歌ではないのだろう。それなら、さっき彼女が機転を利かせたように、俺はただの森の熊に徹すればいい。
俺はドクドクと高鳴る心臓を沈めるために、大きく深呼吸を一つした。
そして彼女に願いを伝えようとしたとき、彼女が言った。
「帰らなくては……日が暮れる前に帰らないと叱られてしまう」
彼女の視線がスッと逸れた。
高揚していた心は一瞬で重く沈んだ。
行かないで欲しい。
もっと聞きたいことがある。もっと知りたいことがある。
だが、彼女は一歩二歩と後ずさり、目を伏せた。
ちらりと空を見上げると、日の光がわずかだが朱色に染まっている。
「ディーナ……もう一度、君の歌を聞きたい」
それだけをやっと口にした。
彼女の唇に浮かんだ笑みが悲しげで寂しげに見えたのは、俺の願望のせいだろうか。本当はまだ帰りたくないのだと言ってほしい。
「……あなたにその資格があれば、いつかきっと……」
ディーナは巨木の向こうに走ってゆく。
その後ろ姿に俺は叫んだ。
「ディーナ! 明日もくる! 明後日も、明々後日も!」
彼女が振り返った。
笑みは無かった。
真剣な、とも言うべき表情で俺を見つめ、そして今度こそ走り去ってしまった。
ほんの数十分ほどの邂逅。
ディーナとの出会いは運命的だった。
俺を大きく揺るがしてしまった。
彼女が俺の前から消えた途端、穴が開くような喪失感を味わっていた。
まるで、胸の中身をごっそりと持ち去られたような気がした。
翌日、俺は彼女に言ったとおり、森の中、巨木のもとへと行った。
一秒でも早く会いたかった。
だが、ディーナは来なかった。




