手を挙げた日
小学三年生の秋だったと思う。
作文を書く前のことだったかもしれない。もう、はっきりとは覚えていない。
ただ、平井先生が教室の前に立ち、みんなに尋ねた日のことは、今でも心に残っている。
「お父さんがいない人、手を挙げて」
平井先生はそう言って、教室を見渡した。
何のために、それを確認したのかは、今でも分からない。
浩二は、すぐには反応できなかった。
周りの友達はどうするのだろう。誰か手を挙げるのだろうか。そんなことを考えながら、机の上に目を落とした。
父ちゃんがいない。
そのことは、自分では分かっている。家に父ちゃんがいないことも、母ちゃんが一人で働いていることも、いつものことだった。
でも、それをみんなの前で認めるのは、りと手を挙げた。
その瞬間、教室中の視線が自分に集まったように感じた。
みんなが自分を見ている。
誰も何も言っていない。それなのに、顔が熱くなった。手を挙げたことを後悔した。早く手を下ろしたかった。
浩二は、うつむいたまま、先生の次の言葉を待っていた。
休み時間になると、友達が近づいてきた。
「浩二、お父さんいないの?」
「どうしていないの?」
悪気があって聞いたわけではなかったのだろう。ただ、不思議に思っただけなのかもしれない。
けれど、浩二には答えられなかった。
父ちゃんがいない理由。自分だって、どうしてなのか、もっと知りたかった。
「……」
何か言おうとしたけれど、言葉にならない。
「なんで?」
もう一度聞かれたとき、我慢していた涙があふれた。
泣くつもりなんかなかった。泣いたら、またみんなに見られる。そう思えば思うほど、涙が止まらなかった。
友達の前で泣いてしまったことが、悔しかった。
その日の帰り道、浩二は一人だった。
学校から家までは、歩いて三十分ほどかかる。
いつもなら、友達と一緒に帰ることもある。道端の草をつついたり、石を蹴りながら歩いたり、途中でふざけ合ったりする。けれど、その日は誰とも一緒にならなかった。
一人で歩く道は、いつもより長く感じた。
ランドセルが、いつもより重い。
浩二は足元を見ながら歩いた。
今日のことが、頭から離れなかった。
平井先生の声。
みんなの前で手を挙げたときのこと。
友達に「どうしてお父さんがいないの」と聞かれたこと。
思い出すたびに、胸の奥が苦しくなった。
友達の家には、お父さんがいる。
仕事から帰ってくるお父さんがいて、休みの日には一緒に遊んだり、出かけたりする。運動会にも、お父さんが見に来ている。
いいなあ。
そう思うことがあった。
父ちゃんがいたら、うちも違っていたのかな。
母ちゃんも今ほど苦労しなくて済んだのかもしれない。
母ちゃんは、朝早くから起きて、朝市の準備をする。野菜を用意して、売りに出かける。帰ってくれば、家のことや弟たちの世話も待っている。
朝、まだ眠い目をこすりながら起きると、母ちゃんはもう動いていることが多かった。
父ちゃんがいたら、二人で働けたのかな。母ちゃんも、もう少しゆっくりできたのかな。
そんなことを考えた。
朝市の手伝いをすることもなかったかもしれない。
浩二も、ときどき朝市を手伝っていた。
野菜を運んだり、並べたり、お客さんに声をかけたりする。母ちゃんに「これを持っていって」と言われれば、文句を言いながらも手伝った。
母ちゃんが喜んでくれると、少し嬉しかった。
でも、友達に見られるのは嫌だった。
友達が通りかかると、つい顔を伏せた。声をかけられないか、見られていないか、気になった。
もし見つかったら、何と言えばいいんだろう。
そんなことを考えて、友達が通り過ぎるのを待つこともあった。
母ちゃんの手伝いをしているだけなのに、どうして隠れるようなことをしなければならないんだろう。
自分でも、少し嫌な気持ちになった。
友達は朝市の手伝いなんかしていない。学校が終われば遊びに行き、欲しいものがあれば親にねだる。
自分も、みんなと同じようにしたかった。
友達が持っているものを見て、いいなと思うことがある。新しいおもちゃや、かっこいい靴。自分も欲しいと思うけれど、母ちゃんに言うのをためらうこともあった。
うちは無理だろうな。
そう思って、欲しいと言うのをやめることもあった。
本当は、欲しいものは欲しい。友達と同じように、母ちゃんにねだってみたい。そんな気持ちもあった。
別に贅沢がしたいわけではなかった。ただ、友達と同じように暮らしたかった。
お父さんがいて、お母さんがいて、朝市の手伝いをしなくてもよくて、友達と遊ぶことだけを考えていられる。
そんな暮らしが羨ましかった。
浩二は、道端の小石を蹴った。
石は少し先まで転がっていった。また追いかけて蹴る。今度は少し強く蹴った。石は道の端まで飛んでいった。
どうして自分だけ違うんだろう。
そう考えると、また涙が出そうになった。
母ちゃんが一生懸命働いていることは知っていた。自分たちのために朝早くから頑張っていることも分かっていた。
だから、朝市の手伝いが嫌だとは言えなかった。
友達に見られるのが恥ずかしいとも言えなかった。
父ちゃんがいないのが寂しいとも言えなかった。
そんなことを言えば、母ちゃんを悲しませてしまうような気がした。
母ちゃんだって大変なのに、これ以上心配をかけたくなかった。
それに、母ちゃんに心配されるのも、何となく嫌だった。もう大丈夫だよ、と言われても、きっと自分は大丈夫ではなかったからだ。
三十分の帰り道は、いつもよりずっと長かった。
家が見えてきたころには、何とか涙も引っ込んでいた。
浩二は、いつもの顔をしようと思った。
家の戸を開けると、母ちゃんの声がした。
「おかえり、浩二」
「ただいま」
「今日は遊びに行かないの?」
「うん。今日はいい」
「友達と遊ばないの?」
「いいって」
少し強い口調になった。
母ちゃんが、少し不思議そうに顔を見た。
「どうしたの? 何かあった?」
「何でもない」
浩二はそう答えて、ランドセルを置いた。
本当は、学校であったことも、帰り道に考えていたことも、全部話したかった。
母ちゃんに聞いてほしかった。
でも、どう話せばいいのか分からなかった。
その日は、遊びに出ることもなく、家で静かに過ごした。




