5-5・出発
七月第三金曜日、午前七時。喫茶店の最寄り駅。
今日の明崎さんはシンプルな白のトップスに裾を引き絞ったオリーブのカーゴパンツ姿だった。動きやすさを重視したのか、靴は白のスニーカー、髪は高い位置でお団子にしている。アクセサリーのたぐいは相変わらずつけていない。
「おはようございます、黒繰さん」
「おはよう、明崎さん」
互いに手持ち鞄とは別に、キャリーケースを引いていた。俺はシンプルな黒、明崎さんは可愛らしいアイボリーで、ほかと区別がつくよう大きなステッカーが貼ってある。
「今朝方くんはまだかな?」
「……」
変な間が空いた。
「明崎さん?」
「え? あ、ああ! 今朝方さんなら、車を借りに行ってくれてます! ええと、向こうです!」
取り繕うようにせわしく手を振りながら、明崎さんが歩き出す。
……なんだろう。なにかミスしただろうか。出会って五分とたっていないが。
「あ、お姉さん! お兄さん! こっちです!」
合流した俺たちを見た途端、今朝方は「ははあ!」と大声をあげた。
「お兄さん! モデルさんみたいッスね!」
「ありがとう。車は借りられた?」
「お忍びの芸能人かとオレは思ったんで! イケメンってなに着ても似合うスね! 雑誌の撮影中に抜け出しちゃったみたいスよ!」
「うん。車はどこ?」
「お姉さんもそう思うスよね!」
俺は今朝方への追及をやめて明崎さんを見た。
「え、あ、そ、うですね、そう思い、ます」
しどろもどろだった。俺から目を逸らし片手で顔を覆っている。
悩んだのだが、今回はスーツよりラフな服装を選択していた。無地の白Tシャツに、グレーのテーラードジャケット、黒のテーパードパンツ。動きやすさを重視した白のスニーカーに、日差し避けのサングラスをジャケットの胸ポケットに入れている。どこにも衒いのないごく普通の私服だ。
「目立つ服装ではないと思うけど」
「なんていうか、オーラが隠せてないとオレは思うんで! それにいつものスーツはかなり見慣れたですけど、今日の服は初めて見るんで免疫リセットです!」
なにを言っているのかちょっとよくわからない。
「着替えたほうがいい?」
「そういう問題じゃないとオレは思うんで!」
どうしろというのだ。
と、明崎さんが咳払いした。復帰したようだ。
「ええと、今朝方さん、車はどこに?」
「向こうです」
歩き出す今朝方。すぐ後ろを歩きながら、隣の明崎さんに声をかける。
「もし不満があるなら言ってくれていいよ」
「え、あ、そういうわけでは……」
ちらと俺の顔を見て、すぐに目を逸らす。軽く深呼吸して、また俺を見る。
「その……今朝方さんの言うとおりなんです。スーツ姿は見慣れたもの、なんですけど……今日の服装は、新鮮で」
途切れがちに言葉をつなぐ。
「泊りがけの予定ですし、黒繰さんは、私服で、プライベート、ですよね、だから、あの……決してそうではないんですけど、違うんですけど……まるでデー……いや! 仕事だってわかってますよ! 大丈夫です! 浮かれてなんか……!」
いまいち要領を得ないな。なんの言い訳なんだろうか。
今朝方が借りたシルバーのステーションワゴンに荷物を積む。助手席に座ろうとすると、運転席の今朝方が「後ろでもいいですよ」と声をかけてきた。
「後部座席だと明崎さんが窮屈じゃない?」
「そうですね! 助手席でお願いします黒繰さん! まだ隣に来られると困ります!」
「ははあ……初々しいスけどそんな調子で大丈夫スか? ご両親へのご挨拶って二人の共同作業だとオレは思うんで」
「な、なに言ってるんですか!?」
「そろそろ出発にしよう。到着が遅くなってしまうよ」
二人をたしなめつつシートベルトを締める。霧庫村へ行くには最低でも三時間はかかるのだ。遊んでいる余裕はない。
「そういえば酔い止めは飲んだスか?」
今朝方がカーナビを設定しながら言う。
「峠に入るとぐにゃぐにゃ曲がるんで、飲んどくのがオススメです」
「私は来る前に飲んでます。黒繰さんは?」
「飲んでない。けど、もし余ってたらもらえるかな? 長距離だもんね」
のちに思う。ここでちゃんと酔い止めを飲んでいて本当によかったと。
「じゃ、出発です」
今朝方はラジオをつけるとアクセルを踏み込んだ。
道中の出来事は割愛する。こんなにも外島白兎の運転を恋しく思ったことはない。スピードメーターは確認しなかった。怖くてできなかった。窓の景色が一瞬で流れ、唸るエンジン音とともに車体が揺れる。前方に車がいれば速度はさらに上がり、どんどん抜き去って常に先頭を走った。今朝方は終始ご機嫌で「だいじょぶです。パワーのある車なんで」とガンガン飛ばした。結果、計画していたより早く目的地につくこととなった。
「ついたです」
止まると同時に俺も明崎さんも車から降りた。地に足を付け、肺いっぱいに空気を吸い込み、自分がまだ生きていることを確かめる。
御帯根高原。低湿度の爽やかな暑さに、吹き抜ける涼風。視界いっぱいに広がる緑の山々は自然の雄大さを物語る。なにより空が広い。大きな白い雲に、吸い込まれそうな青空。先程までの冷や汗を忘れさせてくれる気持ちのいい場所だ。
「待ち合わせは募木駅でよかったですよね」
今朝方からの確認に頷く。霧庫村まではまだ距離があるが、地主の菰出とはここで待ち合わせの予定だった。
「……少し、休憩にしませんか?」
青い顔の明崎さんが提案する。俺も彼女も、まだ車に乗って再出発できる状態ではない。気分転換が必要だ。
募木駅のだだっ広い駐車場から大きな駅舎へ移動する。三角屋根に白壁のレトロな山荘みたいな建物だ。入口付近にはお土産や特産品などののぼりが立っている。
「ソフトクリームがある! 食べたいッスね~!」
呑気な今朝方に千円札を二、三枚握らせ「適当に買ってきて」と指示する。この隙に明崎さんとベンチを確保した。
「ま、まだこんな時間だ……」
スマホ画面を見て戦慄している明崎さん。
旅行初日から飛ばしすぎなのである。
早めに到着したことをメールで共有しつつ、今朝方の買ってきたソフトクリームを食べることになった。バニラ味、りんご味、ブルーベリー味のうち、バニラ味とお釣りを受け取る。
「ん! おいしい!」
ブルーベリーソフトを頬張って、明崎さんに笑顔が戻る。きっと食べ終わる頃には回復しているだろう。
俺はまだなにも胃に入れたくない気分だったが、明崎さんを見習って一口食べてみた。……案外食べられそうだ。甘く、冷たく、気分まで涼やかだ。
「りんごもうまいス。ブルーベリーと迷ったんスよね」
「一口食べてみます? スプーンもついてるみたいですし」
「いいんスか!? ……」
今朝方は俺からの視線に気付くと「いやいいですごめんなさいいらないですごめんなさい」と怯えながら縮こまって自分のりんごソフトを食べ始めた。当然だ。ブルーベリーは明崎さんのものだ。自分が選んだ味だけを楽しめばいい。
「え、えっと……?」
手元のスプーンでブルーベリーソフトをすくったままおろおろする明崎さんは「じゃあ、黒繰さんはどうですか? おいしいですよ、ブルーベリー」と俺に笑いかけた。
「そう? じゃあもらおうかな」
わーい。知らない味、気になるなあ。
明崎さんは「はい、あーん」とスプーンですくった一口分のブルーベリーソフトを差し出した。
彼女の指先に顔を寄せ、スプーンの先端を口に入れる。
ぱちり、明崎さんと目が合う。
俺は彼女の目を見つめたままブルーベリーソフトを平らげて、軽く唇を舐めた。
「本当だ、おいしいね」
明崎さんはスプーンを差し出したままの姿勢で固まっている。
間髪入れず、俺もバニラソフトをスプーンですくう。
「はい、お返し。あーん」
明崎さんの顔が火を噴いたように赤くなった。
「い、いえ、違うんです! そんなつもりじゃ……!」
「口を開けて」
「いえいえいえ大丈夫です! 大丈夫です!」
「いいから、ほら。早くしないと溶けちゃうよ」
「ううう……ああ……!」
ぎこちなく口を開ける明崎さんにバニラソフトを食べさせる。明崎さんは眼鏡の奥の瞳を潤ませ、小刻みに震えている。
俺はニコニコ笑顔で「もう一口どう?」と追い打ちをかけた。
「も……もういいです!」
明崎さんはそっぽ向いて、自分のブルーベリーソフトを一心に食べ始める。そして、二度とこちらを見ようとはしなかった。表情はおろか、怒っているのか、恥ずかしがっているのか。この位置だと耳まで赤いことしか伺えない。
……ちょっといじめすぎたかな。いや、あまりにも可愛くて。今朝方に指示して動画でも撮らせておけばよかった。
などと考えていると、マナーモードのスマホが震えた。菰出からの着信だ。食べかけのソフトクリーム片手に通話に応じる。
「もしもし、黒繰です」
『ああ! 黒繰さん! 菰出です!』
音声は二重だった。駅舎入口を見ると、スマートフォンを耳に当て入ってくる男が一人。ソフトクリームを掲げて合図すると、男は通話を切って笑顔で近寄ってきた。
「どうもどうも! はじめまして!」
菰出都史郎、五十六歳。青地にチェック柄のポロシャツに、ベージュのチノパン。前髪はやや後退しているが、黒く染めているため若々しい印象だ。べっこうの眼鏡に、口元にはひげを蓄えている。時計、ベルト、靴は一見してブランド品だとわかった。
俺は立ち上がり、手にしたままのソフトクリームに目を落として笑った。
「ああ、すみません! おいしそうでつい! 黒繰朔夜です、片手で失礼します」
「ははは! おいしいでしょう! 長野の魅力、ぜひ楽しんでいってください!」
菰出と握手して、背後の二人を紹介する。
「こちらは今朝方くん。友人で、今回の運転担当です」
「どもです」
「こちらは明崎さん。うちにインターン中の学生さんです。今回は私の助手だと思っていただければ」
「はじめまして、明崎明です」
今朝方と明崎さんがそれぞれ菰出に会釈する。
流石は明崎さん、普段通りの声色だ。顔はまだちょっと赤いが。
今回、俺こと黒繰朔夜が菰出に連絡を取ったのは、プライベートで長野を旅行したいからということになっていた。地元の人だけが知る長野を、菰出さんの住む霧庫村を見てみたい。もし気に入れば別荘の候補地になる、かも。そう告げると菰出はぜひにと案内役を買って出た。きっと彼が持つほかの土地にも案内してもらえるだろう。その過程でうちのグループとの取引についてやんわり尋ね、あわよくば帳簿を覗き見ようという計画だ。
「今朝方くんと明崎さんも長野を好きになって帰ってね! ソフトクリーム、おいしいでしょう! 食べ終わったら車で先導しますよ! うちは霧庫の中でも奥まった集落でしてね!」
「うまいです」
「ありがとうございます。お世話になります」
「よろしくお願いします、菰出さん。ちなみに、ホテルってどの辺になりました? 霧庫村まで最短でも三十分でしたっけ?」
菰出は「ああ! それなんですけどね!」と大きく笑う。
「みなさん、ぜひうちに泊まっていってください! ホテルから村まで出るのは大変でしょう! いま流行りの民泊だと思って!」
おっと……?
「何日でもご滞在ください! 歓迎しますよ! ちなみに確認しておきたいんですが、みなさん、虫は大丈夫ですか? それともないほうがいい?」
「ええっと、虫とは?」
「食べられるかってことですよ! こればかりは人によりますからなあ!」
もしかしてイナゴの佃煮とか出てくるのかな。
俺の場合、ビジネスと思えばなんでも食べられるが、明崎さんはどうだろうか。
「が、頑張れば、食べられる、かも……!」
頑張り笑顔だ。
「ッスねー……」
同上の今朝方。
俺は菰出に向け笑顔を浮かべた。
「二人にはまだ早いかもしれませんね。私はぜひチャレンジしてみたいです!」
視界の端、ぎょっとしている様子の二人。
「おお! 黒繰さんはイケる口ですか! 食べるとおいしいですから! レッツチャレンジ!」
ソフトクリームを食べ終え、改めて名刺を交換し、ルートの打ち合わせをしてそれぞれの車に乗り込んだ。菰出の黒いセダンが先導してくれるおかげで今朝方の運転も安定している。
乱立する木々を縫うように山を奥に進んでいく。代わり映えのしない景色が目蓋にのしかかり、つい、俺は目を閉じた。




