3-14・探偵と刑事
五月四日、みどりの日。
早めに起床した俺は、昨日明崎さんからもらったアップルパイのひとつをトースターで焼いてみているところだった。もう片方は昨夜帰宅直後にデザートということでそのまま美味しくいただいている。が、温めても美味しいということだったので、今日という一日の始まりに、つまり朝食代わりに軽く焼いて食べてみようという試みである。
電気ケトルでドリップコーヒー用の湯を沸かしながら、オーブントースターの厚いガラス越しにアップルパイの様子を伺う。微かにじりじりと焼けていく音がする。蓋の隙間からほんのりとパイシートの焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。そろそろいいんじゃないだろうか? 俺はトースターのタイマーを手動で強制終了させると、蓋をフルオープンにしアップルパイを皿に「熱っ!」移動させる前に蓋を開け放つことでまず粗熱をとることにした。その間にコーヒーを用意する。
コーヒーの香りと共存する、甘く香ばしいアップルパイの匂い。なかなか新鮮だ。朝は苦手ではないが、朝食をきちんと食べるかと問われると答え苦しいものがある。普段はコンビニでサンドイッチを買ったりだとか、ブロックタイプのバランス栄養食で済ませたりだとか、なんなら食べないことすらある。家事は一通りできるつもりだがこと食事に関しては少々気合いが必要なのだ。作ろうと思えば米を炊き魚を焼き味噌汁を付け合わせることだってできる。やらないだけだ。
粗熱のとれたアップルパイを皿に乗せ、コーヒーと共にリビングのテーブルの上に持ってくる。リビングは馬鹿みたいにデカいうえに壁一面が窓になっており、夜になれば夜景を見下ろすことも可能だが今は遮光カーテンが下りている。電気のついた明るいリビングの真ん中で、ソファーに腰かけた。
むやみに広い空間で一人食事をすることに抵抗はなかったが、たまに、酷く滑稽に感じた。同席者もいないのに必死になってテーブルマナーのお勉強をしていた時期もある。スープを飲むときに音を立ててはいけないからと慎重に飲みすぎて料理が冷めてしまったことも。今思うと馬鹿馬鹿しい。
明崎さんのお菓子を食べるのに、重要なのはマナーなどでは断じてないというのがここ最近の学習結果だ。ジャムマフィンは型紙を破ってがぶっとかぶりつき。大人様ランチは好きなものから。食べながら喋っても構わない。ただ、口に物が入っているときに喋りたいと感じたら先に飲み込んでから喋る。口の端を汚してもご愛嬌、というか、あとで拭けば問題ない。
たぶん、アップルパイもがぶっとかぶりつきで問題ないだろう。そんなに大きなものではない。
皿で食べかすを受けながらアップルパイを齧る。歯を立てた瞬間ざくっと音がしてパイ生地が崩れ落ちてくる。昨晩そのまま食べたアップルパイはどちらかというとしっとりした口当たりだったが、焼き立て再現も、悪くない。あたたかなりんごの甘味にシナモンが香る。優しい味わいだ。
明崎さんの焼いたアップルパイから始まる朝。素晴らしい充実感。もう毎日これでいい。
俺はすっかり食べてしまったアップルパイを名残惜しく思いながらウェットティッシュで手を拭き、壁にかかる時計を確認した。
午前七時三十分。
「ま、事情聴取は朝一で終わらせるか」
普段使いの鞄が戻ってくるまでの場繋ぎの鞄をどうするか考えながら、ゆっくりとコーヒーを傾けた。
午前八時三十分。警察署の窓口業務が開始となるこの時間にぴったり間に合うようタクシーで乗りつけると、どうやら士道はいないようだった。おそらく貴志を迎えに行っているとか現場を確認に行っているとかそんなところだろう。俺のような小物に構っている暇は士道にはないのだ。精々、頑張ってほしい。貴志のせいで明崎さんに食事を奢らせる事態となったことを俺はかなり恨めしく思っている。もっと追い詰められて然るべきだ。そして俺の代わりに士道が貴志を追い詰める気満々だというのだから利害の一致、あるいは、濡れ手で粟である。
任意の取調室内、任意の警察官相手に昨日したのと変わらない、同じような話を確認されながら数度繰り返す。少々手間だが事情聴取とはそういうものだ。特に今回、俺は犯人でもなんでもないのだから何事にも平静を保ち退屈を噛み殺しながら淡々とこなせばいい。
最後に調書にサインして、俺は取調室から解放された。
あとは明崎さんと合流して探偵助手をするのみだ。
あらかじめ『事情聴取が終わったからいつでも合流できるよ』とメッセージしてから電話をかけてみる。が、話し中のようだ。明崎さんも明崎さんで調査に奔走しているのかもしれない。早く助けに行かなければ。彼女の隣に並び立ちサポートするのは俺だけの特権だ。
……と、警察署から出ようとして、署内の廊下で早足にこちらへ向かってくる士道を発見する。声をかけようとしたが、士道は俺に目もくれず忙しそうに周囲の警察官たちに指示を出している。その形相は険しく、焦って怒鳴るような仕草も見てとれる。
ふむ。
おそらくなにかあったのだろうがまだ朝のうち。そこまでクリティカルな情報ではないだろう。俺は忙しそうな士道刑事を慮って、そのままスルーして帰ることにした。
「おい! アンタ! 黒繰さん!」
が、意外なことに士道から声がかけられた。士道は足を止めた俺に駆け寄って「嬢ちゃんは?」と聞いてくる。
「このあと合流する予定です」
「そうか。ああ、えっと、詳細は話せないんだが、その、このあと嬢ちゃんに話を聞きたい。なんなら署に来てもらうことになるだろう。で、アンタにも聞きたいことがある」
「昨日のことなら粗方話したあとですが」
「かもしれねえな。だが、俺が聞きたいのは今日のことだ」
士道は手帳とペンを取り出し言った。
「貴志耀平を見なかったか? 昨日解散してから、今日、ここに来るまでの間にだ」
俺は右手で口元を覆い、考える風を装いながら「いえ、見ていないと思いますが……なにかあったんですか?」と言ってみる。
「いや、見てないならいい。引き留めて悪かった。またあとでな」
士道は足早に署の奥へと消えていった。
右手で口元を覆ったまま小さく笑みを零す。なるほど、なかなか展開が速い。いいペースだ。明日までに解決するかどうかまではわからないが、とにかく順調とみえる。
察するに貴志耀平が消えたのだ。いなくなった。消息が掴めない。警察は今、その足取りを追っている。
今日が終わるまでに見つかることを祈っている。
事件が二幕目に突入したらしいことを予感しながら、やがて、電話を折り返してきた明崎さんと警察署前で合流することとなった。
「悪い、嬢ちゃん。警察に協力してやってほしい」
開口一番、士道が頭を下げた。午前九時三十分。警察署内三階、第一会議室である。
電車と徒歩で警察署までやってきた明崎さんと、正面入り口でそれを出迎える俺。を、見た警察官から報告を受けたらしい士道がすぐさま俺たちを確保して署内に連れ込んだ結果だった。
第一会議室には二台一組の長机が三列並べられており、一列につき椅子が六つ置けるスペースが空いている。どうやら設営真っ最中のようで士道以外の警察官数人が慌ただしく椅子を運んでいた。
「え、えっと、事情はよくわかりませんが、私にできることなら……」
困惑する明崎さん。今日はオフホワイトの襟付きワンピースにブラウンニットのカーディガン姿だった。足元はワインレッドのローファー、肩には白いショルダーバッグを地面と垂直にかけている。
士道は「ああ、悪い、説明が先だよな」と逸る気持ちを抑えるように頭を掻いた。
「今からこの部屋に桜花宴の大学生を集めて話を聞いていく。ただ、突然警察に呼び出されて素直に内情を話すかっていうと、たぶん違う。そこで、嬢ちゃんには集められた大学生に紛れての情報収集を頼みたいンだ。証拠能力はなくてもいい。ただ、小さなことでもとにかく情報が欲しいンだ。……民間人にこんなこと頼むべきじゃねえってのは、わかってる。それでも」
士道は一度言葉を切ったあと、真剣な眼差しで続けた。
「――嬢ちゃんを探偵と見込んで協力を頼みたいンだ。昨日の現場、バミリテープの下からハチが見つかった。今回のホシは貴志耀平だ」
明崎さんは一度「なるほど」と合いの手を入れた。次いで「貴志さんは今どちらに?」と切り込む。
「わからん」
士道は端的に言ったあと、右手で額を押さえながらため息をついた。
「わからないンだ……昨日、事情を聞いたあと家に帰した。今日の朝また来るように行ってな。だが、どうやら貴志の奴、昨日は家に帰っていないらしいンだ。大学から三駅離れたアパートに一人で住んでるはずなンだが、聞き込みの結果、昨日はそのアパートに寄った形跡すらない。逃げたンだ。今、足取りを追ってる。少しでも情報が欲しい」
「そういうことでしたか……」
明崎さんは考え込むように腕を組む。
「警察としては、貴志さんの逃げ込みそうな場所を探している感じですか?」
「場所もそうだが、人も探してる。貴志が逃げるのを手伝いそうな奴、貴志を匿っていそうな奴だ。場所については組織捜査が向いてる。が、人脈を当たるとなると時間がかかる」
「そこで、桜花宴の学生に対してある程度コネクションのある私に情報収集の依頼が来るんですね」
頷く士道。
「なンなら、貴志を匿っている人間を推理で当ててもらって構わない。人間は事実を隠すし嘘もつく。警察相手にそれをしようと思うと余計に気合いも入るだろう。そんな共犯者が最後に一息つける場所が、ここだ」
そう言うと、士道は右足のつま先で床を二度叩いた。
「取調室に入ってからが決戦だと思っている、そんな共犯者を嬢ちゃんには探ってもらいたい。できそうか?」
明崎さんは苦笑しながら「大役ですね……」と言った。
「できる限り、やってみます。ただ、私からもひとついいですか? 条件というほどではありませんが、言っておきたいことが」
「なンだ?」
「相手も人間だということを考慮してもらいたいんです」
意味を図りかねる顔の士道へ、明崎さんは言う。
「同じ大学の学生が亡くなって、そのうえ犯人と目されていた学生が失踪して、みんな不安だと思うんです。休日に突然警察に呼び出されて、話を聞きたいと言われて。きっと、貴志さんについてなにか知っている人も、知らない人も、強く不安を感じているはずなんです。そのことを心に留めておいてほしいんです」
士道は、少しだけなにを言うべきか迷う表情をした。
「そう、だな。そうだ。嬢ちゃんの言いたいことも、わかる。しかしな、殺人事件なンだ。俺は警察官で、人情を理由に追及の手を緩めちゃいけねえンだ」
「わかっています。ですから、配慮ではなく考慮で十分なんです。相手も人間です。事実を隠すことも、嘘をつくことも、勘違いで話すことも、忘れてしまうこともあります。甘く追及しろと言うつもりはありません。ただ、みんな不安なんです。その不安に寄り添うのが、本来、私が探偵をやっている理由なんです」
明崎さんの吐露に、士道は息を吐きながら「わかった」と返した。
「とにかく、十時からだ。十時から学生を集めて一人ずつ話を聞いていく。受付に一人警察官を配置する。呼び出しも警察官が行う。が、この部屋で話を聞くのは嬢ちゃんメインでやってほしい。他に必要な物があれば、用意させる」
「わかりました」
言って、明崎さんは俺を見た。その瞳には優しくも決意を秘めた星が瞬いている。
誰かの不安に寄り添うための、探偵。
「今日も助手をお願いしていいですか? 黒繰さん」
そんな明崎さんが他の誰でもないこの俺を――黒繰朔夜を助手として必要としてくれる。
こんなに嬉しいことがあるだろうか?
「もちろん。いつでも君をサポートするよ」
そう応えると、明崎さんは星を閉じ込めた瞳を細めて嬉しそうに微笑んだ。




