3-8・手に入れた唯一
緞帳の下りた劇場内の五百か六百はある客席のうち、どこに座るかは個人の自由意思に委ねられていた。俺は当然明崎さんの隣だが、明崎さんは安曇の隣を選び、安曇は出入口に近い適当な場所に座ったため、俺たち三人は劇場出入口近くの、客席を広く見下ろせる一角を陣取ることとなった。サークルメンバーはそんな俺たちと距離を取るように客席中央付近に固まって座った。特に、瑞木の周囲には裏方組が集っている。監督の長潟も瑞木が視界に入る位置に座り、しかし貴志だけが誰からも孤立するように少し離れた位置に一人で座っているのだった。
俺は楽屋から回収した鞄を隣の空いた椅子に置きながら「残念だったね」と言った。
「そうですね。助けられませんでした」
明崎さんは気落ちしているようだった。
「でも、できる限りのことはやったんじゃないかな」
「そ、そうだよあかり! すごかったよ!」
俺と安曇がそう声をかけると、明崎さんは空元気気味に笑って「ありがとうございます」と言った。
「事件なのか事故なのかはまだわからないですけど、でも、王鞍さんが亡くなってしまったことは事実です。原因究明のため、警察に協力しましょう」
頷く俺と安曇。もちろん、それが明崎さんの方針であれば従うだけだ。
「それにしても最近なんか治安悪いよね。あかりは知ってる? 例のキラプロとかいうの」
うわ、口語としてキラプロが使われている場面を初めて見た。鳥肌立ちそう。
明崎さんは安曇の問題提起に「きらぷろ?」と小首を傾げた。
「そうそう、匿名殺人伝道師だったかな? なんとかキラープロデューサーだよ。ネットで殺人トリックが買えるんだって。なんかの秘密組織らしいよ」
「それは……その、人を殺す方法がネットに出回ってるってことですか?」
「そうそう、すごい値段で取引されてるって噂」
明崎さんは一瞬言葉を失ったように黙ったが、やがて、劇場の椅子に深くもたれるとため息をついた。
「なんでそういうことする人がいるんだろう……」
「いや、わかんないけど……お金になるからじゃない?」
安曇の適当な返答を聞いて、明崎さんは一度目を閉じたあと、開けた。
「だとしたら、軽蔑します。許せない。お金のために悪意をばら撒いて、人の気持ちを利用して、人の命を弄ぶ。お金が理由じゃなくても、どんな理由でも、許せない」
安曇は「あかりってときどきメンタルが正義の味方っぽいよね」と言ったあと、違う話題を提示し始めた。
俺は、それ以上安曇の話題が頭に入らず「ちょっと離席するね」と声をかけると立ちあがって劇場から出た。
ホール内、男子トイレ。俺は他に誰もいないことを確認すると一番奥の個室に入った。内側から鍵をかけ、立っていられなくなり洋式便座に座り込む。
――だとしたら、軽蔑します。
――どんな理由でも、許せない。
明崎さんの言葉が頭の中でぐるぐると回っている。明崎さんが、みんなに優しいあの明崎さんが『軽蔑する』だって? 『どんな理由でも許せない』? 匿名殺人伝道師を指してそう言ったのか?
俺は、ようやく、自分がなにかとんでもないことをやっているんじゃないかという気分になってきた。
あの明崎さんが軽蔑するようなことを続けてきたのか、と。
誰にでも優しい明崎さん。誰にでも公平な明崎さん。誰でも助けようとする明崎さん。誰でも尊重しようとする明崎さん。そんな彼女が誰かに対して心からの失望と軽蔑を露わにした。明崎さんのあんな目はこれまで見たことがない。瞬いていたはずの星はすべて墜ち、どこまでも失意が広がる大きな瞳。昏く沈んだ光の届かない空の果て。まるで星々の墓場だ。あんな明崎さんは初めて見た。しかも、彼女がそうと気付いていないだけで対象は俺だ。俺は彼女をあんなにも落胆させたのだ!
――そう、俺だけが彼女にあんな顔をさせられるのだ。
俺は右手で口元を抑えた。今にも笑い出しそうだ。明崎さんのあの表情、あの感情こそ俺に向けられた唯一だ。とうとう彼女の、彼女にとっての特別という地位を手に入れた。俺のスペースだ。俺だけの、他の誰も介在しない、俺と明崎さんだけの舞台! 俺が隣にいなくても、彼女が探偵じゃないときでも、彼女が俺のニュースを見るとき、その心は確かに俺が捕らえて離さない! 許せない? 許せないだって? それはどのくらい許せないことなのだろう? すぐ隣で助手として一緒に事件を解決してきた俺がすべての黒幕だったと知ったとき、彼女は一体どんな顔をするのだろう!
「ふふ、ふ――はは、あはは――ふふ」
俺は一人、笑い出しそうになるのを必死で堪えながら、同時に酷く悲しい気分になっていることに気がついた。理由はわからない。その感情が本当に『悲しい』なのかどうかも、よく、わからなかった。とうとう我慢できなくなりやがて両目から涙がぽたぽた落ち始める。俺は最初それを左手で拭っていたが、間に合わなくなり、両手で目を擦り始める。なぜ泣いているのかわからない。あんなに欲しかった明崎さんの唯一を手に入れたのに。別に、軽蔑でもいいじゃないか。なにがいけないのかわからない。なにが悪いのかわからない。まだバレたわけじゃない。明崎さんからの態度は変わらないはずだ。なのに、どうして。
訳もわからず泣きながら、俺は明崎さんの手作りお菓子をどうしようもなく恋しく感じた。
手洗い場で手と顔を洗い、鏡を確認する。泣き腫らすというほどではないが、よく観察すれば俺が直前まで泣いていたことに気付く人間もいるだろう。
ハンカチをポケットにしまいながら、失敗したなと思った。そんなつもりでは決してなかったのだ。言い訳を考えておかなければならない。今回に限り『助けようとした人間が目の前で死んだという事実にショックを受けた』ことにもできたが、なんとなくプライドが許さなかった。
「でも、そろそろ戻らないとな……」
右手首に巻いた腕時計を確認する。リハの開始が二時、劇が大体一時間半から二時間程度のボリュームで、直後に王鞍が死んでおり、警察の介入や事情聴取が進んで今が夕方の五時前だ。
「いや、よく考えたら今日中に終わらない可能性もあるか」
万が一、これはあくまで可能性の話だが警察機関による拘束が明後日の夕方まで及んだ場合、果たして会食の予定はどうなるのだろうということに思い至り俺は首を傾げた。黒繰家現当主主催の会食だ。しかし黒繰家としても流石にただの会食のためだけに警察組織に圧力などかけないだろう。そうだと信じたい。いや、案件の重要度にもよるか。
「……一応、外島に連絡を入れておくか」
俺はスーツの内ポケットからスマホを取り出すと、外島白兎――黒繰の家に仕える使用人みたいなものだ――に電話をかけてみた。
「もしもし、外島でございます」
外島はすぐ通話に応じた。
「ああ、俺だけど。ちょっと問題が起きてね。端的に、明後日の会食予定時間、俺が警察に拘束されてたりしたらナシになったりしない?」
外島は「おやおや」と笑ったあと言った。
「一体なにをなさったんですか? もみ消しますか?」
「およそ最悪の発想だな。俺がなにかやらかしたことが前提になるのか。ちなみに、いくらまでなら出せるんだ?」
「五億くらいじゃないでしょうか」
「小学生の言い出しそうな金額だが黒繰の家が関わってくると妙に現実感のある数字で嫌だな」
俺はしばらく電話口の外島と笑っていたが「いや、冗談でなく本当に問題が起きている。目の前で死人が出た。俺は容疑者だ」と真面目なトーンで言ってみる。
「そうですか。轆轤様にご報告されますか?」
「いや、まだいい。こちらで対処できないほどじゃないさ。ただ、連絡くらいは入れておこうと思ってね」
「ありがとうございます」
「しかし、もしかして万が一の場合は会食に参加できないかもしれないな。いや非常に残念だ。そうなったらご当主サマには根回しを頼みたいんだ」
外島は声を潜め「ズル休みはいかがなものかと」と注意してきた。
「ズル休みだなんて。俺は一般市民として警察の捜査に協力するだけだよ。それとも、黒繰の家っていうのは警察よりも偉いのか?」
返答しないまま、外島は言う。
「とにかく、明後日は七時から会食のご予定です。当日三十分前までには車でお迎えにあがります」
「家にはいないと思うけど」
「大丈夫です、お迎えにあがります」
コイツ、俺にGPSとか仕込んでないだろうな。
俺は軽く笑いながら「わかったよ」と返す。
「お前と話していると気分転換になるよ」
「……。今からでも伺いましょうか? 電話では話しにくいこともあるでしょう」
「いや、いい。このあと事情聴取だ」
「弁護士を連れて参りますよ」
「いいって。過保護だなお前も」
外島は、冗談めかして喋る俺とは対照的に「あなたが鈍感なんです」と真面目なトーンで言った。
「目の前で死人が出て、容疑者になっているんでしょう? あなたは、あなたが思うよりずっと不安なはずだ。ストレスを感じていると言い換えてもいい。私でよければ、すぐ、伺います」
俺は返答に迷い、少しだけ黙っていた。
「今、どこにいらっしゃるんですか?」
「……いや、いい。大丈夫だ。明後日の会食にもちゃんと出るよ」
「朔夜様」
「大丈夫だ。俺はお前が思ってるほど弱くない。もう切るよ」
言葉を続けようとする外島を遮って、俺はそのまま通話終了ボタンを押した。今、外島に来られると困る。黒繰の家に仕える人間なのだ。俺が場に対して圧力をかけようとしていると捉えられると流石に不利だ。
それに、今の俺を見れば外島ならきっと泣いたあとだと気付くと思った。
気付かれたくない。外島にも。明崎さんにも。誰にも。
俺はもう一度顔を洗うと、劇場内の客席へ戻ることにした。




