3-5・悪意への対処法
明崎さんは、俺に対して怒っているとまではいかないだろうが、呆れるというか、苦言を呈すというか、ちょっとどうかと思うといった表情だった。そういえば明崎さんがいないからと姫宮を強めに追い払ったのに、当時の状況を明崎さんの目の前で再現してしまったかたちになる。失敗だったかもしれない。しかし、あの場を乗り切るには実演が一番速かった。明崎さんに誤解されたままだと悲しいし、そもそも俺自身被害者だ。一刻も早く潔白を証明したい気持ちだって、ゼロではなかった。
その結果として姫宮とか王鞍とかが不利益を被るとしても、別に、構わなかった。先に手を出したのは向こうなのだ。やり返してもなんとも思わない。
でも、明崎さんにとって姫宮と王鞍は友人なのだ。俺という部外者を連れて来た立場もある。
大人げなかったし、稚拙だった。子どもっぽい。もっと穏便に済ませることだってできたはずだ。
少なくとも、今の状況――明崎さんからの叱られの可能性については十分考慮しておくべきだったのだろう。
もう、遅いが。
「……ごめん」
「謝るべきは私ではないと思います」
うーん、バッサリだ。これは失敗した。しかし俺は明崎さんへの謝罪の気持ちはあるが姫宮とか王鞍とかには謝罪の気持ちがない。湧いてこない。必要と感じない。自業自得なんじゃないのか?
「いいですか、黒繰さん」
俺の心のうちを見透かしたように明崎さんは言った。
「自業自得という考え方もできると思います。でも、黒繰さんの今回の行動には明らかに悪意を感じます。相手にとっての嫌なことをしてやろうという積極性です。私はあまりいい気分ではありませんでした」
「……、でも、その」
先に悪意を向けてきたのは姫宮だ。たしかに俺も悪かった。でも、姫宮のほうが先に悪かった。悪意に悪意を返してなにが悪いのかわからない。
「人間社会を生きる以上、悪意に晒されることは避けて通れません。でも、向けられた悪意に悪意を返すことは相手からの報復を呼びます。悪意というのは連鎖し感染していくものなんです。どこかで誰かが断ち切らなきゃいけません」
でも、それは別に俺じゃなくてもいい。
「誰もが断ち切らなくてはいけないものなんです。黒繰さんに限ったことではありません。まりんちゃんも、王鞍さんも、そして私も。誰しも心に悪意を持っています。でも、それを人に向けてはいけないんです。完璧に抑えることができなくても、そうあろうとする生き方が、その人や周囲を少しでも幸せにすると私は思います。いたずらに悪意をぶつけ合い、相手が泣き出すと『ざまあみろ』なんて笑っている、そんな人もいるでしょう。でも、そんな人たちに負けないでほしいんです。外から向けられる悪意、そして内なる悪意への誘惑と戦うことが必要なんです」
「………………」
思ったよりガチめに怒られている。
なんと釈明すればいいのか――いや、そもそも同意すればいいのか拒否すればいいのか――わからない。泳ぐ目でたどたどしく顔色を伺うと、明崎さんは真っ直ぐに俺を見ていた。見詰めていた。責められている気がして一歩後ずさった。背中に汗が滲む。息が苦しくなってくる。口内が乾いて言葉が出てこない。俺はただ、いや違う、たしかに悪意を込めてやり返した。でも、そうしないと相手がつけあがる。そうだ! 悪意には悪意を返さないと生き残れない。悪意がなければナメられそのまま潰される! 善意だけで世の中を渡っていくことは不可能だ!
「理想論だ」
震えるような小さな声で言い返した。
「わかっています」
毅然として、明崎さんは答えた。
「でも、理想を掲げなければ人は前には進めません」
もはや言い返すこともできず、項垂れる。言いたいことが理解できないわけではない。しかしとても納得したとは言い難い。明崎さんの言い分は彼女も認める通り理想論だ。それもかなり、難易度が高い。そんなもの実行できっこない。それに、今回悪かったのは俺だけじゃない。一番悪いのは姫宮海心だ。姫宮がこの場にいないのになぜ俺だけが明崎さんに怒られなければならないのだろう。いや、それより、そんなことより問題は、今回の失敗によって明崎さんから俺への好感度が下がってしまったのではないかということだ。
端的に、俺は、明崎さんに嫌われてしまったのではないだろうか?
だとしたら、嫌だ。
眩暈のようなものを覚え数歩フラつく。息が、整わない。手汗で鞄を取り落としそうだ。力の込め方をうまく思い出せない。クラクラと動悸がする。世界が、歪む。
嫌われたくない。
怒られたくない。
見捨てられたくない。
いつでも隣に置いてほしいのに。
「……黒繰さん?」
呼ばれ、思わず離れようとして衝突音と共に壁に阻まれる。無意識のうち後ろに下がり過ぎてしまっていたらしい。
追い詰められた。
俺はいよいよ鞄を取り落とした。浅く荒い呼吸を繰り返し指先の冷えた両手で胸元を掴む。相手を直視できない。どころか、目の前は真っ暗だ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。嫌いにならないで。言われた通りにする。なんでもする。許してもらうためなら土下座なんかも厭わない。泣き出さないし叫び出さない。うるさくしない。俺が悪いと認めるし反省するし謝罪もするからどうか嫌いにならないで!
小さくもあたたかな右手が、冷たく強張る俺の手に触れた。
「一度外に出ましょう。私はもう怒っていませんよ、黒繰さん」
その言葉に、視界が明滅するように徐々に機能し始める。ここがどこで、俺の他に誰がいるのか思い出す。呼吸が少しずつ戻ってくる。目の前には明崎さんが立っていて、その表情は今はやわらいでいた。
「…………」
「行きましょう」
手を引かれるまま、楽屋を出た。
桜花宴大学葵ホール近辺にはベンチがいくつも並んでいた。が、俺たちの他には誰の姿もない。そういえば大学は休講しているのだったか。彼女は俺をもっとも近いベンチに座らせると、そのまま、ただ隣に座り手を握っていた。
レンガ敷きの地面と、無造作に置かれた自分の足とを茫と眺める。どこか現実感が希薄で、しかし繋いだ左手に伝わる俺ではない体温が逆説的に俺という存在を証明していた。
「落ち着きました?」
顔を上げると、明崎さんがいつものように俺に笑いかけていた。
なんと返答すべきか少し考え、微笑みながら「大丈夫だよ」と言ってみる。
「そうですか。……。以前にもこういった状況になったことがあるか聞いても大丈夫ですか?」
「こういった状況?」
どういった状況を指しての言葉なのか咄嗟に判断できず、首をかしげる。もしかしてアバズレの登場で泥沼の三角関係になるみたいな状況のことだろうか。
明崎さんは、俺がなにについて問われているのかわからない様子であることを把握すると「わかりました。大丈夫ですよ」と言って俺の手を握り直した。
「私も専門家ではないので、その、対応を間違うこともあります。今回は落ち着いたみたいでよかったですけど、まぐれみたいなものっていうか、トリガーを引いたのもたぶん私ですし、一度、ちゃんとした機関に相談してみたほうがいいかもしれませんね」
三角関係の専門機関……? たしかにきっかけは明崎さんかもしれないが、そもそも王鞍がいるのに俺にアタックを仕掛けてきた姫宮が悪いという事実は不動だ。明崎さんが気にする範囲ではない。
「明崎さんのせいじゃないよ」
言葉にして伝えてみたが、明崎さんはなんだか曖昧な顔で返事を控えた。
「そろそろリハーサルの時間ですね」
「ホールに戻る?」
「黒繰さんは、どうしたいですか?」
どうしたいもなにも、今日の目的は最初からリハの見学なのでは?
俺がすぐ返事をしなかったからだろう、明崎さんは「……もう少し、ここにいましょうか」と提案した。俺は「わかった」と返した。




