2-8・ホワイダニット
「いらっしゃ――」
来店すると同時に迎えの今朝方が俺を見てフリーズした。明崎さんが「二人です」と言っても今朝方が動く様子はなく、不思議そうに小首を傾げた彼女は今朝方の視線を追って俺を見た。
しかしそんな俺もまだ混乱の最中におり、なぜ今朝方がいつものように動かないのかいまいちよくわからない。明崎さんに視線を返し、首を横に振る。
と、今朝方が勢いよく頭を下げながら言った。
「お兄さん、今日はごめんなさいでした! ジセーのク、調べました! 調べたけどよくわかんなかったです! でもセップクはわかりました! 無理ッス! できないです! 許してくださいです!」
その言葉でようやく思い出す。そういえばこの男、俺より先に明崎さんのお菓子を食べたのだった。事実を聞いた当初はまったくもって許しがたい裏切りにも思えたが、今は、そうでもなかった。今の俺は明崎さんのお菓子を食べるどころかそのお菓子を作った手と手を繋いでいるのだ。時系列の前後など、どうでもいい。どのみち今日中に三度目の来店を果たした以上、食後のデザートとして明崎さんのお菓子が食べられることはほとんど保証されているようなものだ。だから言った。
「わかった。もういいよ、今朝方くん。許す許す」
俺の言葉に今朝方は驚いた様子で顔をあげ、次に俺と明崎さんが仲良くお手々を繋いでいるのを見つけ、もう一度顔をあげて俺を見た。
「ははあ! はあ、はあ! なるほど!」
なにかに納得し激しく頷く今朝方。
「了解ッス! 許してもらえてありがとでした! 二名様ッスね! お席、好きなところどうぞです!」
今朝方の挙動が通常運転に戻ったらしいことだけ確認すると、俺と明崎さんはいつもの窓際のボックス席に向かい合って座った。
「黒繰さん、今朝方さんとなにかあったんですか……?」
不思議そうに尋ねる明崎さんへ「別に、なにも」と返すと、俺は彼女にメニュー表を勧めた。
明崎さんが注文したのはオムライスだった。白い皿に乗った黄色い衣に、古き良きケチャップが赤く彩りを添えている。対して俺はカルボナーラを注文していた。黄みがかったソースを纏うスパゲッティの上には棒状の厚切りのベーコンと黒胡椒。料理たちはあたたかな湯気を立て、香り、いかにも美味しいですと主張してくる。つけあわせのコーンスープを口に含めば、身体が内側からあたたまるような気がした。
「今日は割り勘ですよ、黒繰さん。誘ったのは私なので」
明崎さんはあらかじめそう宣言すると、オムライスの代金をテーブルに置き俺へ差し出した。同じ轍は踏まないというわけか。
「わかった。じゃあ、受け取っておくね」
俺は鞄から財布を取り出し、受け取った小銭をしまった。持ってきていてよかった。電子決済が主流だと、たまに、財布を忘れてもまったく支障が出ない。が、明崎さんと会うときは持ってくるのが正解なようだ。
「今日は休日のはずだったのに、なんだか忙しかったですね」
オムライスを食べる明崎さんは、口の端にこぼれそうになるケチャップを軽く舐め取るとそう言った。
「もちろん困っている人は放っておけません。でも、困っている人を助けるには助ける側にも余裕がないと、駄目なんです」
口の反対側にまだケチャップが付いているのだが、明崎さんはそれに気付かない様子で言葉を続ける。
「私が探偵をしている最中であっても、その私本人や、助手である黒繰さんの調子が悪いと、良い結果にはなりません。だから、途中で気分や体調が悪くなったら、すぐ、教えてほしいんです。約束できそうですか?」
俺は一口分のカルボナーラをフォークで巻きながら「わかった。善処するね」と答えた。可愛いからケチャップの指摘はあとでも構わないだろう。
彼女は安心したように微笑んで「それにしても、美味しいですね」と、本当に美味しそうにオムライスを頬張った。もしかしてオムライスが好きなのだろうか? これでも家事は一通りできるつもりだ。今度、オムライス作りに挑戦してみてもいい。
「そういえば、明崎さんのお菓子はいつ食べさせてもらえるのかな?」
軽く探りを入れるつもりで言うと、彼女は「ん!」と呻き声のようなものをあげ、片手で口元を覆いながら頬張っていたオムライスを咀嚼し、飲み込んだ。
「す、すみません! すっかり忘れてて……! えっと、焼き上がったものがまだ店にあるはずなので、食後に持ってきてもらえるか今朝方さんに聞いてみますね! あと、このお菓子は前回のお礼なので、今回の分はまた別途、お渡しします!」
パーフェクトな回答だ。俺は微笑むと、彼女の頬についたケチャップの位置を知らせるように自分の頬を人さし指で示した。
「え? あ、えっ!?」
明崎さんは慌てておしぼりで口元を拭った。
お礼のお菓子は、ネタバレされたようにマフィンとクッキーだった。
クッキーはよく見るようなプレーン生地とココア生地が市松模様になった四角いものだ。が、こんがり焼けた茶色のマフィンはよく見ると生地がところどころ紫色に変色している。
「ブルーベリージャムのマフィンと、アイスボックス・クッキーです。紅茶はアールグレイにしてみました」
アールグレイという名前もよく聞くものだが、実は紅茶はあまり詳しくない。
とりあえず、主役だろうブルーベリージャムマフィンを手に取ってみる。直径約五センチ、片手で持てるサイズだ。マフィンは当然すっかり冷めていた。温度変化に伴って味が変化するかどうかは知らないが、他の客には焼き立てを振る舞ったということは、そうなのかもしれない。惜しいことをしたものだ。マフィンには底から側面にかけてブラウンの紙がついている。おそらく生地を入れるための型なのだろう。切れ目を探してマフィンを横向きに一回転させてみたが、見つからなかった。
「あ、横から破っちゃって大丈夫です」
正面に座る明崎さんが、どこか緊張した様子で言う。その表情は『いつ食べるのだろうか』と物語っている。どうせ冷めきったマフィンだ。いくら時間をかけて観察しても問題ないと思ったのだが、明崎さんの視点に立ってみれば、審査されているように感じるのかもしれない。それは悪いことをした。別に、いじわるがしたいわけじゃない。
マフィンの側面から型紙を破り、取り除く。生地にはブルーベリージャムが混ぜ込まれている。食べ方に迷う。
「がぶっと! がぶっと食べて大丈夫です! かぶりつきです!」
がぶっとかぶりつきらしい。
俺は「じゃあ、いただきます」と言ったあと、素直にマフィンをかじってみた。一口で食べ切るには厳しいサイズと密度なので、何口かに分けて食べるべきだろう。しっとりほのかに甘い生地に、ブルーベリーが香る。なるほど、美味しい。特に甘いジャム部分との遭遇率がいい割合だ。しかし食べづらい。食べ方が下手なつもりはなかったのだが、生地が皿の上にこぼれてしまった。うまく食べるにはナイフとフォークを使ったほうがいいのだろうか?
「ど、どう、ですか……?」
頬を紅潮させた明崎さんと目が合う。彼女は祈るように両手を組みじっと俺を見つめていた。
「うん、美味しいよ」
微笑んでみせれば彼女は「ほ、本当ですか?」と念を押すように聞いた。
素直に本当だと言ってもよかったが、期待と不安の入り混じった独特の表情があまりにいじらしく思わず「いや、嘘かもしれない」と言ってしまう。
「う、嘘なんですか!?」
慌て始める明崎さんを眺めながら、俺は何も言わずニコニコ顔でマフィンをもう一口かじった。
これだ。俺が求めていた瞬間が今ここにある。探偵助手としてのご褒美デー。約束から実に五時間近くが経過していた。午後八時、夕食後にしてようやく俺は目的を達成したのだ。
マフィン最後の一欠片を口に放り込み、咀嚼し、飲み込む。ああ、明崎さんの焼いたマフィンがなくなってしまった。いくらでも食べるのに。毎日でもいいのに。
「大丈夫、ちゃんと美味しかったよ」
「よ、よかったあ~……」
俺がマフィンを食べてしまうのをじっと見ていた明崎さんは、よほど緊張していたのかテーブルにへたり込んだ。
「家族や友人以外にお菓子を振る舞う機会って、あんまりなくて」
「それは光栄だね」
俺も、誰かからの手作りお菓子をこんなに警戒心なく食べるのは久しぶりだ。
学生時代は同学生から、社会人になってからは会社の人間からチョコレートをもらうイベントが年に一日単位で発生するが、大抵は断るか、もらっても他に適当に配っている。中でも手作りは最悪だ。何が入っているのかもわからないハイリスクの品物をそこまで親しくない人間からもらっても、食べようとは思わない。食べずに配るか余れば捨てる。
そんな俺が目の前で食べて感想を言いたくなるような手作りお菓子を作れるのは、世界中探したとしてもきっと、目の前にいる明崎さんただ一人なのだ。
紅茶とクッキーにも手を伸ばす。紅茶は、お菓子が甘いのでストレートで飲むことにする。口に含むと柑橘系の香りが広がる。コーヒーのような苦味はなく、特有の渋みが軽く舌を撫でた。紅茶は、普段飲まないだけで嫌いではない。淹れるのが手間という程度だ。そしてその手間を惜しまない明崎さんによって俺のためだけに淹れられた紅茶が、このアールグレイだ。素晴らしく美味しいものに感じる。クッキーもちょうどよい甘さで、紅茶とよく合っている。二種類の生地を使って作られていることもあり、目にも楽しい。
明崎さんが事件を解決する様を間近で見られるうえにお菓子までいただけるなんて、こんなに贅沢なことはない。いつでも、いくらでも助手をしようではないか。
明崎さんは机に寝そべったままクッキーを食べる俺を見上げていたが、やがて「えへへ」と照れるように笑ったあときちんと椅子に座り直した。
「さて、いい時間ですからそろそろ解散にしましょうか」
「うん。また何かあったらいつでも呼んでね」
「お世話になります。……ところで黒繰さん。これは蛇足かもしれないのですが」
前置きして、明崎さんは俺の鞄――正確にはその鞄の横のトートバッグを指さした。
「そちらの荷物は結局なんだったんでしょうか? 今日はお仕事帰りということで仕事の道具なのかもと思いましたが、それにしては軽そうですし。普段は鞄一つのイメージだったので、小さなことなんですけど、気になってしまって」
俺は、今まさに飲み干した紅茶のカップをソーサーに置いたあと、動きを止めた。
しまった、しまったしまったしまった忘れていた。まさか指摘されるとは。流石は探偵と言わざるをえない。
トートバッグの中には、明崎さんへのプレゼント――手帳型スマートフォンケースがラッピングされて入っていた。
問題は、渡す理由がないこと。
「あ、いえ、言いたくないなら大丈夫なんです。ちょっと気になっていただけで……」
明崎さんはそうフォローする。もちろんここで『言いたくない』あるいは『気にすることじゃない』を主軸に誤魔化すこともできる。しかし、誤魔化すということはすなわち明崎さんへのプレゼントを諦めるということだ。ここで指摘されなければ俺はそのまま忘れたまま家に帰ってそういえば渡しそびれたことを思い出し軽い自己嫌悪に陥っていただろう。しかし、そうはならなかった。明崎さんが指摘したからだ。俺はプレゼントの存在と侵略の画策を思い出す。渡すなら、今だった。チャンスが来たのだ。今を逃せば二度と渡せない。千載一遇、またとない、理由なんてなんでもいいのだ!
――いや、なんでもいい、のか?
俺はここで一度立ち止まるように考えをまとめ始めた。
今回の事件、明崎さんは言った。動機が問題だ、と。
動機。なぜ。ホワイダニット。
俺にとってはどうでもよく思えるそれらも、明崎さんにとっては、そうではないのかもしれない。
特別で、大切なのかもしれない。
俺は紅茶のカップから手を離すと、スーツの襟を正した。
「これは……実は、明崎さんに受け取ってほしいもので」
「? 私に、ですか?」
明崎さんは、俺が姿勢を正したのに合わせるように背筋を伸ばした。
俺はトートバッグの中からラッピング袋を取り出した。赤いリボンのついた、黒い片手サイズの袋。それを両手で持って目の前の明崎さんに差し出す。
「これ、を、……」
頬が紅潮し、手が汗ばむ。うまく言葉が出てこない。俺は赤くなってしまった顔を伏せるように俯くと、言った。
「あ……明崎さんに、使って、ほしくて。受け取って……ほしくて」
両手の上に乗せたプレゼントが宙に浮く。明崎さんが受け取ったのだろう。そのまま彼女の声は「開けてみてもいいですか?」と期待を込めて聞いてくる。
俺は手を引っ込めて膝の上に置くと、頷いた。
体の中、鼓動が大きく響いている。俯きがちに明崎さんの様子を伺うと、彼女の手はリボンを解き、袋から中身を取り出した。
「わ……!」
嬉しそうに驚きの声をあげる彼女の両手には、黒をベースに赤の差し色が映える手帳型スマホケースがあった。ダイヤ状にキルティングされたレザー素材がこだわりだ。柄は無地のものを選んだ。同じメーカーの別商品にはスワロフスキーをあしらったものもあったが、選ばなかった。明崎さんに華美な装飾品を好むイメージがなかったからだ。
明崎さんはさっそく今使っている手帳ケースを外し、新しいものに付け替る。
そして俺からの贈り物が彼女のスマホにぴったり嵌ることを確認すると、頬を染めながらこちらに向け笑いかけた。
「ありがとうございます! 大切にしますね」
俺は、侵略の成功を祝しながら熱いままの顔で彼女に笑い返した。
「どういたしまして」




