2-6・否定の否定
不意に、誰かに肩を掴まれた。
「おい、大丈夫か兄ちゃん? 体調悪いのか? 疲れたか?」
士道だ。手にはコーヒー缶と俺のスマホとを持っている。戻ってきたのか。
差し出されるスマホを受け取りながら「いえ、少し、仕事のトラブルで」と言い訳し、姿勢を正した。
「あー、なんか仕事してたって言ってたもんな。大変だなアンタも」
士道は言って、缶コーヒーのタブを起こした。
「……なんか、盛り上がってんな、嬢ちゃんたち。やっぱ女ってのは怖えよなァ……入りづれえわ、あの雰囲気……」
居心地の悪さを感じるのは俺だけではないらしい。
仕切り直すため、スーツの襟を直しながら雑談に興じることとする。
「捜査になにか進展は?」
「ん? ああ……やっぱり、強盗の目撃情報は上がってこねえな。それから、死亡推定時刻は発見の二時間くらい前じゃねえかってことがわかってる。ま、これは参考程度に聞いてくれ。そんなに正確に割り出せるモンじゃねえからな。しかしそうなると一時半から二時前までアリバイのねえ鴨居が一番怪しいってことになる。郡については、ここに来る途中に別の債務者の家に寄ったっつー証言が出てる。それを今、別動隊が裏取りに向かってる。が……もしその証言が正確なら郡はシロだ。債務者の家ってのがここからちょっと距離があってな」
俺は「なるほど」と言って鴨居を見た。鴨居が犯人かどうかは知らないし興味もないが、このままだと、彼女は厳しく追及されることになる。三百万程度であれば『自白する』に賭けてもいい。殺していようがいまいが関係ない。鴨居の今の精神状態であれば、攻めれば落とせる。責めれば落ちる。やっていてもいなくても、彼女は自白するだろう。セリフは、そうだな――私が殺したのかもしれません、だ。
「現場からは第三者の指紋やDNAは検出されてない。検出されたとして、それが鷹柱や郡のものなら矛盾ってほどでもねえだろ。あの二人なら家を訪ねたことがあっておかしくない。……正直、鴨居が一番怪しいのは事実なンだが俺も疑い切ってるわけじゃねえ。あくまで状況証拠しか出てきてねえからな。もし本当に鴨居の犯行じゃねえンなら、嬢ちゃんみたいにケアしながらじゃねえと……誰に補助を頼むかな……」
士道が数人の女性警察官と思われる名前を呟くのを聞き流しながら、俺は鴨居から視線を移し鷹柱を見る。鴨居はおそらく自白するだろうが、鷹柱ならどうだろうか? もし鷹柱に限定するなら、やっていようとなかろうと『自白しない』に賭ける。鷹柱は絶対に自分の間違いを認めないタイプと見た。そして仮に鴨居が自白しても、鷹柱は鴨居の潔白を主張して疑わないだろう。彼女は庇護者のつもりでいるのだ。なにが『守ってあげる』だ。そんなことできやしない。
あるいは、自己暗示の類いかもしれないが。
と、鷹柱と目が合った。鷹柱は俺の隣に士道の姿を認め、途端に鋭く睨みを効かせ始める。まるで番犬だ。しかし躾がなってない。鴨居も鷹柱にされるがまま。首輪がついているのに誰も手綱を握っていない。
空回りだ。
明崎さんが俺たちに気付き、軽く手を振った。こちらに来いということだろう。俺はスマホをジャケットの内ポケットにしまいながら女性陣のもとへ向かった。
「ごめんね、仕事の電話。でも、もう大丈夫だから」
士道も後ろからついてきて「あー、その、なんだ、捜査へのご協力、感謝する」と下手な世辞を言った。
「なにそれ、皮肉のつもりかな? っていうか、もう帰っても構わないよね? ……ヒトエ、どうする? ホテルでも取る? 家で旦那が死んでたら、帰れないよね。……そうだ! うちに来なよ! 泊まっていって! ね!」
「いや、帰っていいかどうかは、まだ……。どのみち、単衣さんには今後もお話を聞きたいンで、ホテルを取るなら住所のほうを……」
「はぁ!? まだヒトエのこと疑ってるの!? 信じられないな! 強盗でも郡でもいいからさっさと捕まえなよ! ヒトエは犯人じゃない!」
「つ、ツムちゃん、ちょっと声が大きいよ……」
周囲の警察官からの視線を受け、鴨居が控えめに注意する。士道は頭を掻きながら「とにかく、もう夜になるンで、お話は明日以降ということになると思いますンで」と苦しく言い訳した。
「ちなみに、郡さんは犯人じゃない……と警察は見てるんですか?」
明崎さんの質問に士道は「それは今調査中っつーか……」と言葉を濁した。それに鷹柱が噛みつく。
「なら早く調査しなよ! 絶対にあの男が怪しいよ! アタシにはわかるんだから!」
「わ、わかってらァ! だから調査中って言ってンだろが!」
売り言葉に買い言葉。しかも議論は平行線の予感がする。俺は右手首に巻いた腕時計を確認した。午後六時十五分。
窓の外の日はもうすぐ落ちる。――夜になる。
そんなとき、廊下から一人の警察官が小走りに士道の元へやってきた。どうやら探し回っていたらしい若い警官の男は「士道さん! 郡のアリバイなんですが……」と報告しかけて、鴨居と鷹柱の姿を認めると声を潜め「ちょっと」と士道を呼び出した。
士道が一瞬離席したのを受けて、鷹柱が「今のうちに帰っちゃおっか?」と鴨居に声をかける。鴨居が戸惑う様子を見せると、今度は明崎さんが「もう少し待ちましょう」と声をかけた。鴨居が頷いたのは、明崎さんの言葉だった。
「も、もう少し待とうよ、ツムちゃん。勝手に帰ったら、刑事さんたち、困っちゃうよ」
「困らせとけばいいよ、警察なんて」
「そういうわけには……」
「あ! そうだ、このあと晩ご飯食べに行こうよ! お昼は一緒に食べられなくてごめんね。でも、夜は大丈夫だから! ヒトエはなに食べたい?」
「わ、私は……」
鴨居は俯いた。
「あんまり、食欲なくって」
「……、そっか。でも、食べれるときに食べとかなきゃ。ね」
多少強引ではあったが、鴨居は鷹柱の言葉に小さく頷いた。
俺も明崎さんを食事に誘おうか二秒だけ迷ったが、考え直す。今もっとも優先されるべきは夕食ではではない。
今もっとも優先されるべき事柄、それは明崎さんが俺のために焼いてくれたマフィンとクッキーの入手だった。できることなら目の前で食べて感想を伝えたい。加えて、このマフィンとクッキーは前回時点での助手のお礼ということだったはずだ。今回の鴨居(夫)殺害事件のお礼はまた別でもらえるのかどうかも確認しなければならない。
俺は明崎さんの探偵助手なのだ。誰にも隣を譲ったりなんかしない。誰にも彼女を渡さない。彼女は俺だけの探偵なのだ。依頼人のものでも、警察のものでもない。
明崎明を探偵として見出したのは、この俺――黒繰朔夜なのだから。
と、明崎さんが席を立ち俺の前に移動した。
明崎さんの身長は俺の記憶が確かであれば152センチ。俺とは23センチの差がある。そんな明崎さんが俺を見上げながら心配そうに言った。
「黒繰さん、大丈夫ですか? 先程から、その、顔色が悪いっていうか。もしかして熱でもあるんじゃ……?」
彼女は右手を伸ばし、俺の額に触れた。
「やっぱり、ちょっと熱いですよ。今日は、もう帰っても大丈夫ですよ? 鴨居さんと鷹柱さんのことは、私がちゃんと――」
見ておくので。そう続けそうになった明崎さんの言葉を遮って、彼女の肩を両手で掴んだ。やめてほしい、そんな言葉で俺を突き放さないで。俺は今、ちゃんと君の隣にいるのに。
「大丈夫だから」
俺は、驚いて目を開く明崎さんを直視しながら言う。
「俺は大丈夫だから。ちゃんと見届けさせて。熱なんかないよ。大丈夫。いつでも君のサポートができる。きちんと君の助手でいるから。心配しなくていい」
「く、黒繰さん……?」
「俺は、今日の俺はそんなに足手まといだったかな? 役に立てなくてごめんね。頑張ってたつもりだったんだけど、駄目だったんだね。今からもっと頑張るから、ちゃんとするから、大丈夫だから。なんでも言いつけてほしい。俺は君の助手だから――」
ああ、駄目だ。
――自己暗示だ。
わかっている。本当は俺自身が一番よくわかっている。俺は、明崎さんの探偵助手に相応しくない。でも、それを彼女の口から直接なんて聞きたくない。探偵が依頼人のメンタルケアをしているときに仕事の電話で席を立つ助手なんて、いない。聞いたことない。そんな奴は助手失格だ。わかっている。でも、それを突きつけられたくない。だって、あの場にいても面白くなかった。興味がなかった。関心がなかった。どうでもよかった。そう、どうでもよかった! 俺は明崎さんの犯人当てが見たいのだ! なぜ殺したのかには興味がない!
「少しだけ、失礼しますね」
明崎さんはそう断ると、肩を掴む俺に一歩近付いて、抱きしめるように背中に腕を回した。
「は……?」
抱きしめるように? 違う、抱きしめられている。俺が? 明崎さんに?
彼女の肩から両手が離れ、着地点を見つけられず宙に置き去りとなる。衣服越しに触れる明崎さんの身体は俺よりあたたかく、柔らかい。そしてとても小さいと感じた。触れれば折れてしまいそうなのに、背に回された腕はたしかに俺を捕まえて決して離さなかった。
「黒繰さんは、ちゃんと私の助手です。足手まといでも、役立たずでもありません。駄目なんかじゃありません。今日も、黒繰さんがいてくれて助かりました。別行動が多かったですけど、でも、黒繰さんが頑張ってくれていること、私にはちゃんとわかってます」
彼女の顔は俺の肩に隠れ見えない。それでも、瞳が見えなくとも、この言葉が彼女にとって虚飾でないことが伝わってくる。
俺は、なにも言い返せずただ両腕を床に向かって下げた。あんなにごちゃついていた頭の中が綺麗さっぱり真っ白に吹き飛んでいる。一体なにを考えていたのだったか。たぶん、俺に触れ俺を抱きしめる彼女に比べればどうでもいいようなことだったのだろう。
やがて明崎さんは俺の背に回していた手を離すと、数歩距離を取った。
「落ち着きました?」
明崎さんの大きな瞳が俺の様子を伺っている。
俺は何度か瞬きしたあと「はい」とだけ答えた。
「それじゃあ、もう少し待ちましょう」
明崎さんは休憩スペースの椅子に座り直すと、ペットボトルの紅茶を一口飲んだ。
俺はしばらく立ち尽くしていたが、やがて彼女の隣に座り直した。テーブルに置きっぱなしにしていた飲みかけの缶コーヒーを煽ると、いくらか頭が冷えてくる。
――黒繰さんは、ちゃんと私の助手です。
明崎さんの言葉を反芻する。そう、俺という人間は彼女の助手に相応しくないんじゃないかと。でも、そう思ったのはどうやら俺だけで、明崎さんは、そうは思わなかった。思っていなかった。きちんと俺のことを助手だと認めてくれていた。
他ならぬ明崎さんがこの俺を助手だと認識しているのだ。落ち着かないわけがない。
鴨居の方向から気遣うような視線を感じたが、黙殺する。一瞥もくれてやるものか。俺を誰だと思っている。
俺は黒繰朔夜――明崎明さんの探偵助手だ。
それだけわかっていれば、今、この場では十分だ。
鷹柱が鴨居に夕食の提案をしているのをBGMに、俺はしばらくただ茫と座っていた。




