第8話:Junk-Yard Madonna
視界が、おぞましい極彩色に染まっていく。
降り注ぐ雨の一粒一粒が、ジャックの目には「嘲笑う無数の瞳」に見えていた。
「……"Get out of my head!"(俺の頭から出ていけ!)」
ジャックは割れたバイザーを剥ぎ取り、泥の中に膝をついた。
ミストレス・マインドが放つ高周波の「歌」が、ジャックの脳髄に直接、過去の罪悪感を流し込んでくる。
目の前に立つ汚職警官たちが、死んだはずの父エドワードの姿に見える。
彼らが構える銃口からは、弾丸ではなく、黒いヘドロのような「嘘」が溢れ出していた。
『ジャック! ……だめ、ノイズが強すぎて私の声が届かない……!』
インカムから漏れるクレアの声さえ、今や彼をなじる罵倒に変換されていた。
「"Permission to terminate the target."(標的の抹殺を許可する)」
上空の無人ヘリが、冷徹にガトリングの銃身を回転させる。
ジャックは動けない。精神の迷宮の中で、彼は自分を責める幻影の群れに押し潰されていた。
VREEE-!
銃撃の音が鳴り響く直前、闇の向こうから「鉄の礫」が飛来した。
CLANG! ――KABOOM!
ヘリのローターに、無骨な鉄パイプと手製の火炎瓶が直撃する。
バランスを崩した機体が大きく揺らぎ、掃射の弾道が夜空へと逸れた。
「……なんだ……?」
ジャックが顔を上げると、そこには汚職警察でも、ヴィランでもない集団が立っていた。
ボロボロの作業着を纏い、工具や廃材を武器にした男たち。
セント・ミリオネアの底辺――スクラップ・ヤードに住まう、名もなき住人たちだった。
「おい、銀色のお坊ちゃん! こんなところでくたばるんじゃねえぞ!」
先頭に立つ筋骨逞しい男が、ジャックの襟首を掴んで強引に立たせた。
「あんたが俺たちの家を鉄屑から守った時、貸しを作った覚えはねえ。……だが、無一文になったあんたを見殺しにするほど、俺たちは落ちぶれちゃいねえんだよ!」
銃弾が再び降り注ぐ中、住民たちは盾代わりのスクラップを掲げ、ジャックとクイーンを闇の奥へと運び去っていく。
それは、金や権力では決して動かせない、この街の「最も純粋な意志」だった。
地下の下水道跡を利用した、スラムの隠れ家。
天井からは湿った水滴が滴り、剥き出しの電熱器がオレンジ色の微かな光を放っている。
ジャックは、廃バスを改造したベッドの上で、ようやく意識を浮上させた。
全身を包んでいた激痛は、古びた、しかし清潔な包帯によって幾分か和らいでいる。
「……"Where am I...?"(ここは……どこだ……)」
「黙って寝てな、お坊ちゃん。あんたの丈夫な体が自慢なら、まずはその肺に入った煤を吐き出すのが先だよ」
低い、だが包容力のある声。
ジャックが視線を向けると、そこには油に汚れたオーバーオールを纏い、太い腕で溶接機を操る中年の女性がいた。この居住区のリーダーであり、最高のメカニック、通称「マドンナ」だ。
「……マドンナ。……俺を、助けてくれたのか」
「あんたが『ヴェンディス』だった頃に寄付してくれた医療キットが、巡り巡ってあんたを救ったのさ。……皮肉なもんだねえ、ジャック」
マドンナは、作業台に置かれた「VENDYS MARK-II」の残骸を顎で指した。
「……無茶をしたもんだ。装甲の半分が死んでる。……だが、安心しな。ここはスクラップの宝庫だ。あんたの『不殺の玩具』を、地獄から戻してやるよ」
『ジャック! ああ、良かった……やっと繋がったわ……』
枕元に置かれた古い通信機から、クレアの声が漏れる。
「"Claire... I'm okay."(クレア……俺なら大丈夫だ。……お前は無事か?)」
『私は大丈夫。住民たちが秘密の通路を使って、私をここまで運んでくれたの。……今は隣の部屋で、ミストレス・マインドの精神汚染を遮断するフィルターを組んでいるわ』
クレアが部屋に入ってくる。その表情には疲労の色が濃かったが、瞳には強い意志が宿っていた。
『ジャック。……ミストレス・マインドは、あなたの「罪悪感」を増幅させている。……でも、見て。このスラムの人たちは、あなたの「資産」じゃなく、あなたの「行動」を信じてここに集まっているわ。……あなたはもう、孤独じゃない』
「……孤独、か」
ジャックは、煤で汚れた自分の手を見つめた。
金があった頃、彼はすべてを自分一人で背負うのが「責任」だと思っていた。だが、すべてを失った今、自分を支えているのは、名前も知らない人々の温もりだった。
「"Listen, Jack."(聞きな、ジャック)」
マドンナが、新しく打ち直した黒い胸部装甲をジャックに放り投げた。
「あんたの親父さんが何をしたかは知らない。……だが、あんたが今、血を流してまで守ろうとしているこの街の連中は、あんたの味方だ。……その重みを忘れるんじゃないよ」
「……"I won't."(……忘れないさ)」
ジャックは立ち上がり、重い黒鉄の装甲を再びその身に纏い始める。
それはかつての「黄金の鎧」ではない。
街の痛みと、人々の願いを溶かし込んだ、真のヒーローの鎧だった。
ドォォォォン……!
スラムの入口を塞いでいた廃車が、紫色の爆炎と共に吹き飛んだ。
汚染された霧が、地下通路の湿った空気を侵食していく。
「見つけたわ、迷子の迷子の王子様」
霧の向こうから、優雅に歩み寄るミストレス・マインドの影。
彼女の背後には、虚ろな瞳で銃を構えた「亡霊部隊」の兵士たち、そして……精神を汚染され、自分の喉元にナイフを突き立てている数人の住民たちがいた。
「"Mind! Get out of this place!"(マインド! ここから失せろ!)」
暗闇を割り、ジャックが姿を現した。
マドンナの手で修復された「VENDYS MARK-II」は、もはや元の面影を留めていない。
重厚なリベットが打ち込まれ、表面は無骨な梨地仕上げの黒。それはまさに、スラムの闇に潜む「鋼鉄の野獣」そのものだった。
「あら、素敵なゴミ箱ね。……ねえジャック、教えて? その汚れた鉄屑で、この哀れな住人たちの『悲鳴』を止められるかしら?」
ミストレス・マインドが香炉を揺らす。
操られた住民たちが、恐怖に顔を歪めながらも、自らの首に刃を食い込ませていく。
『ジャック、だめよ! 直接攻撃すれば、彼らの精神がショックで焼き切れるわ!』
クレアの叫びがインカムに響く。
「"Don't worry, Claire. I have a new strategy."(心配するな、クレア。……新しい戦い方を教わった)」
ジャックは地面を蹴った。
飛行ユニットはない。だが、マドンナが強化した脚部の高圧シリンダーが、爆発的な跳躍力を生む。
WHAM!
ジャックは兵士たちの射線を潜り抜け、住民たちの真っ只中へ着地した。
彼が繰り出したのは攻撃ではない。
MARK-IIの両肩から展開された「アース・アンカー」を地面に突き立て、装甲全体を巨大な「避雷針」へと変えたのだ。
「"VENDYS, Sound-Canceler: 200%!"(ヴェンディス、消音波:二百パーセント!)」
VREEE-!
ジャックが放ったのは、敵を倒すための音ではない。ミストレス・マインドの「歌」を完全に打ち消す、逆位相の周波数。
住民たちの手が止まり、ナイフがカラリと地面に落ちる。
「な……私の歌を打ち消すだなんて!?」
驚愕するマインド。
「"This isn't your stage anymore."(ここはもう、お前のステージじゃないんだよ)」
ジャックは霧の中を突進し、住民を庇いながら、亡霊部隊の突撃銃をその鋼の拳で叩き折った。
不殺の三角形。
ジャックは今、自分を支えてくれた住民たちという「重み」を背負い、一歩も退かずに最前線に立ち続けていた。
「……面白いわ、ジャック。その鉄屑に、住民たちの『信頼』まで溶接したっていうわけ?」
ミストレス・マインドは顔を歪め、香炉からさらに濃密な、血のように赤い煙を噴出させた。
煙がジャックのバイザーを覆い、センサーが次々とダウンしていく。
だが、今のジャックにはクレアという「眼」がある。
「"It's useless, Mind."(無駄だ、マインド。……俺には、お前のまやかしを暴く『未来』が見えている)」
「あら、その未来、本当に信じていいのかしら?」
マインドの唇が、不吉な弧を描く。
「その子はね、ジャック。あなたの代わりに『死のノイズ』をすべて引き受けているのよ。……あなたの未来を明るくするために、彼女の脳は真っ黒に焼け焦げている。……視えない? 彼女の瞳の奥で、秒読みを始めた地獄のタイマーが」
「……何だと?」
『ジャック、聞かないで! 私は大丈夫、まだ戦えるわ!』
インカムから届くクレアの声。だが、その響きは以前よりも弱々しく、かすかな嗚咽が混じっていた。
「ねえ、ジャック。あなたがヒーローを続けるほど、その子は死に近づく。……あなたが不殺を貫くために払っている『命の代価』は、あなたの資産じゃない。……その子の命そのものなのよ!」
ジャックの動きが止まる。
MARK-IIのパワーアシストが、彼の迷いに呼応するように震えた。
その時、暗闇の中からディストピアの残影が、マインドの隣に浮かび上がった。
「"The weight of a soul, Jack."(魂の重さだ、ジャック。……お前が救おうとする市民一人につき、クレアの寿命が一分削られるとしたら。……お前はそれでも、その手を汚さずにいられるか?)」
ジャックの脳裏に、かつて父が遺した言葉がよぎる。
『……不殺を貫くための、最後の一片は……』
もし、そのピースが「誰かの犠牲」の上に成り立つものだとしたら。
ジャックは拳を握りしめた。鉄のグローブが軋み、火花を散らす。
「"Don't let them win, Jack!"(奴らに勝たせないで、ジャック!)」
背後でマドンナが叫び、溶接機を投げつけた。
「あんたが迷えば、ここにある全部がゴミになる! あんたが信じなきゃならないのは、そっちの亡霊じゃねえ。……隣で震えてる、その嬢ちゃんだろうが!」
「……"You're right."(……その通りだ)」
ジャックは、精神の迷宮を力任せに振り払った。
バイザーが割れ、片目から血が流れる。だが、その瞳はディストピアの幻影を真っ向から睨み据えていた。
「"Claire, I trust you."(クレア、俺はお前を信じている。……お前を救う方法も、俺が必ず見つけ出す。……だから、今は俺に『道』を見せてくれ!)」
「"VENDYS, Overdrive!"(ヴェンディス、オーバードライブ!)」
ジャックは吼えた。
MARK-IIの駆動系が、設計上の限界を超えた凄まじい金属音を上げる。
ミストレス・マインドが放つ赤い霧を、ジャックは逃げずに真正面から吸い込み、強引に肺から吐き出した。
精神を侵食する幻覚よりも、今、彼の腕の中で脈打つ「不殺の覚悟」の方が勝っていた。
「"Is that all your 'Nightmare' can do?!"(お前の『悪夢』は、その程度か!?)」
ジャックは地面を爆破するように蹴り、ミストレス・マインドへと肉薄した。
WHAM!
黒い鋼鉄の拳が、マインドが掲げていた香炉を正確に粉砕した。
極彩色の煙が四散し、支配から解かれた「亡霊部隊」の兵士たちが、毒気を抜かれたように膝をつく。
「あ、私の……私の聖域が……!」
マインドが驚愕に目を見開く。その喉元に、ジャックの無骨な鉄の指先が触れた。
だが、彼はその喉を握り潰すことはしなかった。
「"Go back to the darkness, Mind."(闇へ帰れ、マインド。……お前の歌を聴く者は、もうこの街にはいない)」
ジャックは彼女の首筋に、強力な神経鎮静剤を流し込んだ。不殺。彼は最後まで、その「呪い」のような誓いを捨てなかった。
マインドは力なく崩れ落ち、暗い下水路の底へと沈んでいった。
『……ジャック。……勝ったのね』
通信機から届くクレアの声は、安堵で震えていた。
『未来が……少しだけ、晴れたわ。……でも、ジャック。視えるの。……マインドが残した「毒」は、もう街のインフラに溶け込んでいる。……彼女はただの、前座に過ぎなかった……』
「……前座だと?」
ジャックは、マインドが投げ捨てた通信端末を拾い上げた。
そこには、ディストピアから送られた最後のアラートが赤く点滅していた。
[CENTRAL TOWER: SHUTDOWN IN 10 MINUTES.]
(中央管制塔:十分後にシャットダウン)
[THE NEW WORLD BEGINS.]
(新しい世界の始まりだ)
同時に、スラムの入口を守っていた住民たちが叫び声を上げた。
「おい、空を見ろ! 街の灯りが……!」
ジャックが通路の出口から夜空を見上げると、セント・ミリオネアの全ての電力が一点、あの中央管制塔へと吸い上げられていくのが見えた。
それは、クイーンが狙っていた「レギオン」の起動ではない。
街そのものを巨大な「処刑装置」に変える、ディストピアの最終計画の始動だった。
「"Claire, get ready."(クレア、準備しろ)」
ジャックはボロボロの装甲を叩き、再び拳を握りしめた。
「"The debt is not paid. Not yet."(負債はまだ払いきっちゃいない。……これからが、真の清算だ)」
暗闇の中で、MARK-IIのモノアイが、鋭いスチールブルーに輝いた。




