第9話:Death March
セント・ミリオネアが絶叫に包まれた。
中央管制塔が放つ不気味な脈動に呼応し、街中の全端末が、ある「真実」を吐き出し始めたのだ。
それは、ヴァン・ドレン社が隠蔽し続けてきた、全市民の資産状況、秘密の負債、そして――過去に切り捨てられた人々の記録だった。
「"Is this... hell?"(これが……地獄か?)」
ヴェンディス・マークツーのバイザー越しに、ジャックは狂気に染まる街を見下ろした。
信号機はすべて赤になり、自動運転の車両は暴走し、人々は互いの資産を奪い合おうと街頭へ溢れ出している。
その混乱を切り裂くように、重量級の歩行音が響いた。
STOMP! STOMP! STOMP!
港湾地区から市役所へと続く大通りを、巨大な鋼鉄の影が闊歩している。
バリスティック・クイーンだ。彼女の背後には、かつてジャックが封印したはずの自律兵器「レギオン」の完成体が、軍隊のような隊列を組んで行進していた。
「"Listen, people of St. Millionaire!"(聞きなさい、セント・ミリオネアの民よ!)」
クイーンの拡声器が、パニックを煽るように吼える。
「この街の富は嘘で塗り固められていた! 今、私はそのすべてをシャッフルしたわ! 奪いたいなら奪いなさい、殺したいなら殺しなさい! その混乱こそが、あんたたちが愛した王様の『真の遺産』よ!」
『ジャック、だめよ! 街の憎悪が臨界点を超えているわ!』
インカムから届くクレアの声は、激しいノイズと悲鳴に埋もれかけていた。
『ミストレス・マインドが残した「毒」が、クイーンの暴走と共鳴している。……このままだと、あと三十分で街全体が共食いを始めるわ!』
「"Not on my watch!"(俺がいる限り、そんなことはさせない!)」
ジャックは高圧シリンダーを唸らせ、摩天楼の壁面を蹴って跳躍した。
飛行ユニットはない。
だが、今の彼には、スラムの住人たちが打ち直した「折れない鋼鉄」がある。
KLANG!
ジャックはレギオンの隊列の真っ只中へ、隕石のごとく着地した。
「"VENDYS, Online."(ヴェンディス、オンライン)」
不殺を誓った黒い死神。
かつてこれほどまでに「命」が安く取引された夜はなかった。
ジャックは拳を握りしめ、自分一人で街全体の憎悪を食い止めるべく、地獄の行進へと立ちはだかった。
セント・ミリオネア中央管制塔、最上階。
かつてジャックが街の繁栄を誇らしく見下ろした場所は、今や電子の墓標へと変わっていた。
剥き出しのサーバーから這い出す無数のケーブル。その中心に、バリスティック・クイーンは鎮座していた。彼女の神経は街の全インフラと直結し、その瞳は不気味な赤色に明滅している。
「"Is he coming, Claire?"(あいつは来るかしら、クレア?)」
クイーンの問いに、部屋の隅で拘束されたクレア・ボヤンスは、青白い顔で沈黙を守っていた。彼女の銀色の瞳は、サングラスを突き抜けて激しく発光している。
『……視えるわ、ジャックがここへ来る道が。……でも、それは死への一本道よ』
クレアの声は、もはや通信機を通さずとも響くほどに、予言の余波で震えていた。
『クイーン、お願い……止めて。今のジャックに、あなたの「帳簿」を清算する力なんて残っていないわ』
「"I don't need his power."(力なんていらないわ)」
クイーンが冷酷に笑う。
「私はただ、彼が『不殺』という名の無力な鎖に繋がれたまま、守りたかった人々に踏み潰される光景が見たいだけ」
一方、街の地表。
ジャックはレギオンの残骸を跳ね除け、管制塔へと続く橋の上で立ち止まっていた。
MARK-IIの冷却ファンが悲鳴を上げ、黒い装甲からは絶え間なく蒸気が噴き出している。
「……"Status, Claire. Why did you stop talking?"(状況はどうだ、クレア。……なぜ黙っている?)」
ジャックの問いに、数秒の空白があった。
やがて、ノイズの向こう側から、震えるクレアの声が返ってくる。
『ジャック……。来ないで。……視えたの。あなたがこの塔の最上階で、クイーンの弾丸を受けて、笑顔で死んでいく未来が』
「……"Smile, huh?"(笑顔で、か)」
ジャックは血の混じった唾を吐き捨て、歪んだヘルメットを叩いた。
「"Sounds like me."(俺らしいな)」
『……ふざけないで! 未来は確定しているのよ! あなたが「不殺」を守れば、あなたは死ぬ。……あなたが彼女を殺さない限り、この街の行進は止まらない!』
「"Listen to me, Claire."(いいか、クレア)」
ジャックは一歩、管制塔へと踏み出した。
「"Predicting the future is your job. But breaking that future... that's my job."(未来を予言するのがお前の仕事だ。だが、その未来をブチ壊すのが……俺の仕事なんだよ)」
ジャックは、スラムの住人たちが打ち直した黒い拳を握りしめた。
富もなく、翼もなく、残されたのは「死の予言」だけ。
だが、王座を追われた男の瞳には、かつて億万長者だった頃にはなかった、静かな情熱が宿っていた。
「"The march stops here."(行進はここで終わりだ)」
管制塔へと続く『グローリー・ブリッジ』は、地獄の縮図と化していた。
クイーンのハッキングにより、個人の隠し口座や過去の不祥事を暴露された市民たちは、憎悪の矛先を「隣人」へと向け、暴動を起こしている。
その混乱を鎮圧するという名目で、レギオンの完成体たちが無慈悲な銃口を向けていた。
「どけ! ここは俺たちが奪い返した場所だ!」
逆上した市民の男が、鉄パイプを振り回してレギオンに殴りかかる。
レギオンの赤色灯が明滅し、即座に「排除対象」としてロックオンした。
VREEE!
銃撃が放たれる直前、黒い影がその射線上に割り込んだ。
KLANG!
ジャックは厚い装甲の肩で男を突き飛ばし、レギオンの銃撃を真正面から受け止めた。
MARK-IIの胸部装甲が砕け、火花がジャックの視界を焼く。
「……"RUN! NOW!"(走れ! 今すぐにだ!)」
ジャックの叫びに、正気を取り戻した男が逃げ出していく。
だが、代償は大きかった。ジャックの周囲には、さらなる十数体のレギオンが包囲網を形成していた。
「"Is this what you wanted, Queen?!"(これが望みか、クイーン!?)」
ジャックはバイザー越しに管制塔を見上げ、吼えた。
「罪のない人間に、自分たちが生み出した怪物の弾丸を浴びせるのが、お前の正義か!」
『……ジャック、だめよ! 感情を昂ぶらせれば、ミストレス・マインドの残したナノマシンが活性化するわ!』
拘束されているクレアが、モニター越しに悲鳴を上げる。
その時、管制塔の巨大スピーカーからクイーンの嘲笑が響き渡った。
「"Justice? No, Jack. This is 'Accounting'."(正義? 違うわ、ジャック。これは『会計報告』よ)」
クイーンの合図と共に、レギオンたちが一斉にジャックを無視し、逃げ惑う市民たちへと再び銃口を向けた。
「あんたが一人を救うたびに、別の誰かが死ぬ。あんたの不殺は、この街の帳簿をさらに赤字にするだけなのよ!」
「"I'm not letting any more red on this ledger!"(これ以上、この帳簿を赤く(血で)染めさせはしない!)」
ジャックは、スラムのマドンナが強化した高圧シリンダーを限界まで圧縮させた。
飛行ユニットがない代わりに、彼は自身の肉体を弾丸に変える。
WHAM!
ジャックは地面を粉砕して跳躍し、レギオンの隊列をなぎ倒しながら管制塔の入り口へと突進した。
背後から放たれる弾丸がMARK-IIを削り、バイザーに「残存エネルギー:1%」の警告が点滅する。
それでも、彼は止まらない。
三角形の真ん中で、彼は自らを「最も安価な盾」として使い、人々の命という「最も高価な資産」を守り抜こうとしていた。
歪んだハッチをこじ開け、ジャックは管制塔の最上階へと踏み入った。
MARK-IIの駆動系は、もはや断末魔のような異音を立て、一歩歩くたびに黒いオイルが床に滴る。
「……"Queen... it's over."(……クイーン……終わりだ)」
ジャックは割れたバイザーを投げ捨て、血に濡れた顔を晒した。
視線の先、サーバーの海に埋もれたバリスティック・クイーンが、冷たく、だがどこか悲しげな瞳で彼を迎え入れる。
「"Is it?"(そうかしら?)」
クイーンが指先を動かすと、ホールの巨大なパノラマ・モニターに、一つのノイズ混じりの映像が映し出された。
「あんたが命懸けで守ろうとしている、その『不殺の信念』の正体を見せてあげるわ」
映像は、十年前の「第零区」の記録映像だった。
そこには、若き日の父、エドワード・ヴァン・ドレンの姿があった。
彼は暴走するレギオンの試作機を前に、冷徹な声で命じていた。
『……処分しろ。記録も、被験者も、そして反対するエンジニアもだ。……死人に口なし、不殺こそが最良の隠蔽だ』
ジャックの心臓が、氷を突き立てられたように凍りついた。
「……"Non-lethal concealment"...(不殺による隠蔽……?)」
「そうよ、ジャック。あんたの親父が『不殺』を掲げたのは、愛のためじゃない。……生かしたまま地下に閉じ込め、二度と太陽を見せないようにするため。殺すよりも残酷な、永遠の沈黙。……あんたの誇る信念は、隠蔽工作のために生まれた歪な道具なのよ!」
『ジャック、だめ! 見ちゃだめ!』
拘束されたクレアが叫ぶ。彼女の瞳からは、過負荷による銀色の涙が溢れていた。
『それは……ネクスト・ジェネシスが捏造した……!』
「"Then why is it so convincing, Claire?!"(なら、なぜこんなに腑に落ちるんだ、クレア!?)」
ジャックは頭を抱え、膝をついた。
ミストレス・マインドの残したナノマシンが、父の裏切りという最高の燃料を得て、彼の脳髄を焼き尽くそうとする。
その時、モニターの中の父が、カメラを直視して微笑んだような気がした。
『ジャック、お前は私の最高傑作だ。……誰一人殺さず、すべてを闇に葬る、最高の檻だ』
「"I am not... a cage..."(俺は……檻じゃない……)」
ジャックの背後から、ディストピアの幻影が重なり合うように現れる。
「"Accept it, Jack."(受け入れろ、ジャック。……お前の正義は、死よりも深い闇だ。……さあ、その絶望を叫べ。街全体を、お前の慟哭で塗り潰せ!)」
ジャックの黒い装甲から、赤黒いスパークが迸る。
それはヴェンディスとしての再起動ではなく、街全体の憎悪と共鳴した、精神の崩壊の兆しだった。
ジャックの黒い装甲から、おぞましい赤黒い火花が噴き出した。
ミストレス・マインドの毒と、父の罪という絶望。それらがジャックの精神を内側から食い破り、MARK-IIを暴走する鉄の檻へと変えていく。
「"Kill... them... all..."(すべてを……殺せ……)」
ジャックの口から、自身の意志ではない、濁った声が漏れた。
バイザーの奥の瞳は、理性を失った紅蓮の光に染まり始めている。
「そうよ、ジャック。それでいいわ」
クイーンが狂喜に顔を歪ませ、サーバーの出力を最大に引き上げる。
「あんたがその手を汚した瞬間、この街の『嘘』は完結する。ヴァン・ドレンの血は、結局、破壊しか産まないことを証明して!」
『……させない……!』
その時、部屋の隅で拘束されていたクレアが、魂を削り取るような絶叫を上げた。
彼女の銀色の瞳から、溢れんばかりの光が放射される。それは予言を超えた、因果そのものを捻じ曲げる意志の奔流だった。
『ジャック! 視て……私の視ている「本当の未来」を!』
クレアの叫びと共に、ジャックの脳内に強烈な閃光が走った。
ミストレス・マインドの悪夢を焼き払い、ディストピアの幻影を切り裂く、眩いほどの「白」。
そこには、血に濡れた父の背中ではなく、幼い頃、怪我をしたジャックを不器用に抱きしめた、ただの一人の男としての父の手があった。
『……ジャック、お前は……私のような「嘘」をつく人間になるな……』
「……親父……?」
精神の迷宮が、内側から爆散した。
ジャックは吼え、胸部装甲を自らの手で引き剥がした。剥き出しの心臓が、赤黒いノイズを跳ね除け、力強く鼓動を刻み始める。
「"VENDYS, Reboot! System Override: THE WILL!"(ヴェンディス、再起動! システム上書き:俺の意志で!)」
[SYSTEM STATUS: ANOMALY]
[PROTOCOL: NO ONE DIES TONIGHT]
赤かったモノアイが、一瞬にして眩いスチールブルーへと反転した。
爆発的な衝撃波が広がり、クイーンのハッキング・ケーブルをすべて焼き切る。
「なっ……あり得ないわ! ナノマシンの汚染を、精神力だけで無効化したっていうの!?」
「"Account closed, Queen."(口座は閉鎖だ、クイーン)」
ジャックは立ち上がり、もはや装甲の半分を失った生身に近い姿で、彼女へと歩み寄った。
「"The curse of Van Doren ends here. With me."(ヴァン・ドレンの呪いは、ここで終わらせる。俺が、終わらせるんだ)」
だがその瞬間、クレアの瞳の光が急速に失われ、彼女は力なく崩れ落ちた。
因果を書き換える代償――それは、彼女の精神が耐えられる限界を遥かに超えていた。
「クレア!」
ジャックが駆け寄ろうとした時、管制塔の外で、かつてないほどの巨大な爆発音が響いた。
クイーンの手を離れ、完全に独立した自律兵器「レギオン」の全軍が、主を失ったことで『街全体の殲滅モード』へと移行したのだ。
「……"Oh, no..."(……嘘だろ……)」
クイーンさえもが絶望に顔を白くする。
倒れたまま動かないクレア。
街を焼き尽くそうとする鋼鉄の軍勢。
そして、武器も資産も使い果たしたジャック。
王座を捨てた男の前に、本当の、そして最後の試練が牙を剥いた。




