第10話:Price of Life: Re-Accounting
セント・ミリオネアの夜空が、紅蓮の炎に染まった。
中央管制塔の制御を失った「レギオン」の軍勢は、もはやクイーンの命令すら受け付けない殺戮の機械群へと変貌していた。
空を埋め尽くすドローンの羽音は、巨大な棺に打ち付けられる釘の音のように街に響き渡る。
「……"Status... report..."(状況を……報告しろ……)」
ジャックは、崩壊寸前の管制塔の床に膝をつき、途切れ途切れの声を絞り出した。
ヴェンディス・マークツーの装甲は、今や左腕と胸の一部を残すのみ。剥き出しの右腕からは血が滴り、引き裂かれたシャツの下で、彼の肉体そのものが悲鳴を上げている。
『……ジャック……聞こえる?』
足元に倒れたクレアが、薄く目を開けた。彼女の銀色の瞳は、光を失った灰色の空のように濁り、視力さえ奪われようとしている。
『……レギオンの完成体が……街の中央広場に集結しているわ。……ディストピアが残した「最終プログラム」が、あと五分で起動する。……街を……自爆させるつもりよ』
「"Five minutes... plenty of time."(五分か……十分すぎるな)」
ジャックは震える足で立ち上がり、傍らで絶望に打ちひしがれているバリスティック・クイーンを見下ろした。
彼女の重厚な外骨格もまた、ハッキングの余波で機能不全を起こし、黒い煙を上げている。
「"Queen. Stand up."(クイーン、立て)」
「"What for?"(何のために?)」
彼女は力なく笑った。
「"It's over, Jack. We've failed. My revenge, your justice... it's all going to burn."(終わりよ、ジャック。私たちは失敗した。私の復讐も、あんたの正義も……すべて灰になるのよ)」
ジャックは彼女の襟首を掴み、強引に引き寄せた。
その瞳には、絶望など微塵もなかった。
「"My accounting isn't finished yet."(俺の清算はまだ終わっちゃいない)」
ジャックの声は、低く、鋼鉄のように冷徹だった。
「"I'm going to save this city. And I'm going to save you."(俺はこの街を救う。そして、お前も救う。……たとえ俺が、二度と『ジャック・ヴァン・ドレン』に戻れなくなったとしてもだ)」
KABOOM!
背後の壁が爆発し、レギオンの先遣隊が室内に雪崩れ込んできた。
ジャックは残された唯一のガジェット――高圧ピストン・グラブを構え、火の海へと一歩踏み出した。
「"VENDYS, Final Sequence."(ヴェンディス、最終シーケンス)」
[SYSTEM: NO ASSETS REMAINING](資産、残存せず)
[ONLY HUMAN WILL DETECTED](人間の意志のみを感知)
「"That's all I need."(それだけで十分だ)」
ジャックは、炎が吹き荒れる摩天楼の窓から、地獄と化した街へと身を投げ出した。
飛行ユニットなどない。
彼は、自らの肉体を最後の一片として、運命という名の帳簿を書き換えに向かった。
吹き荒れる夜風と、眼下から迫りくる業火。
ジャックは重力に身を任せながら、ノイズまみれのインカムに語りかけた。
「"Claire... listen. I have a plan."(クレア……聞け。策がある)」
『……だめよ、ジャック! 今のあなたの体じゃ、着地の衝撃にすら耐えられないわ。それに、レギオンの核を止めるには、生体認証を上書きするしかない。……それは、あなたの神経を焼き切るのと同義よ!』
クレアの声は、管制塔の最上階から届く風の泣き声のようだった。
ジャックは空中で姿勢を制御し、クイーンが放った「アトラス計画」の真実を思い返していた。
「クイーンの父も、俺の父も、この街の礎にされた。……負債は、もう十分に払われたはずだ。……クレア、お前の予言を上書きしろ。俺が死ぬ未来じゃなく、この街に『明日』が来る未来に」
『……そんなこと……私の命が……!』
「"I won't let you die."(お前を死なせはしない)」
ジャックは、わずかに残った胸部装甲のエネルギーを、クレアの持つ端末へと逆送した。
「俺のMARK-IIの残存電力をすべてやる。……それで、クイーンのハッキング・ルートを逆に辿れ。彼女の悲しみと、俺の罪悪感を、この街の『希望』に変換するんだ」
『ジャック……。……わかったわ。あなたの「不殺」……最後まで、見届けさせて』
クレアの意識が、ネットワークの海へとダイブする。
同時に、ジャックは自身の脳内に埋め込まれたニューラル・リンクを全開にした。
資産、地位、肉体の安全。
すべてを「代価」として差し出したとき、彼の網膜には、かつてないほどクリアなセント・ミリオネアの地図が浮かび上がった。
「"Accounting starts now."(清算を始めようか)」
ジャックは落下速度を上げ、レギオンの集結する中央広場へと、銀色の火の粉を散らす隕石となって突っ込んだ。
彼は知っていた。
クイーンの復讐心が、愛する者を失った孤独から来ていることを。
そして、その孤独を埋めることができるのは、冷たいデータではなく、誰かの温かい「自己犠牲」だけだということを。
「"Watch me, Queen!"(見ていろ、クイーン!)」
ジャックは、自身の心臓の鼓動をデジタル信号へと変換し、街全体のネットワークへと叫びを放った。
KABOOM!
中央広場の石畳を砕き、黒い隕石が着地した。
もう、衝撃を吸収するダンパーも、滑空を助ける翼も残っていない。ジャックは右膝の装甲が砕ける衝撃を肉体で受け止め、血を吐きながらも立ち上がった。
目の前には、数百体のレギオンが赤く不気味なモノアイを輝かせ、起動を待つ核融合爆弾を包囲している。
「"Is that all? I've seen better security at a garage sale."(その程度か? ガレージセールの方がまだマシな警備をしてるぞ)」
ジャックは皮肉を投げつけ、右拳の油圧ピストンを無理やり手動で圧縮した。
一斉に銃口が向く。だが、レギオンたちの背後、管制塔のビジョンからクイーンの声が響いた。
「"Stop it, Jack! You'll be torn to pieces!"(やめて、ジャック! 切り刻まれるわよ!)」
「"Then watch closely, Queen!"(なら、よく見てろ、クイーン!)」
ジャックは突進した。
最先端の戦術予測などない。ただ、クレアが送ってくれる「死の隙間」を縫い、泥臭く、執念深く、レギオンの群れの中へと潜り込んでいく。
WHAM!
ジャックの黒い拳が、一体のレギオンの頭部を叩き潰した。
だが、彼はその機体を破壊し尽くすことはしない。回路の一部を焼き切るだけで、機能停止に留める。
KLANG! KLANG!
十数体のレギオンがジャックに組み付き、鋭い爪が彼の肉体を裂く。
それでもジャックは、爆弾の前で震える親子――逃げ遅れた清掃員の父子――の前に立ち塞がった。
三角形の頂点。
標的(爆弾)と、被害者(市民)、そして「盾」となる自分。
「"Get out... of here..."(ここから……失せろ……)」
ジャックは、背中に数本のレギオンの刃を受けながら、親子を逃がすために自身の体を壁にした。
不殺。その誓いが、今やジャックの肉体を物理的な「生け贄」に変えていた。
「"Why?!"(どうして!?)」
ビジョンの中のクイーンが絶叫する。
「"Why would you go that far for people who don't even know your name?!"(どうして名前も知らない連中のために、そこまでできるの!?)」
「"Because... I'm a billionaire, remember?"(……だって、俺は大富豪だろ?)」
ジャックは血まみれの口元で、最高に不敵な笑みを浮かべた。
「"I've got more than enough... soul to spare."(魂の……余剰資産なら、いくらでもあるんだよ)」
その瞬間、ジャックの右拳が、爆弾のメイン・プロセッサへと叩き込まれた。
ジャックの右拳が爆弾のプロセッサを貫くと同時に、街全体のネットワークに凄まじい逆流が発生した。
「ガ、アアアアッ!」
ジャックの脳内に直接、セント・ミリオネアの全インフラから溢れ出す膨大なデータが流れ込む。
それはディストピアが仕掛けた「憎悪の記録」であり、ヴァン・ドレン社が積み上げてきた「負債の正体」だった。
「"Check the data, Queen!"(データを確認しろ、クイーン!)」
ジャックは鼻から血を流しながら、空中のビジョンに向かって吼えた。
「"The debt isn't just about money! It's about 'us'!"(負債は金の問題じゃない! 俺たちの問題だ!)」
クイーンの眼前に、ジャックが自身のニューラルリンクを介して「復元」した、真実のアーカイブが展開される。
そこには、クイーンの父が最期までジャックの父を信じ、この街を救おうとしていた未公開のメッセージが含まれていた。
『エドワード、計画を止めろ。だが……もし失敗したら、君の息子に伝えてくれ。……未来は、金じゃ買えないと』
「……嘘よ。……そんなはず、ないわ」
クイーンの震える声。
彼女が十年抱え続けてきた「復讐という名の帳簿」が、ジャックの自己犠牲と、暴かれた真実によって根底から崩れ去っていく。
「"Van Doren's blood is cursed, but my will is mine!"(ヴァン・ドレンの血は呪われている。だが、俺の意志は俺のものだ!)」
ジャックは、自身を侵食する爆弾の過負荷を、強引にレギオンのネットワークへと逆噴射させた。
その時、爆発の予熱の中に、死んだはずのディストピアの幻影が重厚な足音と共に現れた。
「"Magnificent, Jack."(見事だ、ジャック)」
それはかつての敵の残滓か、あるいはジャックの脳が見せる末期の幻か。
「"You paid the ultimate price to save a woman who tried to kill you. You are indeed... a perfect failure of a businessman."(自分を殺そうとした女のために、最高の代価を払ったな。お前はまさしく……実業家としては完璧な『失敗作』だ)」
「"Maybe so."(……そうかもな)」
ジャックは、幻影の瞳を真っ向から見据えた。
「"But as a human... I'm finally in the black."(だが人間としては……ようやく『黒字』になった気分だ)」
ジャックの黒い装甲が、眩い純白の光を放ち始める。
臨界に達したエネルギーが、街を破壊するためではなく、ジャック・ヴァン・ドレンという「檻」を解き放つために爆ぜようとしていた。
『……ジャック! 今よ! 因果を……書き換えて!』
クレアの魂の叫びが、ネットワークの彼方から届いた。
純白の閃光が中央広場を包み込み、街を覆っていた赤黒い憎悪のノイズを焼き払った。
臨界寸前だった爆弾は、ジャックのニューラルリンクを介した強制冷却によって沈黙し、数千体のレギオンもまた、魂を抜かれた抜け殻のようにその場に崩れ落ちた。
やがて、光が収まる。
クレーターの中心で、ジャックは仰向けに倒れていた。
ヴェンディス・マークツーの装甲は粉々に砕け散り、残っているのは剥き出しの回路と、焼けた布切れだけだ。
「……ハァ、……ハァ……」
ジャックが虚空に手を伸ばすと、その指先を誰かが強く握りしめた。
バリスティック・クイーン――いや、一人の女性に戻った彼女が、涙を流しながら彼を見下ろしていた。
「……どうして。……あんた、本当に死ぬ気だったのね」
「"Told you... I'm a billionaire."(言ったろ……俺は大富豪だ。……命を懸けるくらいの……贅沢はさせてくれ)」
ジャックは血の混じった笑みを浮かべ、そのまま意識を失った。
数日後。
セント・ミリオネアの街には、奇妙な静寂と活気が戻っていた。
ヴァン・ドレン・グループの資産は完全に解体され、市民への賠償と街の再建に充てられた。公式記録上、ジャック・ヴァン・ドレンは「死んだ」ことになっている。
ダウンタウンの、さらに外れ。スラムの奥深くにある小さな診療所のベッドで、ジャックは目を覚ました。
「……おはよう、ジャック」
傍らには、以前よりも少し顔色の良くなったクレアがいた。彼女の銀色の瞳は、もう絶望を映してはいない。
「"Status, Claire...?"(状況は……、クレア……?)」
「街は落ち着いたわ。クイーン……彼女は、あなたの遺志を継ぐと言って、地下へ消えた。……そして、これを見て」
クレアが差し出した安物のスマートフォンには、市民たちが自発的に描いた、黒い翼の紋章――新しいヴェンディスのマークが街中に溢れている映像が映っていた。
ジャックは重い体を起こし、窓の外を見た。
高級なタワーからの絶景ではない。埃っぽく、騒がしい、だが力強い人々の営みが見える景色。
「……"The bank is gone, but the accounts are finally balanced."(銀行はなくなったが、帳簿はようやく均衡したな)」
だが、安堵の時間は短かった。
ジャックが枕元に置いていた古い通信機が、聞き慣れない周波数の信号を受信したのだ。
[NEW MESSAGE: FROM 'NEXT GENESIS']
(新着メッセージ:『ネクスト・ジェネシス』より)
[PHASE 3: THE MIND GAME BEGINS.]
(フェーズ3:精神のゲームを始めよう)
それと同時に、街のビジョンに映し出されたのは、死んだはずのミストレス・マインドが、不敵な笑みを浮かべて「ある人物」の首にナイフを当てている姿だった。
その「ある人物」とは、ジャックを救ったスラムのリーダー、マドンナだった。
「……"No rest for the broke, I guess."(一文無しに休息はない、か)」
ジャックは包帯だらけの体で、再び立ち上がった。
傍らには、マドンナが最期に修理してくれた、さらに無骨で黒いヘルメットが置かれている。
王座を捨てた男の、真の『精神の戦い』が幕を開けようとしていた。




