第11話:The Twisted Sanctuary
セント・ミリオネアの北西区画、「エデン・ガーデン」。
かつては犯罪と貧困が蔓延るスラムの一部だったその場所は、今や不自然なほど鮮やかな極彩色のネオンと、甘ったるい花の香りに包まれていた。
ビルの壁面に設置された巨大なモニター。そこに映し出されているのは、ジャックを救ったスラムのリーダー、マドンナの姿だった。
「"Welcome to the New World, Children."(新しい世界へようこそ、子供たち)」
画面の中のマドンナは、油汚れにまみれたオーバーオールを脱ぎ捨て、神々しいまでの白いドレスを纏っていた。
彼女の瞳は虚ろな銀色に輝き、慈愛に満ちた、だが感情の欠落した笑みを浮かべている。
その首筋には、紫色の血管のように波打つナノマシンのチップが埋め込まれていた。
「"No more hunger. No more pain. Mistress Mind has saved us."(もう飢えはない。痛みもない。ミストレス・マインドが、私たちを救ってくれたのよ)」
モニターを見上げる住民たちは、恍惚とした表情で膝をつき、祈りを捧げている。
彼らが手にしているのは、武器ではなく、ミストレス・マインドから配られた「幸福の香炉」。そこから立ち上る紫色の煙が、彼らの理性を一本ずつ、優しく、確実に焼き切っていた。
その楽園の境界線。
影の中から、泥を被った黒い鉄塊が這い出した。
KLANG!
ヴェンディス・マークスリー。
マドンナが最期に叩き出し、ジャックが自らの手で完成させたそのアーマーは、もはや「洗練」という言葉から最も遠い場所にいた。
剥き出しのボルト、粗い溶接跡、そして艶のないマットブラックの塗装。それは英雄の鎧というよりは、地獄から戻った復讐者の皮膚に見えた。
「……"Is that really you, Madonna?"(……本当にあんたなのか、マドンナ)」
ジャックの声は、歪んだヘルメットの奥で低く、苦々しく響いた。
網膜ディスプレイには、かつてないほどの高濃度汚染アラートが点滅し続けている。
『ジャック、だめ……入っちゃだめよ……!』
インカム越しに届くクレアの声は、かつてないほど悲痛だった。
『あの霧の中に踏み込めば、あなたの脳は一瞬で書き換えられる。……マドンナはもう、私たちの知っている彼女じゃないわ。あれは、ミストレス・マインドがあなたの良心を破壊するために用意した「聖母」なの!』
「"I promised her."(彼女に約束したんだ)」
ジャックは、血とオイルにまみれた黒い拳を握りしめた。
「"I'm not leaving my friends in a dream."(仲間を夢の中に置き去りにはしない)」
SHOOOOK!
ジャックが境界線を一歩踏み越えた瞬間、街のスピーカーから、鼓膜を直接愛撫するような甘い「歌」が流れ始めた。
ジャックの視界が歪み、足元の泥が黄金の砂へと変わっていく。
王座を捨てた男の、最も孤独で、最も残酷な「救出劇」が始まった。
一歩、足を踏み出すごとに、現実が剥離していく。
ジャックの視界では、廃墟の壁に色鮮やかな花々が咲き乱れ、汚濁した下水の音は小鳥のさえずりへと書き換えられていた。
「……"VENDYS, Sensory Filter: Maximum."(ヴェンディス、感覚フィルタ最大)」
ジャックは吐き気を堪え、歪んだヘルメットの側面に拳を叩きつけた。
MARK-IIIの無骨なOSが、無理やり現実の「灰色」を網膜に映し出そうとするが、ミストレス・マインドの放つナノマシンは、物理的な装甲の隙間を縫って彼の神経系を直接侵食している。
『ジャック、応答して! 脳波が……アルファ波が異常に上昇しているわ!』
セーフハウスでモニターを凝視するクレアの声。彼女自身もまた、受信機から漏れ出す微弱な精神汚染に耐えるため、唇を噛み切りながら戦っていた。
「"I'm here, Claire."(ここにいる、クレア。……生憎、脳内が花畑になるほどおめでたい性格じゃないんでね)」
『冗談を言っている場合じゃないわ。……マインドが「エデン・ガーデン」の全電力を使い、街の通信衛星をハックしようとしている。……もし成功すれば、この「幸福の霧」はセント・ミリオネア全域に降り注ぐ。……人々は笑顔のまま、一切の経済活動を止め、一週間以内に飢えと脱水で滅びるわ』
ジャックは、かつて自分が救ったはずの男が、空虚な笑みを浮かべて泥水を「最高級のシャンパン」として飲んでいる姿を視界の端に捉えた。
「"A kingdom of smiles and corpses..."(笑顔と死体の王国か。……ミストレス・マインド、最高の趣味だな)」
『彼女の狙いは、あなたの「不殺」という盾を、内側から溶かすことよ。……救おうとする相手が、救われることを拒んでいる。今のあなたは、彼らにとって「楽園を壊す悪魔」なの。……ジャック、私の声を、唯一の「現実」だと思って。私があなたの脳に、逆位相の精神防壁を流し込む』
「……やってくれ。……ただし、お前の負担は?」
『……気にしないで。予言者の血は、こういう時のためにあるんだから』
クレアの声が、一瞬だけ掠れた。
ジャックには分かっていた。彼女が自身の脳をサーバーとして使い、ジャックの精神を守るための「盾」になろうとしていることを。その代償として、彼女の瞳が、一秒ごとに光を失っていることを。
「"Copy that."(了解した)」
ジャックは黒い鉄のグローブで、胸部の装甲を強く叩いた。
「"The bank is empty, but my heart is still guarded."(口座は空だが、俺の心には最高のガードマンがついている。……マドンナを連れ戻し、あの女に『現実』の厳しさを教えてやる)」
ジャックは、黄金の砂に見える汚泥を蹴り、エデン・ガーデンの中心部、マドンナが待つ聖堂へと走り出した。
エデン・ガーデンの中央広場。
かつては噴水だった場所には、今や紫色の煙を吐き出す巨大な香炉が据え置かれ、その周囲で数百人の市民が手を取り合って踊っていた。
「"Intruder! The Demon is here!"(侵入者よ! 悪魔が来たわ!)」
聖堂のバルコニーから、マドンナの鋭い声が響く。
彼女の指がジャックを指した瞬間、踊っていた住民たちの動きが止まった。彼らは手にしていた「幸福の香炉」を、鈍器や投擲武器として構え、一斉にジャックへと詰め寄る。
「"Get back! I'm not here to fight you!"(下がれ! お前たちと戦いに来たんじゃない!)」
ジャックは黒い装甲の腕を掲げ、飛来する石や鉄パイプを最小限の動作で弾いた。
だが、今の住民たちは「幸福」に酔っている。痛みを感じず、ヴェンディスが自分たちの永遠の眠りを妨げる敵だと信じ込まされている。
「お前さえいなければ、私たちは幸せだったんだ!」
「死ね! ヴァン・ドレンの亡霊!」
住民の一人が、自身の体に火炎瓶を括り付け、笑顔でジャックに抱きつこうと突進してくる。
三角形の頂点。
自爆を試みる住民(被害者)と、それを操るマドンナ(加害者)、そして動けない自分。
「"VENDYS, Suppression Mode! Foam-Grenade!"(ヴェンディス、制圧モード! 瞬間硬化樹脂弾!)」
CH-CH-CHAK!
ジャックは右腕から粘着性の高い硬化樹脂を射出し、突進してくる住民の足元を地面に固定した。同時に、背後から迫る別の住民を、鋼鉄の掌で優しく、だが確実に押し戻す。
「……ハァ、ハァ……キリがないな……!」
『ジャック、だめ! 彼らを突き放すたびに、あなたの脳に「拒絶」のスパイクが打ち込まれている!』
インカム越しにクレアが絶叫する。
『マインドの狙いは、あなたが住民を傷つけ、その罪悪感で自壊することよ!』
「"Then I'll just have to give them a wake-up call."(なら、こいつらを叩き起こしてやるだけだ)」
ジャックは、住民たちの波に飲み込まれながらも、視線をバルコニーのマドンナへと固定した。
彼女の背後、影の中から、ミストレス・マインドの不気味な笑い声が風に乗って聞こえてくる。
「"Welcome to the stage, Jack."(舞台へようこそ、ジャック)」
ジャックは装甲を軋ませ、自らに群がる住民たちを背負ったまま、聖堂へと一歩踏み出した。
それはかつての軽やかな飛翔とは程遠い、泥塗れの、だが誰にも止められない重厚な行進だった。
住民たちの重圧を振り払い、ジャックは聖堂――かつては地域の図書館だった場所へと踏み込んだ。
内部は毒々しい紫色の霧が層を成し、現実と幻覚の境界線が完全に溶け落ちている。
「"You're persistent, Jack. But a knight with no horse is just a man in a tin can."(しつこいわね、ジャック。でも馬を失った騎士は、ただの缶詰に入った男よ)」
吹き抜けのホール。宙に浮く巨大なスクリーンに、ミストレス・マインドの顔が映し出された。
彼女は、一冊の古びた、革綴じの手帳を弄んでいる。その表紙には、見覚えのあるヴァン・ドレン家の紋章が刻印されていた。
「"Is that... my father's?"(それは……親父の……?)」
「ええ。エドワード・ヴァン・ドレンの真実の告白。……ねえジャック、知っている? あなたが大切に守っているその『不殺』の誓い。それは彼が、あなたを『完璧な操り人形』にするために施した、精神的条件付け(コンディショニング)の結果なのよ」
「……何だと?」
「彼は恐れていたの。自分の血を引く息子が、いつか自分を殺しに来ることを。だから彼はアトラス計画の技術を使い、幼いあなたの脳に『他人の死に過剰な恐怖を感じる』呪いをかけた。……あなたの正義は、あなたの意志じゃない。死んだ父親が、自分を守るためにかけた『ロック』なのよ」
ジャックの脳内に、激しい耳鳴りが走った。
MARK-IIIのHUDが赤く明滅し、ノイズが視界を侵食していく。
『ジャック、聞かないで! それも彼女の毒よ!』
クレアの声が、遠く深い水の底から響くように聞こえる。
『あなたの心は、あなただけのものよ!』
「"Is it, Claire?"(本当にそうかしら、クレア?)」
マインドの嘲笑が、ホールの四方八方から重なり合って聞こえてくる。
「彼が不殺を破れないのは、それが『正しい』からじゃない。……破れば、彼の精神が壊れるように設計されているから。……さあ、見せて。そのロックを外して、目の前のマドンナを殺してみなさい。……そうすれば、あなたは本当の自由になれる」
影の中から、マドンナがゆっくりと歩み寄ってきた。
彼女の手には、ジャックがMARK-IIIを造るために手渡した、高熱の溶接トーチが握られている。
「"Jack... help me... or kill me..."(ジャック……助けて……さもなくば、殺して……)」
マドンナの虚ろな瞳から、一筋の銀色の涙が零れ落ちる。
ジャックは拳を握りしめた。
鉄の指が装甲を軋ませ、火花を散らす。
自分の正義は、偽物なのか。
自分を突き動かしてきたこの情熱は、ただの「バグ」に過ぎないのか。
「"Doubt is the deadliest poison."(疑念こそが、最悪の毒だな)」
ジャックは血の混じった唾を吐き捨て、歪んだヘルメットをゆっくりと持ち上げた。
「"You think my will is just a bug in the code?"(俺の意志が、ただのプログラムのバグだと?)」
ジャックは吼えた。
歪んだヘルメットの奥で、スチールブルーの瞳がかつてないほど激しく燃え上がる。
マドンナが振り下ろした高熱の溶接トーチが、MARK-IIIの肩部装甲を焼き、ドロドロに溶け出させた。だが、ジャックは避けない。
「"If this is a curse, I'll wear it."(これが呪いだというなら、甘んじて受けてやる)」
ジャックは、溶ける装甲の痛みさえも精神のアンカー(重し)に変え、強引にマドンナの腕を掴んだ。
「"Madonna! Listen to my heartbeat, not her song!"(マドンナ! あの女の歌じゃなく、俺の鼓動を聞け!)」
ジャックは、自身のニューラルリンクを「強制逆流」させた。
父に植え付けられたかもしれない「死への恐怖」ではなく、今、この瞬間、目の前の友人を救いたいと願う「生への執着」を、マドンナの脳内チップへと直接叩き込む。
KABOOM!
精神的なショートが起き、マドンナの首元のチップから火花が散った。
彼女の瞳から紫色の光が消え、糸が切れた人形のようにジャックの腕の中へ崩れ落ちる。
「……あ、私の……私の聖母を……!」
スクリーンの向こう側で、ミストレス・マインドが初めて焦燥に顔を歪めた。
「"Your move, Mind."(次はお前の番だ、マインド)」
ジャックはマドンナを安全な影へと横たえ、再び立ち上がった。
「"The lock isn't on my mind. It's on your 'world'."(ロックがかかっているのは俺の精神じゃない。お前の作り物の世界の方だ)」
ジャックが右拳を床に叩きつけると、MARK-IIIから強力なジャミング電波が放射され、聖堂のモニター群が次々とブラックアウトしていく。
だが、その静寂を切り裂いたのは、ミストレス・マインドの悲鳴ではなかった。
『……あ、……あああぁぁぁ!』
インカム越しに響いたのは、クレアの、魂を切り裂くような叫びだった。
「"Claire?! What happened?!"(クレア?! 何が起きた!)」
『ジャック……見えない……何も……真っ暗よ……!』
クレアの悲痛な声と共に、通信が激しい砂嵐に飲み込まれた。
ミストレス・マインドの嘲笑が、消えゆくスピーカーから最後の一言を漏らす。
「"Goodbye, Oracle. Your eyes are mine now."(さよなら、預言者。あなたの瞳は、もう私のものよ)」
ジャックの目の前で、聖堂の扉が重厚な音を立てて閉ざされた。
マドンナは救った。だが、その代償として、彼は自らの「眼」であり、唯一の理解者であるクレアの「未来」を奪われた。
「"CLAIRE!"(クレア!)」
ジャックの叫びは、紫色の霧が立ち込める無機質なホールに虚しく響くだけだった。
王座を追われた男を待っていたのは、五感を奪う「完全なる孤独」という名の迷宮だった。




