第6話:The Rust and the Blood
セント・ミリオネアの雨は、今日もすべてを等しく濡らしている。
だが、その冷たさは、かつて最高級のスイートルームで眺めていたものとは違っていた。
「"VENDYS, Diagnostics."(ヴェンディス、診断開始)」
薄暗いガレージ。剥き出しの電球が刻むリズムに合わせて、ジャックは自身の腕に固定された鈍色の金属を見つめた。
かつての銀色の流星はもういない。
そこにあるのは、スクラップ・ヤードから拾い集めた強化鋼鉄と、無理やりバイパスを通した剥き出しのケーブル。資産凍結の目を盗んで組み上げた、呪いのような黒いアーマーだ。
『……システム起動。出力、以前の百分の一以下。……でも、動くわ』
インカムから届くクレアの声は、以前よりも近く、そして生々しい。彼女は今、ジャックのすぐ隣の部屋で、骨董品のような通信機を抱えて震えている。
「"Good enough."(十分だ)」
ジャックはレザージャケットを羽織り、フルフェイスのヘルメットを被った。
バイザーに映るHUDはノイズまみれだが、そこに映し出された港湾地区の武器庫は、真っ赤な爆炎に包まれていた。
KABOOM!
爆音が空を震わせ、ジャックはガレージのシャッターを蹴り開けた。
飛行ユニットはない。彼は闇の中を、一人の獣のように疾走する。
「"Listen, Listeners!"(聞け、リスナーども!)」
街角の大型ビジョンでは、ネオン・ジャックのドローンが、火の海となった武器庫を中継していた。
『見ろ! ヴァン・ドレンの私設武器庫が、あのバリスティック・クイーンに蹂躙されている! かつての王は、自分のゴミさえ守れないのか!?』
爆炎の中に、巨大な鋼鉄の影が立っていた。
右腕と一体化したガトリングガンが、赤く焼けるまで火を噴いている。
「"Where are you, Shiny Boy?"(どこにいるの、お坊ちゃん?)」
クイーンの嘲笑が、弾丸の雨と共に響く。
「"Right here, Queen."(ここだ、クイーン)」
闇を裂いて飛び出したのは、輝きを捨てた「黒い鋼鉄」。
ジャックは飛行せず、アスファルトを蹴ってクイーンへと突っ込んだ。
WHAM!
以前のようなスマートな制圧ではない。
泥にまみれ、火花を散らしながら、ジャックの無骨な拳がクイーンの装甲を打つ。
「……"VENDYS, Online."(ヴェンディス、オンライン)」
不殺の誓いは、折れていない。
だが、その拳の重さは、かつての富よりもはるかに重く、クイーンの喉元へと突きつけられた。
安アパートの湿った壁に、古い換気扇の回る音が空虚に響いている。
ジャックは、油と煤で汚れた手で、安物のインスタントコーヒーを口にした。かつての彼なら、一口で吐き捨てていたであろう代物だ。
「……"Tastes like failure."(……失敗の味がするな)」
苦笑いするジャックの横で、クレアが小さな電子基板と格闘していた。
彼女は今、最高級の分析機器の代わりに、中古のラップトップとジャックが拾ってきたジャンクパーツを使って、街のノイズを拾っている。
「贅沢を言わないで、ジャック。今の私たちの全財産は、このテーブルの上にあるもので全部なんだから」
クレアはサングラスをずらし、疲弊した銀色の瞳で彼を見つめた。
「……ラピスから回収したデータ、一部が復元できたわ。バリスティック・クイーンが狙っているのは、あなたの会社の武器庫じゃない。その地下に眠っている『アトラス計画』の試作型自律兵器……コードネーム:レギオンよ」
ジャックの眉間に深い皺が寄る。
「"Legion?"(レギオン……?)」
「ええ。父エドワードが、人件費を削るために開発した『感情を持たない警備員』。……それは一度起動すれば、セント・ミリオネアの全ネットワークを介して増殖し、街を物理的に支配するよう設計されているわ。クイーンは、その起動キーを奪うつもりよ」
ジャックは立ち上がり、壁に立てかけられた無骨な「VENDYS MARK-II」を見つめた。
飛行ユニットもなく、予備の装甲もない。あるのは、限界まで出力を高めた油圧プレスのような拳と、不殺を貫くための最低限の拘束ガジェットだけだ。
「"Legion is a ghost of my father."(レギオンは親父の亡霊か。……クイーンはそれを解き放ち、この街を戦場に変えるつもりだな)」
「ジャック、今のあなたの装備じゃ、彼女の重火力には耐えられない。……予言が言っているわ。あなたが彼女の前に立てば、その黒い装甲は三秒持たずに砕け散るって」
「"Then I just have to move faster than three seconds."(なら、三秒より速く動くだけだ)」
ジャックはレザージャケットを羽織り、錆びついたヘルメットを手に取った。
「"The bank is empty, but my debt to this city isn't paid yet."(口座は空だが、街への借りはまだ返しちゃいない。……クイーンに教えてやる。本物の王様は、王座がなくても王様なんだってな)」
クレアは不安げに彼の手を握った。
「……死なないで。……もう、救えるお金も、治せる医者もいないんだから」
「"I'm a cheap man now, Claire. I'm hard to kill."(俺は今や安上がりな男だ、クレア。……そう簡単には死なないさ)」
ジャックは部屋の明かりを消し、夜の闇へと溶け込んでいった。
かつての銀色の流星ではなく、地に這う黒い影となって。
ヴァン・ドレン社、第4廃棄武器庫。
地下へと続く重厚なハッチが吹き飛ばされ、熱風が吹き荒れている。
そこには、逃げ遅れた二人の夜間警備員が、クイーンのガトリングガンの銃口に晒され、震えながら壁際に追い詰められていた。
「"Say cheese, boys!"(笑いなさい、坊やたち!)」
クイーンの右腕が唸りを上げる。
「あんたたちのボスの『隠し財産』を暴くための、これは祝砲よ!」
VREEE-RATATATATA!
火を噴く銃身。だが、その弾道に割り込んだのは、銀の輝きを失った「黒い影」だった。
KLANG! KLANG!
「"GET BACK!"(下がってろ!)」
ジャックは左腕に急造された、廃棄コンテナの厚板を流用した「シールド」を掲げた。
電磁防壁などない。ただの厚い鉄板だ。
大口径の弾丸が鉄板を貫通しかけ、ジャックの左腕を激しい衝撃が襲う。骨が軋み、肉が悲鳴を上げた。
「……あ、あんたは!? ヴェンディスなのか!?」
警備員の一人が絶叫する。その瞳にあるのは、以前のような憧れではなく、あまりに無骨で頼りない姿への不安だった。
「"Move! Now!"(動け! 今すぐにだ!)」
ジャックは衝撃に耐え、歯を食いしばりながら二人をハッチの影へと押し出した。
不殺の三角形。だが、今のジャックには、その一角を支える「余裕」がどこにもない。
「"Ha! Is that it, Jack?"(ハ! それがおしまいの姿か、ジャック?)」
クイーンが重厚な一歩を踏み出す。
「そんなゴミみたいな鉄板、あと五秒も持たないわよ! あんた、自分の命の値段がどれだけ下がったか分かってるの!?」
「"Price is temporary, Queen."(値段は一時的なものだ、クイーン)」
ジャックはボロボロになった鉄板を捨て、右拳の油圧ピストンを無理やり圧縮させた。
「"Value is eternal."(価値は永遠なんだよ)」
ジャックは地面を蹴った。
飛行も、高速移動もない。ただの泥臭い突進だ。
クイーンのガトリングが、ジャックの胸部を狙う。
『ジャック、右へ! 0.5秒後に着弾するわ!』
クレアの叫びがインカムで割れる。
ジャックは、飛来する弾丸を装甲の「角」で弾き流し、死地へと潜り込んだ。
かつての洗練された戦術を捨てた、一か八かの肉弾戦。
WHAM!
ジャックの黒い拳が、クイーンの右腕、ガトリングの給弾ベルトを正確に叩き潰した。
火花が飛び、装填不良のアラートが地下室に響く。
「"Gotcha."(捕まえたぞ)」
バイザー越しに、ジャックの冷徹なスチールブルーの瞳がクイーンを射抜いた。
「"Nice move... for a beggar."(いい動きね……物乞いにしては)」
クイーンは給弾ベルトを潰されながらも、左腕のパワーアームでジャックを強引に振り払った。
WHAM!
ジャックはコンクリートの壁に叩きつけられ、黒い装甲が砕けて破片を散らす。
「……ガハッ……!」
肺から空気が漏れ、バイザーに赤い警告が点滅する。もはや自動修復システム(オート・リペア)は存在しない。一度壊れれば、それはただの重い鉄屑だ。
「ジャック。あんたは『不殺』を盾に、父親が犯した本当の罪から目を逸らしているだけよ」
クイーンは歪んだガトリングをパージし、背中に背負った巨大な対物電磁砲を起動させた。
「十年前、父エドワードは自律兵器『レギオン』の完成を急ぐあまり、この武器庫の地下で非人道的な人体実験を行っていた。……その被験者たちが誰だったか、知っている?」
「……何だと?」
「この街の、身寄りのない子供たちよ。……あんたが今、なけなしの金で救おうとしているスラムの子供たちの先祖だ」
クイーンの言葉が、ジャックの脳内に鉛のように沈み込む。
「あんたの纏っているそのスーツの基礎理論は、彼らの悲鳴の上に築かれた。……ジャック、あんたの正義は、死者の骨の上に建った砂上の楼閣なのよ!」
『ジャック、聞いちゃだめ!』
クレアの叫びがインカムで割れる。
『ノイズが……巨大な「罪の渦」があなたを飲み込もうとしている! 彼女は、あなたの意志を挫こうとしているのよ!』
「……"I know, Claire."(分かっている、クレア。……だが、彼女の言葉には嘘がない)」
ジャックは血を吐き捨て、再び立ち上がった。
黒い装甲の隙間から、彼自身の皮膚に刻まれた痣が覗いている。
「"Listen, Queen."(聞け、クイーン)」
ジャックの声は、低く、重い。
「父が何をしたのか、俺はすべてを知るつもりだ。……だが、それを裁くのはお前の暴力じゃない。……俺が、この汚れた家系の最後の一人として、すべてを引き受ける」
「"Talk is cheap!"(口先だけね!)」
クイーンがレールガンのトリガーを引こうとしたその時、武器庫全体の照明が消え、非常用の赤い回転灯が回った。
そして、暗闇の中から、あの忌まわしい電子声が響く。
「"Well said, Jack. Truly a son of a king."(見事な言い草だ、ジャック。まさしく王の息子よ)」
ディストピアの残影――あるいは、彼がネットワークに残した「遺志」が、武器庫のスピーカーから溢れ出した。
「だが、お前がその罪を引き受けるというのなら……まずは、この『レギオン』の最初の獲物になってもらおうか」
武器庫の最深部。封印されていたハッチが開き、無数の「赤く光る眼」が闇の中で点灯した。
闇の中から、無数の電子音が重なり合い、不気味な合唱を奏でる。
カチ、カチ、カチ――。
それは、ヴァン・ドレン社が封印したはずの自律兵器「レギオン」たちが、標的をロックオンした合図だった。
「"Legion... Online."(レギオン……オンライン)」
ディストピアの遺志がスピーカーから嘲笑う。
「さあ、ジャック。お前の父が産み出した『感情なき執行者』だ。彼らは命令に忠実だ。そして今の命令は……『この部屋にいる全生命体の排除』だ」
RED LIGHT!
レギオンたちの赤い瞳が一斉に輝き、武器庫は深紅の殺意に染まった。
「……"Damn it!"(くそっ!)」
ジャックは瞬時に背後の警備員たちを突き飛ばし、自身のボロボロの盾を構えた。
だが、相手はクイーン一人ではない。数十、数百という小型の殺戮ドローンが、雲霞のごとく天井を埋め尽くしている。
「"Wait! This wasn't the deal!"(待って! こんな話じゃなかったはずよ!)」
クイーンが叫ぶ。彼女のレールガンもまた、レギオンたちの標的に含まれていた。
ディストピアにとって、クイーンもまた、ジャックを追い詰めるための使い捨ての駒に過ぎなかったのだ。
『ジャック、逃げて!』
クレアの悲鳴がインカムを裂く。
『ノイズが……未来が完全に真っ黒よ! あと十秒で、この部屋は鉄の嵐に飲み込まれる!』
「……"VENDYS, Overload the Reactor!"(ヴェンディス、リアクターを過負荷させろ!)」
ジャックは覚悟を決めた。
この「レギオン」たちが地上に出れば、セント・ミリオネアは一晩で壊滅する。
それを止める方法は、ただ一つ。
「"Jack, no! You'll be caught in the blast!"(ジャック、ダメよ! あなたまで爆発に巻き込まれる!)」
「"I'm not dying here, Claire."(ここでは死なないさ、クレア)」
ジャックは右拳の油圧ピストンを最大まで引き絞り、床に埋め込まれたメイン・サーバーの冷却パイプへと叩きつけた。
「"I'm just taking back my father's trash."(親父のゴミを回収しに来ただけだ)」
WHAM!
凄まじい衝撃。冷却液が噴出し、武器庫全体が真っ白な霧に包まれる。
レギオンたちのセンサーが攪乱され、赤い瞳が混乱するように点滅した。
その隙に、ジャックはクイーンの腕を強引に掴んだ。
「"Move, Queen! If you want to live to see me fall!"(動け、クイーン! 俺の没落を見届けたいならな!)」
「……っ、この……お節介なお坊ちゃんが!」
クイーンは毒づきながらも、ジャックと共に崩落するハッチへと飛び込んだ。
KABOOM!
背後で連鎖爆発が起こり、武器庫が地下深くへと沈んでいく。
ジャックは爆風に背中を焼かれながら、瓦礫の山を転がり落ちた。
やがて、静寂が訪れる。
地上へと続く僅かな光の筋の下で、ジャックは力なく横たわっていた。
黒い装甲は半分以上が剥がれ落ち、もはやヴェンディスとしての機能は完全に沈黙している。
ふと、彼の傍らに、レギオンの残骸が一つ落ちてきた。
その壊れたカメラレンズが、最期の力を振り絞るように一瞬だけ点灯し、奇妙なシンボルを壁に投影した。
それは、ヴァン・ドレン社のロゴではない。
見たこともない、翼の折れた天使を模した不気味な紋章。
「"What is... this...?"(これは……何だ……?)」
意識が遠のく中、ジャックはその紋章を見つめていた。
父の罪、ディストピアの遺志、そして……この街を裏から蝕む「真の黒幕」の存在。
すべてを失った男の前に、更なる巨大な絶望がその輪郭を現そうとしていた。
『……ジャック。……聞こえる?』
クレアの震える声。
『……新しい予言が……街全体が、血の雨に濡れているわ……』
ジャックは血の混じった泥を掴み、消え入りそうな意識の中で、不敵に笑った。
「"Bring it on."(かかってこい)」




