第4話:Deadline: Zero Hour
セント・ミリオネアを冷たい雨が濡らしている。
かつて黄金に輝いていたヴァン・ドレン・タワーは、資産凍結によって最低限の予備電力しか通っておらず、幽霊船のように暗く沈んでいた。
その最上階。ジャック・ヴァン・ドレンは、ボロボロになったスーツのパーツを自らの手で溶接していた。
「"Come on... focus."(頼む……動いてくれ)」
KLANG!
火花が飛び、ジャックは顔を背けた。
富を失った彼には、もう予備パーツを空から呼び出すことはできない。手元にあるのは、これまでの戦いで傷つき、廃材から掻き集めたスクラップ同然のジャンクパーツだけだ。
『ジャック、もう休んで……』
インカム越しに聞こえるクレアの声も、どこか遠く、霧に包まれているように聞こえる。
「……休む暇なんてない。ディストピアはどこかに潜んでいる。それに、あのメッセージの座標……」
ジャックが言葉を切り直そうとした瞬間、彼の網膜ディスプレイに不可解な「花びら」のノイズが舞った。
『あら、お疲れ様。世界で一番貧しいヒーローさん』
甘く、しかし鼓膜を直接撫でるような不気味な女の声。
ジャックが顔を上げると、暗闇の中に、極彩色のドレスを纏った女が立っていた。
ミストレス・マインドだ。彼女が手にした香炉から、紫色の煙がゆらりと立ち上る。
「"Who are you...?"(貴様、誰だ……)」
「私はあなたの『良心』の形。……不殺なんていう贅沢な遊びに耽る、あなたの甘い脳髄を調教しに来たの」
ジャックがリパルサーを構えようとしたが、指先が痺れて動かない。
視界が歪み、床が底なしの沼のように崩れ落ちていく。
「"What is this... hallucinogen?"(これは……幻覚剤か?)」
「ただの薬じゃないわ。あなたの『罪悪感』を燃料にして燃える、ナノマシンの残り香よ。……さあ、見せて。あなたが本当に守りたかったものが、いかに醜くあなたを裏切るかを」
KABOOM!
突然、タワーの窓ガラスが外側から粉砕された。
飛び込んできたのは、ジャックが昨日救ったはずの証券マンたちや、スクラップ・ヤードのホームレスたちだった。
だが、彼らの瞳は赤く血走り、手には凶器を握りしめている。
「ヴァン・ドレンを殺せ! 俺たちの街をメチャクチャにした元凶だ!」
「金がなくなったお前に、何の価値がある! 死んで詫びろ!」
群衆が、ジャックに向けて一斉に襲いかかる。
不殺を誓った彼が最も愛し、最も守りたかったはずの市民が、今、彼の命を奪うために牙を剥いた。
「"No... wait!"(待て、やめろ!)」
ジャックの悲鳴が、雨の音にかき消されていく。
絶望のカウントダウン――『ゼロ時』まで、残された時間はあとわずかだった。
「"Stay back! I don't want to hurt you!"(下がれ! 君たちを傷つけたくない!)」
ジャックは暗闇の中で虚空を振り払った。
彼の視界では、真っ赤な瞳をした暴徒たちが迫っているが、現実のヴァン・ドレン・タワーには彼以外誰もいない。彼はただ、動かなくなったアーマーのパーツを握りしめ、冷たい床を這い回っていた。
『ジャック! しっかりして! それは幻覚よ!』
クレアの叫びが、ノイズ混じりのインカムから響く。
「……幻覚? いいや、クレア……奴らの怒りは本物だ。俺の頬に飛んだ連中の唾液の熱さまで感じる……。俺が資産を捨てたから、あいつらは路頭に迷ったんだ。俺のせいだ……!」
『違うわ、それはミストレス・マインドがあなたの脳に見せている「最悪の可能性」に過ぎない!』
ヴァン・ドレン・タワーの階下、セーフハウスに潜伏しているクレアは、必死にキーボードを叩いていた。
彼女の銀色の瞳には、ジャックを蝕むナノマシンの汚染状況が、おぞましい黒いノイズとして映り込んでいる。
「クレア……視える……。お前まで、俺を軽蔑した目で見てる……」
『私を見て、ジャック! 未来を視る私の言葉を信じて!』
クレアは声を震わせながら、予言の力をジャックの精神へと逆流させる。
『……視えるわ。あなたがこの幻覚を打ち破り、再び立ち上がる未来が。そこには、金でも名誉でもない、ただ一人の男として、誰かを救うあなたの姿がある』
「……一人の、男……」
『そうよ。ヴェンディス(VENDYS)という名前も、ヴァン・ドレンという肩書きも関係ない。あなたがただ「救いたい」と願ったから、この街の未来は繋がってきたの。……負けないで、ジャック。あなたの精神は、誰にも支配させない!』
ジャックの荒い呼吸が、わずかに落ち着きを取り戻す。
彼は震える手で、近くに転がっていたヴェンディスのヘルメットを掴み、無理やり頭に被った。
[SYSTEM REBOOTING... MANUAL OVERRIDE ENGAGED]
(システム再起動中……マニュアル・オーバーライド実行)
視界を埋め尽くしていた極彩色の花びらが、デジタルな緑色のグリッドへと書き換えられていく。
「……"Thank you, Claire."(ありがとう、クレア。……お前の声だけが、俺を繋ぎ止めるアンカーだ)」
ジャックは壁に手をつき、フラついた足取りで立ち上がった。
「ミストレス・マインド……俺の脳をハックしたつもりだろうが……生憎、俺の頭の中は、お前の安っぽい薬じゃ収まりきらないほど、後悔と責任で満杯なんだよ」
『ジャック、彼女はタワーの中央換気システムにナノマシンを流し込んでいるわ。あと十分で、街全体がこの幻覚に汚染される!』
「"Ten minutes... sounds like a challenge."(十分か……挑戦しがいがあるな)」
ジャックは、継ぎ接ぎだらけのアーマーを強引に起動させた。
資産を失い、洗練された輝きを失った銀色の装甲は、今や傷だらけの戦士の鎧そのものだった。
セント・ミリオネアのメインストリートは、極彩色の悪夢に塗り潰されていた。
ミストレス・マインドが散布したナノマシン入りの霧が、人々の恐怖を増幅させ、理性という名の防壁を食い破っていく。
「殺せ! 奪え! すべてはヴァン・ドレンのせいだ!」
普段は穏やかな市民たちが、暴徒と化して互いに襲いかかっていた。
KLANG!
ビルの屋上から、傷だらけの銀色の影が舞い降りた。
継ぎ接ぎだらけのアーマーを纏ったヴェンディスだ。もはやかつての優雅な飛行は望めず、片方のブースターからは黒煙が上がっている。
「"Listen to me! This isn't real!"(聞け! これは現実じゃない!)」
ジャックは叫び、暴れ狂う男の腕を掴んだ。
だが、男の瞳は紫色の光に染まり、ジャックを認識すらしていない。
「死ね、人殺しの金持ち!」
男がナイフを振り下ろす。ジャックは回避せず、装甲でその刃を受け止めた。
CH-CH-CHAK!
ヴェンディスの腕部から、残された数少ない非殺傷ガジェット――音響制圧装置が展開される。
「"Sleep, for a while."(少しの間、眠っていろ)」
高周波の振動が男を包み込み、彼は糸が切れた人形のように眠りに落ちた。
「あら、相変わらず甘いわね。自分を殺そうとする相手さえ、そんなに優しく介抱するなんて」
霧の向こうから、香炉を手にしたミストレス・マインドが浮かび上がるように現れた。
彼女の周囲では、操られた十数人の市民が、盾のように彼女を取り囲んでいる。
「"Let them go, Mind."(彼らを離せ、マインド)」
ジャックはリパルサーを構えたが、標的は市民たちの背後に隠れている。
一発でも撃てば、罪のない人々に当たる。
「撃てないでしょう? あなたの『不殺』が、あなたの手足を縛っている。……さあ、彼らに命じるわ。あの街灯の支柱を倒して、自分の上に落としなさい」
「"Stop it!"(やめろ!)」
市民たちが一斉に、腐食し始めた街灯へと取り付く。
自分自身を傷つけるための「自殺的な三角形」の構築。
『ジャック、ダメよ! その装置の出力じゃ、全員を一度に眠らせることはできない!』
クレアの叫びが絶望を加速させる。
『あと三十秒で、支柱が折れるわ!』
ジャックは歯を食いしばり、残された全エネルギーを足部のブースターへと回した。
「VENDYS, Support Mode... NO! ――"Just do it!"(ヴェンディス、サポートモード……いや、"やれ!")」
爆発的な加速。
ジャックはミストレス・マインドを狙わず、倒れゆく街灯の真下へと滑り込んだ。
WHAM!
数トンの鉄塊が、ヴェンディスの背中を直撃する。
もはや全盛期の強度はなく、装甲が嫌な音を立てて凹み、内部のジャックは肺を圧迫される苦痛に顔を歪めた。
「……ハァ、ハァ……これで満足か……?」
鉄塊を背負ったまま、ジャックはミストレス・マインドを睨みつける。
その姿は、十字架を背負った巡礼者のようでもあった。
「……面白いわ。その鋼鉄がひしゃげて、中の肉体が潰れるまで、何本の柱を支えられるかしら?」
ミストレス・マインドが次の命令を下そうとした瞬間、ジャックは血の混じった笑みを浮かべた。
「"Check your network, lady."(自分のネットワークを確認しな、レディ)」
「"What did you say...?"(今、なんて言ったの……?)」
ミストレス・マインドが眉を潜め、手元の香炉を握りしめる。
「俺がただ柱の下敷きになっていたと思うか?」
ジャックは重圧に耐えながら、凹んだヘルメットの通信強度を最大に引き上げた。
「お前がナノマシンを制御している周波数は、この街の古い地下通信網を利用している。……俺は柱を受け止めた衝撃を利用して、その回線に直接物理ハックを仕掛けたんだ」
[SYSTEM OVERRIDE: 80%... 90%... COMPLETE]
瞬時に、市民たちの瞳から不気味な紫色の光が消えた。
操られていた人々は、糸が切れたようにその場に崩れ落ち、深い眠りへと落ちていく。
「……あ、私のナノマシンが……! なんてこと、私の『作品』を台無しに!」
「"Game over, Mind."(ゲームオーバーだ、マインド)」
ジャックは背中の鉄柱を跳ね除け、傷だらけの体で一歩踏み出した。
だが、勝利の予感は、背後から響いた巨大な笑い声によって打ち砕かれた。
「"Excellent, Jack. Truly excellent."(素晴らしいな、ジャック。実に見事だ)」
霧を切り裂いて現れたのは、ディストピア(Dystopia)だった。
彼は怯えるミストレス・マインドの首筋を、巨大な鋼鉄の手で無慈悲に掴み上げた。
「ディストピア!? 待って、私はまだ戦えるわ、あいつを絶望の淵に――」
「不要だ。お前は十分に役割を果たした。ジャックに『守るべき市民が敵に回る恐怖』を植え付け、彼の精神を摩耗させた。……あとは、私が直接引導を渡すだけだ」
Crunch!
ディストピアの手が力を込め、ミストレス・マインドの首のデバイスが火花を散らして粉砕された。
彼女は悲鳴を上げる間もなく意識を失い、ゴミのように路地裏へ投げ捨てられた。
「"You... you'd even hurt your own allies?"(貴様……味方まで傷つけるのか?)」
ジャックは怒りに震え、リパルサー・ガンを構える。
「味方? 勘違いするな。彼女も、ラピスも、クイーンも、すべてはお前を『完璧な孤独』へ追い込むための消耗品に過ぎない」
ディストピアが一歩踏み出すたびに、アスファルトが深く沈み込む。
「資産を失い、信頼を失い、今や守るべき市民さえお前を恐れている。……ジャック、お前はもうヒーローではない。ただの『呪われた遺産』を抱えた死に損ないだ」
『ジャック、逃げて!』
インカムからクレアの悲痛な叫びが響く。
『視える……この街の地下で、十年前の爆発が「再現」される未来が! 奴は、タワーごとこの街を吹き飛ばすつもりよ!』
ディストピアの胸部が展開し、赤黒く脈動するエネルギー・コアが露出した。
それは、かつてジャックの父が封印したはずの「アトラス計画」の暴走モードそのものだった。
「さあ、セント・ミリオネアの最期を祝おうじゃないか。……不殺を誓ったお前が、誰一人救えずに終わる瞬間をな!」
ディストピアの胸部で脈動する赤黒い光が、周囲の霧を蒸発させていく。
それは十年前、この街の地下深くに封印されたはずの、制御不能なエネルギーの奔流だった。
「"Dystopia, Stop! You'll level the entire district!"(ディストピア、やめろ! 街区ごと吹き飛ぶぞ!)」
「"That's the point."(それが目的だ)」
ディストピアの声は、地響きのように街を震わせる。
「お前の父が隠蔽した『第零区』の罪。……それを、お前が愛したこの街の灰で清算する。これこそが真の平等だ」
SHOOOOK!
ディストピアの背後から数条の黒い触手のようなケーブルが伸び、周囲のビルへと突き刺さった。
セント・ミリオネアの電力が、強制的に奴のコアへと吸い上げられていく。
『ジャック、大変よ!』
クレアの叫びが、激しいノイズと共に割れる。
『街の全エネルギーが一点に集中している……あと三十分で臨界点を突破するわ。そうなれば、セント・ミリオネアは地図から消える!』
「……三十分だと? そんな時間は残っちゃいない!」
ジャックは傷だらけのヴェンディスの出力を無理やり引き上げた。
だが、継ぎ接ぎの装甲は無情なアラートを吐き出し、右腕のリパルサー・ガンが火花を散らして沈黙する。
「"Is that all, Jack?"(それでおしまいか、ジャック?)」
ディストピアが巨大な腕を振るい、ヴェンディスをゴミのように吹き飛ばした。
WHAM!
ジャックはビルの壁を突き破り、瓦礫の中に埋もれた。
ヘルメットのバイザーが割れ、額から流れた血が視界を赤く染める。
もはや、アーマーの残存エネルギーは五パーセントを切っていた。
(……ここまでか。……金もなく、力もなく……俺は結局、親父の負債に押し潰されるだけなのか……?)
意識が遠のく中、ジャックの手に、ある「感触」が触れた。
それは、先ほどミストレス・マインドの通信網をハックした際、彼のデバイスに強制的に転送されてきた未知のデータ・パッケージだった。
[PROTOCOL: LEGACY OF VAN DOREN... ACTIVATING]
(プロトコル:ヴァン・ドレンの遺産……起動中)
ジャックの耳元で、かつて聞き慣れた、しかし今は亡き父の「声」が、デジタル合成された音声で響いた。
『……ジャック。もしお前がこの声を聞いているなら、お前はすべてを失い、それでも誰かを救おうとしているのだろう。……地下へ来い。お前が「不殺」を貫くための、最後の一片がそこにある』
「……親父……?」
地響きと共に、街の地下深くで巨大な「扉」が開く音がした。
それは、ディストピアが狙っている破壊の種ではなく、ジャックにしか開けない、もう一つの遺産だった。
「"Claire... can you hear me?"(クレア……聞こえるか?)」
ジャックは瓦礫の中から、血まみれの手で這い出した。
「地下だ。……セント・ミリオネアの底、第零区の最深部に……逆転の鍵がある」
『ジャック、行っちゃダメ! そこは死の予言に満ちているわ!』
「"I know."(分かっている)」
ジャックは割れたヘルメットを捨て、剥き出しの瞳に不敵な光を宿した。
「"But a billionaire never folds until the last hand."(だが、大富豪は最後のカードを引くまで降りないのさ)」
崩れ落ちる街。迫り来る爆発の秒読み。
王座を追われたセレブヒーローは、真の正義を証明するため、奈落の底へと足を踏み出す。
その背後で、ディストピアのコアが、不気味に、より眩く、暗黒の輝きを増していた。




