第3話:Broken Ledger
セント・ミリオネアの心臓部、金融街が死んだ。
地上数百メートルを彩っていたネオンサインが、ドミノ倒しのように次々と立ち消えていく。
かつて「不夜城」と呼ばれた摩天楼の群れは、今や漆黒の墓標となって夜空に突き刺さっていた。
静寂を支配したのは、信号機の死んだ交差点で響く車の衝突音と、混乱に乗じて沸き出した暴徒たちの叫び声だ。
「"Emergency blackout in the Financial District..."(金融街で緊急停電……)」
ヴェンディスのヘルメット内部で、ジャックは暗視モード(ナイトビジョン)に切り替わった視界を走らせる。
電力網が遮断されたことで、街の警備システムも、交通管制も、すべてが麻痺している。
『ジャック、気をつけて!』
インカムから届くクレアの声には、かつてないほどの恐怖が混じっていた。
『ノイズが……重低音の唸りのような、巨大な金属の胎動が街を震わせているわ。これはラピスじゃない、もっと破壊的な……!』
その警告が終わるより早く、眼下の主要道路が爆発と共に跳ね上がった。
KABOOM!
アスファルトが紙屑のようにめくれ上がり、巨大な影が地中から姿を現す。
それは、ヴァン・ドレン社がかつて地下工事用に開発した超大型穿孔機を、無惨にも兵器へ改造した鋼鉄の怪物だった。
その機体の上部に、一人の女が立っている。
全身を分厚いタクティカル・アーマーで固め、右腕と一体化した多砲身ガトリングガンを月光に晒す女――バリスティック・クイーンだ。
「"Hello, St. Millionaire! Did you miss the noise?"(ハロー、セント・ミリオネア! この騒音が恋しかったか?)」
彼女が右腕を掲げた瞬間、ガトリングガンの銃身が高速回転を始めた。
VREEE-RATATATATA!
無差別な掃射が、停電で立ち往生していた一般車両を次々に蜂の巣に変えていく。
ガソリンに引火し、次々と上がる火の手。阿鼻叫喚の地獄絵図が、一瞬にして構築された。
「"Cease fire, you lunatic!"(撃つのをやめろ、この狂人が!)」
ジャックは急降下し、弾丸の雨の中へ割って入った。
KLANG! KLANG! KLANG!
ヴェンディスの装甲を、大口径の弾丸が激しく叩く。
衝撃がジャックの全身を揺さぶり、HUDにダメージアラートが点滅する。
「VENDYS, Shield Mode! Defense Pattern: Alpha!(ヴェンディス、シールド・モード! 防御パターン:アルファ!)」
CH-CH-CHAK!
両腕の装甲が展開し、電磁シールドを纏った巨大な盾が弾丸を弾き飛ばす。
ジャックは盾の背後に、パニックに陥った市民たちを匿い、歯を食いしばった。
「あら、現れたわね。黄金の盾を掲げたお坊ちゃん」
クイーンはガトリングの回転を止めず、凶悪な笑みを浮かべる。
「あんたの『不殺』が、この街にどれだけの弾丸を降らせることになるか……その高いスーツの計算機で弾いてみなさいよ!」
「……"VENDYS, Armor Integrity at 70%."(ヴェンディス、装甲残量七十パーセント……)」
ジャックは盾越しに、クイーンの背後にうごめく「影」を見た。
ディストピアの策略。ラピスが盗んだデータ。そして、目の前の圧倒的な暴力。
すべてが、ヴァン・ドレンという名の財産を食いつぶすために連動している。
「"I'm not just a shield, Queen."(俺はただの盾じゃないぞ、クイーン)」
ジャックは一歩踏み出し、煙の中からリパルサー・ガンを構えた。
だが、彼の背後には、まだ救いを求める数百人の市民が立ち尽くしていた。
降り注ぐ弾丸の雨を電磁シールドで弾き飛ばしながら、ヴェンディスはブースターを逆噴射させ、一時的に戦域を離脱した。
背後に残した市民たちが避難を完了したのを確認し、ジャックはヴァン・ドレン・タワーの隠しドックへと滑り込む。
KLANG!
着地と同時に、激しく損傷した肩部の装甲が火花を散らして脱落した。
自動アームが彼の肉体からアーマーを剥ぎ取っていく。現れたジャックの顔は、飛び散ったオイルと熱気で汚れ、鋭い眼光を放っていた。
「……"Status Report, Claire."(状況を報告しろ、クレア)」
ジャックはシャツを脱ぎ捨て、予備のインカムを手に取る。
リビングでは、クレアが数枚のホログラム・ウィンドウを展開し、真っ青な顔でデータを解析していた。
「……街の混乱は、ただの停電じゃないわ。バリスティック・クイーンが地上で暴れている間に、何者かが中央銀行の『帳簿』に侵入している。この街の富の記録そのものが、書き換えられようとしているのよ」
ジャックは冷たい水で顔を洗い、クレアの隣に立った。
「富の記録を書き換えるだと? 残高をゼロにするつもりか?」
「もっと最悪よ。……ヴァン・ドレン・グループが過去に行った、あらゆる不透明な資金移動の記録を『復元』して、全ネットワークにバラ撒こうとしているわ。もしそれが実行されれば、明日の朝、この街の経済は死ぬわ」
ジャックは奥歯を噛み締めた。
「……帳簿か。それが彼女のサブタイトル(異名)の由来というわけか。ラピスが盗んだデータは、このための鍵だったんだな」
「ジャック、彼女は元々、我が社の財務部門のセキュリティ担当だったのよ。……十年前の『アトラス計画』の際、不正を告発しようとして、当時の役員会に抹殺されかけた……その生き残りよ」
ジャックの手が、カウンターの端を強く握りしめた。
またしても、父の世代の負債だ。
目の前の暴力は、過去のジャックの家系が産み出した絶望の具現化に他ならなかった。
「……彼女は私に言ったわ。『お坊ちゃんに現実を見せてやる』と。……彼女の狙いは、物理的な破壊じゃない。私からすべてを奪い、俺を『ただの男』に引きずり下ろすことだ」
「"Then I'll give her what she wants."(なら、望み通りにしてやるさ)」
ジャックは再び、新しいアーマーが待つハンガーへと歩き出す。
「彼女が俺を引きずり下ろしたいなら、俺はもっと高いところから応えてやる。……クレア、クイーンの次の出現ポイントを予測しろ」
『……セント・ミリオネア証券取引所よ。あと十五分で、彼女の『帳簿』が完結するわ』
「"Fifteen minutes... plenty of time for a hostile takeover."(十五分か……敵対的買収には十分な時間だ)」
ジャックは銀色のヘルメットを装着した。
装甲の隙間に、新たな不殺の武装――「電磁パルス・バースト」が装填される。
金で買えないものを守るため、彼は自らの名前を賭けた戦いへと再び身を投じる。
「"VENDYS, Online."(ヴェンディス、オンライン)……今度は、少し高く付くぞ」
セント・ミリオネア証券取引所。この街の富の心臓部は、今や戦場と化していた。
吹き抜けのホールには数千ものモニターが並び、狂ったように乱高下する株価の数字が、避難を急ぐ証券マンたちの顔を青白く照らしている。
その正面玄関を、鋼鉄の鉄槌が粉砕した。
WHAM!
「"Opening Bell, boys!"(開会のベルよ、野郎ども!)」
地響きと共に現れたのは、強化外骨格を唸らせるバリスティック・クイーンだ。
彼女の背後には、ハッキングによって制御を奪われた自律型ドローン群が、蜂の群れのように付き従っている。
「"Queen, stop this madness!"(クイーン、この狂気を止めろ!)」
天井の天窓を突き破り、銀色の残像――ヴェンディスが舞い降りた。
KLANG!
着地と同時に、ジャックは周囲の状況をスキャンする。
メインサーバーの前には、データのバックアップを必死に試みる数人の技術者たちが、恐怖で腰を抜かして立ち尽くしていた。クイーンのガトリングガンが、無慈悲に彼らへと向けられる。
「"Madness?"(狂気?)」
クイーンが引き金に指をかける。
「これは正当な清算よ、ジャック。あんたの親父が書き換えた『真実の数字』を、今ここで全市民に公開してやるわ!」
VREEE-RATATATATA!
火を噴くガトリングガン。大口径の弾丸が、大理石の柱を紙細工のように削り取り、技術者たちの頭上へ瓦礫を降らせる。
「"VENDYS, Support Mode! Gravity Anchor!"(ヴェンディス、サポート・モード! グラビティ・アンカー!)」
CH-CH-CHAK!
ジャックは迷わず技術者たちの前へ躍り出た。
背中から展開した四本の補助アームが床を掴み、自身の肉体を固定する。
両腕にアッセンブルされた高密度電磁シールドが、火花を散らしながら弾丸を弾き返す。
KLANG! KLANG! KLANG!
「う、動けない……! 助けてくれ!」
足の震えで動けない技術者の一人が叫ぶ。
「"Stay behind me!"(俺の後ろから離れるな!)」
ジャックは盾越しに叫ぶ。衝撃波がアーマーを通じて彼の肉体を打ち据える。
一発でも漏れれば、背後の人間は肉塊に変わる。
「"How long can you hold that pose, Hero?"(いつまでそのポーズを維持できるかしら、ヒーロー?)」
クイーンは嘲笑いながら、肩部のミサイルランチャーを起動させた。
SHOOOOK!
弾丸の雨に加え、三発の追尾ミサイルがヴェンディスのシールドへと殺到する。
「……"VENDYS, Overload the Shield!"(ヴェンディス、シールドを過負荷させろ!)」
KABOOM!
爆炎がホールを包み込む。
爆風で吹き飛ばされそうになる技術者を、ジャックは左手のワイヤーで強引に引き寄せ、自らの懐に抱き込んだ。
ヴェンディスの銀色の装甲が、熱と爆風で黒く焦げ付いていく。
「……ハァ、ハァ……無事か?」
「あ、ああ……助かった……」
ジャックが顔を上げると、クイーンはすでに中央サーバーにデバイスを接続し終えていた。
「"Checkmate, Jack."(チェックメイトよ、ジャック)」
彼女の指先がエンターキーを叩こうとしたその時、ホールの巨大モニターに、ジャックが仕掛けていた「罠」が映し出された。
証券取引所の巨大モニター群が、一斉にノイズを吐き出した。
クイーンがアップロードしようとしていた「ヴァン・ドレン社の汚れた帳簿」に代わって映し出されたのは、ジャック・ヴァン・ドレン自身の個人口座のライブログだった。
「"What is this...?"(これは、何だ……?)」
クイーンの指が止まる。
「俺の個人資産だ、クイーン。今この瞬間、全額をセント・ミリオネアの公共福祉基金へと公開譲渡している」
ヴェンディスのヘルメットを脱ぎ、ジャックは傷だらけの顔を晒した。
「お前がバラ撒こうとしている過去の罪……それを償うための『担保』として、俺のすべてを差し出した。……お前がエンターキーを叩けば、この街の経済は死ぬ。だが、俺がこのまま資産を供出すれば、被害を受けた市民たちは明日からの生活を保障される」
「……馬鹿な。あんた、自分が何を言っているか分かっているの?」
クイーンがガトリングガンをジャックの眉間に突きつける。
「ヴァン・ドレンの財産をすべて手放せば、あんたはただの空っぽな男になるのよ!」
「"I was always empty, Queen."(俺は元々空っぽだったんだよ、クイーン)」
ジャックは一歩も退かずに、銃口を見つめ返した。
「父が残した富。それが俺をヴェンディスに仕立て上げたが、俺を動かしているのは、その富への激しい嫌悪だ。……俺は、父のような男にはならない」
その時、ホールの影から冷たい拍手の音が響いた。
重厚な金属の歩行音と共に、ディストピア(Dystopia)が姿を現す。
「"Magnificent."(実に見事だ)」
ディストピアの歪な電子声がホールに反響する。
「全財産を投げ打って、自分の家系が犯した罪の証拠を握り潰すか。……ジャック、お前の『不殺』は、今や『保身』という名の偽善にまで成り下がったようだな」
「ディストピア……!」
ジャックが再びヘルメットを装着しようとした瞬間、クイーンのガトリングガンが唸りを上げた。
VREEE!
だが、彼女が狙ったのはジャックではなかった。
弾丸の嵐がディストピアの足元の床を粉砕し、彼を牽制する。
「勘違いしないで、ディストピア。私はこのお坊ちゃんが嫌いなだけ。……あんたのような、正体不明の『過去の亡霊』と組むつもりはないわ」
クイーンがジャックを振り返る。その瞳には、憎悪とは異なる、戸惑いのような色が混じっていた。
「……あんたの提案、乗るわけじゃない。ただ、あんたが『すべて』を失う瞬間を、私はこの目で見届けたいだけよ」
クイーンが再びサーバーへと向き直る。
その背後で、ディストピアの熱源反応が急激に上昇した。
「……ならば、その観客席ごと灰にするまでだ」
ディストピアの右腕が変形し、高出力の熱核キャノンがチャージを開始する。
狙いはクイーン、ジャック、そして背後にいる技術者たち――すべてをまとめて消し去るつもりだ。
『ジャック! エネルギー反応が限界を超えているわ!』
クレアの叫びと同時に、ホール全体が眩い光に包まれた。
ディストピアの放った熱核キャノンの光が、証券取引所のホールを白銀の世界へと変えた。
「"VENDYS, Overdrive!"(ヴェンディス、オーバードライブ!)」
ジャックは叫び、クイーンと技術者たちの前に躍り出た。
回避は不可能。全エネルギーを前面シールドに回し、装甲の損耗を無視した強引な防壁を展開する。
KABOOM!
凄まじい衝撃。ヴェンディスの銀色の装甲が熱で歪み、内部のジャックは内臓を揺さぶられるような圧迫感に血を吐いた。
だが、その防壁は、死の光を左右へと引き裂いた。
「……ハァ、ハァ……逃げろ、クイーン! ここは持たない!」
「……チッ、お節介なお坊ちゃんね!」
クイーンは毒づきながらも、サーバーから自身のデバイスを抜き取った。
彼女はジャックを一瞥し、崩落する壁の向こう側へと空間跳躍で消えていく。
光が収まった時、そこには誰もいなかった。
ディストピアも、クイーンも。
残されたのは、半壊した証券取引所と、焦げ付いた銀色のアーマーを纏って膝をつくジャックだけだった。
『ジャック! 無事なの!?』
通信機越しにクレアの泣きそうな声が響く。
「……ああ。……何とか、な」
ジャックはフラフラと立ち上がり、ホールの巨大モニターを見上げた。
そこには、彼が実行した「全資産の供出」の完了を告げる無機質な文字が踊っている。
[TRANSACTION COMPLETE: ASSETS TRANSFERRED TO PUBLIC TRUST]
(取引完了:資産は公共信託へ譲渡されました)
ジャック・ヴァン・ドレン。
この街の頂点に君臨していたセレブは、今この瞬間、その社会的地位と、アーマーを修理するための莫大な資金のすべてを失った。
ふと、瓦礫の中から一台のカメラドローンが浮上してきた。ネオン・ジャックのライブ配信だ。
『……信じられるか!? ヴェンディスが……いや、ジャック・ヴァン・ドレンが破産したぞ! この街の王が、ただのホームレスに成り下がった瞬間だ!』
「"Shut that thing up."(その機械を黙らせろ)」
ジャックは冷たく言い放ち、ドローンをリパルサーで叩き落とした。
彼は知っていた。
ディストピアの狙いは、ジャックを殺すことではなく、彼から「戦うためのリソース」を奪うことだったのだ。
不殺を貫くために資産を投げ打ったジャックは、もはや壊れたアーマーを直すことすらままならない。
「……これから、どうするの……?」
インカム越しにクレアが震える声で問う。
ジャックはヘルメットを脱ぎ、雨が降り始めた夜空を見上げた。
雨粒が、彼の汚れきった顔を洗っていく。
「"The bank is empty, Claire."(口座は空っぽだ、クレア。……だが、俺の手にはまだ、この街を守るための指が残っている)」
その時、ジャックのスマートフォンに一通の秘匿メッセージが届く。
差出人は不明。だが、そこに記された座標は、かつて父が封印したはずの「第零区」の入り口を示していた。
「"Game on, Dystopia."(ゲーム開始だ、ディストピア)」
王座を失った男の、本当の戦いがここから始まろうとしていた。




