第2話:Ghost in the Machine
高度四千フィート。セント・ミリオネアの空は、今やジャックにとっての処刑台へと変わっていた。
「"VENDYS, Report!"(ヴェンディス、状況を報告しろ!)」
ジャックの叫びは、ヘルメットの内部で虚しく響いた。
網膜に投影されたHUDは、先ほどラピス・レイザーから受けた接触から、狂ったように真紅の警告ノイズを吐き出し続けている。
"System Error: Virus Detected."(システムエラー:ウイルスを感知)
"Neural Link: Disconnected."(ニューラルリンク:切断)
"Primary Thrusters: Offline."(主推進装置:オフライン)
KLANG!
装甲の継ぎ目から不気味な火花が散り、飛行を維持していたリパルサー・ユニットが沈黙した。
一瞬の無重力。そして、凶悪な重力がジャックの肉体を地上へと引きずり込み始める。
「……クソッ、あの女……! あの瞬間に仕込んだのか!」
自由落下。視界が激しく回転し、眼下に広がるセント・ミリオネアの夜景が、吸い込まれる底なしの奈落のように見える。
本来なら、ジャックの脳波に反応して予備パーツが飛来し、飛行形態へと再構成されるはずだった。だが、システムを蝕むウイルスは、その「アッセンブル」の命令系統を完全にロックしている。
『ジャック! ジャック、応答して!』
インカムから届くクレアの悲鳴。
『視える……銀色の星が、ダウンタウンのコンクリートに激突して砕ける未来が! お願い、逃げて!』
「"Don't worry, Claire."(心配するな、クレア。……まだ、逃げ出すには早すぎる)」
ジャックは絶叫に近いGの中で、必死に右腕の物理コンソールを叩いた。
デジタルが死んだなら、アナログで無理やり動かすまでだ。
「"Manual Override... Execute!"(マニュアル・オーバーライド……実行!)」
CH-CH-CHAK!
ジャックが肘の非常用レバーを引くと、装甲の一部が強制的にパージされ、剥き出しの回路が夜風に晒された。
彼は落下しながら、自分の指を「計算機」として使い、墜落までの残り秒数と風向きを割り出す。
(地面まで、あと十五秒。……あのクレーンを使えば、衝撃を逃がせるか?)
だが、その計算を嘲笑うかのように、システムに更なる異変が起きた。
死んだはずのスピーカーが、ノイズと共に濁った声を再生し始めたのだ。
『……美しい墜落だ、ジャック。お前の父が築いたこの箱庭に、お前自身の肉体が真っ赤なシミを作る。それはこの街にとって、最高の芸術になるだろう』
ディストピアの声だ。
奴は、ただジャックを殺そうとしているのではない。ヴェンディスという「希望の象徴」が、無様に地に堕ちる瞬間を特等席で眺めている。
「……"Keep talking, freak."(喋ってろ、化け物。……その隙に、俺は生き延びてやる)」
地上まで五百メートル。
ジャックは空中で身をよじり、姿勢を制御した。
右脚の緊急用パラシュートは、システムロックで開かない。
ならば、アーマーそのものを使い捨てる。
「VENDYS, Emergency Purge... ALL PARTS!(ヴェンディス、緊急パージ……全パーツ解除!)」
EXPLOSION!
墜落直前、ジャックの肉体を包んでいた銀色の装甲が、一斉に四方八方へと爆散した。
パーツが弾ける反動を利用し、ジャックの生身の体だけが、わずかに落下の軌道をずらす。
彼はそのまま、港湾地区に積み上げられた古タイヤの山へと突っ込んだ。
WHAM!
凄まじい衝撃。視界が暗転し、肺から空気がすべて絞り出される。
ジャック・ヴァン・ドレン。世界で最も裕福な男は、今、ただの傷だらけの人間として、スクラップの山の中で泥にまみれていた。
闇の向こうから、サイレンの音が近づいてくる。
だが、それよりも早く、崩れたパーツの山から一つのドローンが彼を見下ろしていた。
ネオン・ジャックのカメラだ。
『……"Oh my god, Listeners!"(オーマイガー、リスナーのみんな!) 銀の星が墜ちたぞ! 英雄の最期を、この目に焼き付けろ!』
意識が薄れゆく中で、ジャックは泥を掴んだ。
負けられない。
この墜落が、真の戦いの始まりであることを、彼はまだ誰にも告げていなかった。
ヴァン・ドレン・タワー、メディカル・フロア。
最新の医療機器が並ぶ清潔な部屋には、消毒液の匂いと、精密機器が発する微かな電子音だけが満ちていた。
ジャック・ヴァン・ドレンは、治療用のベッドに横たわり、天井の無機質な白い光を見つめていた。
シャツは引き裂かれ、鍛え上げられた胸元には、墜落時の衝撃を物語る無惨な痣が広がっている。自動縫合機が、彼の脇腹に残った切り傷を静かに塞いでいた。
「……動かないで。まだ止血が終わっていないわ」
傍らに立つクレアの声は、冷たさを含んでいた。
彼女はサングラスを外し、銀色の瞳をジャックに向けている。その瞳は今、予言の光を失い、ただ深い悲しみと怒りに潤んでいた。
「"Relax, Claire."(落ち着け、クレア。……この程度の痣、ジムのトレーニングと大して変わらない)」
「嘘をつかないで! あんな高度から……もし、パージのタイミングがコンマ一秒でも遅れていたら、あなたは今頃……」
彼女の指が、ジャックの手首を強く握りしめる。震えていた。
「未来を視るのが、あんなに怖かったのは初めてよ」
ジャックは苦笑し、自由な方の手で彼女の頭を軽く撫でた。
「"I'm still here."(俺はまだここにいる。……お前の予言を裏切るのが、俺の唯一の特技だろ?)」
彼は上体を起こすと、隣のホログラム・テーブルに投影された「残骸」に視線を移した。
そこには、回収されたヴェンディスのメインプロセッサが、黒く焦げた状態で浮かび上がっている。
「……ラピスが仕込んだウイルスの解析結果はどうなった」
クレアは涙を拭い、仕事の顔に戻ってコンソールを操作した。
「……信じられないわ。ウイルスの一部に、ヴァン・ドレン・グループの古い暗号コードが使われていた。それも、十年以上前に破棄されたはずの『アトラス計画』の残滓よ」
ジャックの表情から、わずかな余裕が消えた。
「……アトラス計画。父がクリーンエネルギー開発の裏で進めていた、都市管理AIのプロトタイプか」
「ええ。公式記録では、研究施設の爆発事故でデータはすべて消失したことになっているわ。……でも、ラピスが盗んだあの試作機があれば、その『亡霊』を現代のネットワークに解き放つことができる」
ジャックは顎に手を当て、思考を巡らせる。
「ディストピア(Dystopia)……奴が言っていたな。『お前の父が隠した毒』だと。もし、アトラス計画に裏があったとしたら。あの事故が、単なる事故ではなかったとしたら」
窓の外、セント・ミリオネアの街は、何事もなかったかのように輝き続けている。
だが、その電気信号の一粒一粒が、今やジャックにとっては毒に侵された細胞のように見えていた。
「……クレア、ラピスの次の狙いを予測できるか」
「……ノイズが、細分化されているわ」
クレアは再びサングラスをかけ、精神を集中させる。
「彼女は、街の『記憶』を狙っている。歴史資料館、あるいは古い下水道の管理局……セント・ミリオネアが建設される前の、不都合な記録が眠る場所」
「なるほど。この街の『黄金の皮』を剥ごうというわけか。……面白い」
ジャックはベッドから立ち上がり、傷んだ体に鞭を打って、新たなアーマーが待つハンガーへと歩き出す。
「"Wait!"(待って!)」
クレアが呼び止める。
「システムはまだ完全じゃない。また墜落したら……」
「"Then I'll just have to fly better."(なら、次はもっと上手く飛ぶだけだ)」
ジャックは振り返らずに手を振った。
「"Trust me, Claire. This city belongs to me... and I don't let anyone trash my property."(俺を信じろ、クレア。この街は俺の所有物だ。……自分の庭を荒らさせるほど、俺は寛大じゃない)」
その背中は傲慢なセレブのそれだったが、クレアには分かっていた。
彼が隠そうとしているのは、自分自身のルーツに対する、言いようのない不安であることを。
セント・ミリオネア歴史資料館。
この街の輝かしい歩みを展示する壮麗な石造りの建築物は、今やラピス・レイザーによって静寂を切り裂かれていた。
「"Found it."(見つけたわ)」
ラピスが展示ケースの強化ガラスを指先一つで粉砕する。
彼女が狙ったのは、宝石でも黄金でもない。半世紀前の都市設計図が収められた、古ぼけたマイクロフィルムだった。
その時、天井のステンドグラスを突き破り、銀色の残像が舞い降りた。
KLANG!
「"Party's over, Lapis."(パーティーは終わりだ、ラピス)」
銀翼を広げたヴェンディスが、瓦礫の煙の中から姿を現す。
再調整されたスラスターが、以前よりも低く、重厚な唸りを上げていた。
「あら、意外に早かったわね。……今度はちゃんと紐を括り付けて飛んできたのかしら?」
ラピスは手にしたフィルムを弄びながら、不敵に笑う。
彼女が指を鳴らした瞬間、ホールの二階席から悲鳴が上がった。
「助けて! 誰か!」
そこには、深夜まで残業をしていた若き学芸員の女性が、ラピスの仕掛けた「空間の歪み」によって宙に吊り上げられていた。
彼女の真下には、鋭利な装飾が施された石像が待ち構えている。
『ジャック、彼女を!』
インカムからクレアの緊迫した声が響く。
『ノイズが濃くなっている……あと十秒で、あの歪みが解ける。そうなれば、彼女は……!』
「……分かっている!」
ジャックはラピスへと向けたリパルサー・ガンのチャージを解除した。
彼のセンサーは、ラピスが逃走の予備動作に入ったことを告げている。今追わなければ、街の機密データは永遠に失われるだろう。
だが、ヴェンディスの「不殺」の誓いに、迷いの余地はない。
「"VENDYS, Support Mode! Kinetic Anchors!"(ヴェンディス、サポート・モード! キネティック・アンカー!)」
CH-CH-CHAK!
ヴェンディスの両腕から、特殊な高分子ワイヤーが射出された。
ワイヤーは宙に浮く女性の周囲にネットを形成し、同時にジャックは自らの肉体を重しにして二階へと跳躍した。
WHAM!
落下し始めた女性を、ジャックは空中で受け止める。
石像の刃まで、わずか数十センチ。
ヴェンディスの強固な装甲が女性を包み込み、衝撃を完全に吸収した。
「"You're safe now. Breathe."(もう安全だ。呼吸を整えろ)」
震える女性を床に下ろしたジャックが振り返ったとき、ラピスはすでにホールの出口へと立っていた。
「"Good job, Hero."(いい仕事ね、ヒーロー)」
ラピスが嘲笑う。
「でも、一人の命を救う間に、この街の『嘘』は暴かれる準備を終えたわ。……ジャック、あんたの父親がこの資料館に寄贈しなかった『本当の記録』を、楽しみにしていて」
ラピスが背後の空間へと溶け込む。
「待て!」
ジャックが手を伸ばすが、指先は虚空を掴んだ。
ラピスの消えた場所には、青い光の残像と、彼女がわざと落としたらしき古い工事現場の写真だけが残されていた。
救われた学芸員の女性が、ジャックの銀色の腕を掴んで涙を流す。
「ありがとう……ありがとうございます、ヴェンディス……」
ジャックはその感謝の言葉を、苦い思いで受け止めていた。
市民を救うたびに、真実が遠のいていく。
不殺を貫くための「対価」は、彼の資産だけでなく、この街の平穏そのものになりつつあった。
『……ジャック、彼女は逃げたわ』
クレアの声が、静まり返ったホールに冷たく響く。
『でも、別のノイズが近付いている。……より重く、より古い、鉄の匂い』
ジャックは静かに拳を握りしめた。
資料館の入り口から、重厚な金属の歩行音が近づいていた。
資料館の重厚な大理石の床が、一歩ごとに悲鳴を上げる。
暗がりの向こうから現れたのは、磨き上げられたヴェンディスの銀色とは対照的な、錆と汚泥にまみれた鉄の巨人だった。
「"Dystopia..."(ディストピア……)」
ジャックは傍らの学芸員を庇いながら、戦闘態勢を整える。
「……逃がしたな、ジャック。女一人を追い詰められず、代わりに名もなき市民の命を救って満足か?」
ディストピアの歪なスピーカーから、嘲笑が漏れる。
「お前の『不殺』は美しい。だが、それは過去に積み上げられた死体を、黄金のカーペットで覆い隠しているに過ぎん」
「"Shut up!"(黙れ!)」
ジャックのリパルサー・ガンが唸りを上げる。
「父が何を隠したというんだ。この街は彼がゼロから作り上げた。何もない荒野に、夢を与えたんだ!」
「夢だと? ……笑わせるな」
ディストピアが巨大な鋼鉄の腕を、壁に掲げられたセント・ミリオネア建設初期のパネルへと叩きつけた。
WHAM!
石造りの壁が砕け散り、隠されていた古い配線が火花を散らす。
「この街の地下には、建設計画から抹消された『第零区』が存在する。父、エドワード・ヴァン・ドレンは、そこに不都合な労働者たちを閉じ込め、事故に見せかけて埋め殺した。……お前が今纏っているそのアーマーの動力源も、彼らの命を啜って開発された技術の末裔だ」
「……何だと?」
ジャックの脳裏に、先ほどラピスが残していった写真がフラッシュバックする。
そこに写っていた男の憎悪に満ちた瞳。
『ジャック、耳を貸さないで!』
インカムからクレアの叫びが響く。
『それは罠よ! あなたの精神を揺さぶり、判断を鈍らせるための!』
「……分かっている、クレア。だが……」
ジャックの網膜ディスプレイに、ディストピアの熱源反応が異常に膨れ上がるのが映った。
ディストピアは戦うためではなく、ある「演出」のためにここに来ていた。
「ジャック、お前に究極の二択をやろう」
ディストピアが胸部のハッチを開くと、そこには資料館の構造を支える中央柱に仕掛けられた、巨大な熱反応爆弾が露出していた。
「この爆弾を止めれば、資料館は守られ、学芸員の娘も助かる。……だが、同時に地下深くの『隠された扉』が永久に封印され、真実を知るチャンスは永遠に失われる。……逆を選べば、真実は手に入るが、お前は『救えなかったヒーロー』として一生を過ごすことになる」
「"Damn you!"(貴様……!)」
ディストピアが不気味に笑い、空間転移のノイズと共に消えようとする。
「さあ、選べ。真実か、正義か。お前の『不殺』が、どれほど無力かを知るがいい」
ピッ、ピッ、ピッ――。
無情なカウントダウンが、静まり返った資料館に響き始める。
学芸員の女性が、ジャックの背中に縋り付いて震えていた。
カウントダウンの電子音が、ジャックの鼓動を急き立てる。
残り、十五秒。
「"VENDYS, Scan the bomb!"(ヴェンディス、爆弾をスキャンしろ!)」
『……スキャン完了。熱源反応は中央柱の構造材と直結しています。爆発すれば、資料館は三秒以内に全壊。生存確率は……ゼロです』
背後で震える学芸員の女性。
そして、ディストピアが指し示した、真実へと続く地下への道。
ジャックは拳を握りしめ、血が滲むほどに奥歯を噛み締めた。
「……"VENDYS, focus on the structural integrity."(ヴェンディス、構造維持を最優先。……爆弾を隔離しろ!)」
ジャックは地下への入り口を、見ることさえしなかった。
彼にとって、真実よりも重いのは、今ここで脈打っている命だ。
CH-CH-CHAK!
ヴェンディスの両腕が展開し、瞬時に冷却ガスと瞬間硬化樹脂を噴射する。
爆弾そのものではなく、爆心地周辺の「壁」を物理的に補強し、爆風の指向性を上空へと無理やり逸らす強引な手法。
「"GET DOWN!"(伏せろ!)」
KABOOM!
凄まじい爆音と共に、資料館の天井が吹き飛んだ。
ジャックは学芸員の女性を抱き抱え、崩れ落ちる瓦礫の雨の中を、自身の装甲を盾にして耐え抜いた。
やがて、静寂が訪れる。
立ち込める塵埃の向こう側で、地下へと続く扉は無惨にも瓦礫の山に埋もれ、完全に封鎖されていた。
父の犯した罪。失われた「第零区」の記録。それらは再び、深い闇の中へと消え去った。
『……ジャック。無事なの?』
クレアの声が届く。その響きには、安堵と、それ以上の深い懸念が混ざっていた。
「ああ。……一人は救えた。……だが、それだけだ」
ジャックは瓦礫の中から立ち上がり、夜空を見上げた。
吹き飛んだ天井の穴から見えるセント・ミリオネアの月は、冷たく、彼を嘲笑っているように見えた。
ふと、破壊された爆弾の基盤の破片が、足元に転がっているのが目に入る。
そこには、ヴァン・ドレン社製ではない、未知の企業のロゴが刻印されていた。
「"What is this...?"(これは、何だ……?)」
ジャックがその破片を拾い上げようとした瞬間、彼の網膜ディスプレイに、予期せぬノイズが走った。
[ACCESS GRANTED: ATLAS PROJECT PHASE 2]
(アクセス許可:アトラス計画 フェーズ2)
背筋に凍り付くような寒気が走る。
ジャックが爆弾を「無力化」した瞬間に、何らかのプログラムが起動したのだ。
まるで、最初から彼がこの選択をすることを予見されていたかのように。
『ジャック! 街のネットワークが……!』
クレアの悲痛な叫び。
『金融街の電力が次々に遮断されているわ。……何かが、地下から這い出してきている!』
セント・ミリオネアの輝きが、一角から、また一角へと消えていく。
ジャックは震える手で、手元の破片を握りしめた。
彼が救った一人の命の代わりに、街全体が巨大な罠へと沈もうとしていた。
「……"It's not over."(まだ終わっちゃいない)」
ジャックは再びヘルメットを装着した。
失われた真実の代わりに、最悪の現実が、その牙を剥き始めていた。
闇に包まれた街のどこかで、ディストピアの哄笑が響いたような気がした。




