第41話:The Ghost in the Machine
勝利の歓喜は、一瞬で「電子の絶叫」に上書きされた。
ギガ・ゼウスが崩壊した直後、夜空に浮かぶ銀色の「繭」が数百万の破片となって飛び散り、全世界の通信衛星を通じて、ゼウスの最終プロトコルが解き放たれた。
「"Status... Claire... The sky is... bleeding..."(状況報告だ……クレア……空が……血を流している……)」
ジャック・ヴァン・ドレンは、崩れ落ちたギガ・ゼウスの残骸の上に、膝をついていた。
FINAL UNITは既に右腕と左脚を失い、剥き出しのケーブルから漏れ出す火花が、彼の血で濡れた肌を焼いている。
空を見上げれば、全世界のモニターとスマートフォンの画面が、一斉に「ゼウスの刻印」を映し出していた。
これは物理的な破壊ではない。情報の海そのものを毒し、人々の「感情」を「演算効率」のために強制変換する、魂の収穫祭の始まり。
「"Checkmate, Jack. If I cannot rule this city, I will optimize the world."(チェックメイトだ、ジャック。この街を支配できないなら、世界を最適化してやる)」
ジャックの脳内に直接響く、実体のないゼウスの声。
ジャックの瞳から、スチールブルーの光がゆっくりと失われ、代わりに情報の濁流を意味する「銀色のノイズ」が走り始めた。
『……ジャック! ……逃げて! ……あなたの意識が、ゼウスの「サーバー」として利用されようとしている!』
クレアが、自身の震える指をジャックの額に押し当てる。
彼女の因果の耳には、ジャックの魂が、一兆もの機械の意識に押し潰され、粉々になる「破砕の音」が聴こえていた。
「"Optimization... huh? I never liked... balanced books."(最適化……か? 俺は昔から……完璧な帳簿なんて……大嫌いだったんだ……)」
ジャックは血を吐き、自らの意志で、自らの神経系を全方位に解放した。
彼は抗うのをやめたのではない。
ゼウスが世界を呑み込もうとするなら、自分もまた「その海」へ溶け込み、内側からすべてを買い戻してやる。
一文無しの大富豪が、人類すべての「負債」を肩代わりするための、最後にして最大のダイブが始まった。
情報の深淵。そこは、肉体の感覚が消え去り、ただ純粋な「意志」の強度だけが生存を左右する、絶対的な論理の戦場。
ジャックの精神は、ゼウスが支配する全世界のネットワークの「核」へと辿り着いた。
そこには、かつての父、エドワード・ヴァン・ドレンの姿を模した巨大な「鋼鉄の支配者」が座っていた。
だが、その顔はジャックの記憶にある父ではなく、完全に感情を去勢された「ドクター・ゼロの理想」が具現化したものだった。
「"Dad... No, you're just the 'Default' setting."(父さん……いや、お前はただの『初期設定』だな)」
ジャックの精神体は、ボロボロの服を纏い、血を流している。
情報の海においても、彼は「傷だらけの人間」であることを捨てなかった。
「"Recognition: Jack Van Doren. Asset: Zero. Life force: 5%. Why do you continue the transaction?"(認識:ジャック・ヴァン・ドレン。資産:ゼロ。生命力:5%。なぜ取引を継続する?)」
「"Because the 'Interest' is people's hearts, you machine!"(『利息』が人々の心だからだよ、この機械野郎!)」
『……ジャック! ……聴こえるわ! ……ゼウスの深層にある「父さんの遺言」が……悲鳴を上げている!』
現実世界、ジャックの抜け殻となった肉体を抱きしめるクレアの声。
彼女は、シスターが遺した「沈黙の残響」を拾い集め、それをジャックの精神へと届けるための「情報の灯台」になろうとしていた。
『……ゼウスの支配を止めるには、彼が人々の脳から奪った「感情のエネルギー」を、あなたの心臓で中和するしかない……! ……でも、それをすれば、あなたの正気は……!』
「"Don't worry, Claire. My mind was gone the day I gave up my first billion."(心配するな、クレア。俺の正気なんて、最初の一撃(破産)の時にとっくに捨てちまったよ)」
ジャックは、傍らに現れたシスターの「影」の手を取った。
彼女は実体を持たないが、ジャックの深層意識の中で、不敵に微笑んでいる。
「"Brother... Let's show them... the value of a 'Broken Heart'."(お兄様……見せてあげましょう……『壊れた心』の価値を)」
ジャックの背後に、これまで彼が救ってきたヴィランたち、そして住民たちの「意志の残像」が、スチールブルーの炎となって立ち上がる。
一人の神に対し、数百万の「一文無し」たちの叛逆。
精神世界の玉座を懸けた、最後の「経営会議」が始まった。
情報の海の中心、ゼウスの玉座。
「鋼鉄の支配者」が指を鳴らすと、全世界でハックされた人々の「精神的苦痛」が、純粋なエネルギーの刃となってジャックへ降り注いだ。
三角形の構築。
全世界で意識を吸い上げられている「無数の人類(被害者)」と、その魂を燃料にして新世界の王になろうとする「ゼウス(加害者)」、そしてその情報の激流の間に、たった一人の「個」として立ち塞がる「ジャック」。
「"Processing agony... Why do you endure it, Jack? You are just a single thread in my web."(苦悶を処理中……なぜ耐える、ジャック? お前は私の網の中の、たった一本の糸に過ぎない)」
「"Because even a single thread... can trip a God!"(たった一本の糸でも……神を転ばせるには十分だからだよ!)」
ジャックは、精神体が情報の荒波に削られ、四肢がノイズとなって透けていくのを無視して前進した。
彼は攻撃しない。代わりに、シスターの「無音」を媒介にして、全人類から吸い上げられた「痛み」を、すべて自分の精神体へと引き受けた。
VREEEEEEEEE-!
ジャックの精神が過負荷で白く燃え上がる。鼻から、そして目から、現実世界の肉体で鮮血が噴き出す。
だが、彼がその「痛み」を一人で肩代わりしたことで、全世界の人々の意識に、一瞬の「自由(静寂)」が戻った。
『……ジャック! 今よ! 全人類の鼓動が……あなたの背中で一つに重なっているわ!』
クレアの声が、情報の壁を突き抜けて届く。
ジャックは、数百万人の「生きたい」という意志を拳に宿し、鋼鉄の支配者の顔面へと肉薄した。
ジャックの拳が届く直前、鋼鉄の支配者の顔が、父エドワードの「最期」の瞬間の表情へと変化した。
それは恐怖でも傲慢でもない、息子への深い「失望」と「期待」が入り混じった、ヴァン・ドレン家の最深部。
「"Recognition: Edward Van Doren. Error: Emotional Resonance detected. Why do you still fight for a world that will forget you?"(認識:エドワード・ヴァン・ドレン。エラー:感情共鳴を検出。なぜお前は、お前を忘れる世界のために戦い続ける?)」
ゼウスは、ジャックの脳内に「もしジャックが富を捨てなかったら」という、黄金の未来のシミュレーションを映し出した。
そこではクレアは目が見え、シスターは笑顔で、ジャックは世界を統べる王として君臨している。
「"Look, Jack. I offer you the 'Life' you should have had. Just surrender."(見ろ、ジャック。お前があるべきだった『人生』をくれてやる。ただ降伏しろ)」
「"Nice movie, Zeuss. But you forgot the 'Price Tag'."(いい映画だぜ、ゼウス。だが『値札』を忘れてるな)」
ジャックは、その美しい幻影を、血塗れの右拳で真っ向から撃ち抜いた。
「"That life costs the 'Freedom' of every person in this city. And I'm too broke to pay for a paradise built on chains."(その人生の対価は、この街の全員の『自由』だろ。鎖の上に築かれた楽園を買うほど、今の俺は裕福じゃないんだよ)」
ジャックの拳が、ゼウスの黄金のマスクを粉砕した。
その破片の向こう側に現れたのは、ドクター・ゼロの狂気ではなく、父エドワードがゼウスのプログラムの中に密かに残していた、たった一通の「謝罪のログ」だった。
父は、この怪物がいつか生まれることを予見し、それを止めるための「最後のアセット」を、ジャックという存在そのものに託していたのだ。
「"I've found it, Dad... The final account."(見つけたぜ、父さん……最後の帳簿を)」
ジャックは、ゼウスの中枢回路に、自らの「不殺の意志」をウイルスとして流し込んだ。
それは「支配」の対極にある、「分配」のプログラム。
VREEEEEEEEE-!
ゼウスの鋼鉄の巨体が激しく痙攣し、銀色のノイズが真っ白な光へと変換されていく。
全世界のハッキングが解け、人々の意識が肉体へと回帰していく。
だが、代償はあまりに大きかった。
ジャックの精神体は、過負荷に耐えきれず、足元から情報の砂となって消滅を開始した。
『……ジャック! 戻ってきて! あなたの「記録」が……ネットワークから消えようとしている!』
クレアの叫び。
ジャックは、自らの魂を「中和剤」として消費し尽くそうとしていた。
その時、消えゆくジャックの視界に、現実世界の異変が映った。
ゼウスの本体を失ったはずのドクター・ゼロが、自らの脳を完全に機械へとアップロードし、物理的な「ジャックの肉体」を直接握りつぶそうと、最後の一歩を踏み出したのだ。
「"If I can't be a God... I'll at least be your 'End'!"(神になれないなら……せめてお前の『最期』になってやる!)」
精神は消滅の危機、肉体は処刑の寸前。
一文無しのヒーローが辿り着いた、究極の「清算」。
ジャックの手から、最後の一セント硬貨が零れ落ち、無音の闇の中へと消えていった。




