第38話:The Silent Binary
視界が、一瞬で「0」と「1」の吹雪に塗り潰された。
ジャック・ヴァン・ドレンの意識は、肉体を脱ぎ捨て、ゼウスの巨大な中枢ネットワークへとダイブしていた。
そこは、物理法則が情報の重力に屈した、銀色の幾何学模様が無限に続く処刑場。
生身の脳が、数京の演算が飛び交う戦場に放り出され、ジャックの精神は千々に引き裂かれそうな激痛に悲鳴を上げる。
「"Is this... your palace, Zero? It smells like... cold metal and arrogance."(ここが……お前の宮殿か、ゼロ? ……冷たい金属と傲慢の匂いがするぜ)」
ジャックの精神体は、かつての黄金のスーツを纏うこともなく、泥に汚れた「一人の男」の姿を維持するだけで精一杯だった。
周囲からは、数万体の「思考する刃」——電子的な防衛プログラムが、ジャックを異物として排除すべく殺到する。
『……警告。旧人類のニューラル・パターンを検出。……削除を開始する』
冷徹なゼウスの声が、空間そのものを震わせる。
現実世界のジャックの肉体は、鼻から鮮血を流し、痙攣を始めていた。
だが、その脳を焼き切ろうとする情報の津波を、一筋の「静寂」が切り裂いた。
『……お兄様! ……私の手を……離さないで!』
闇の中から現れたのは、銀色のノイズを纏ったシスターだった。
彼女は自身の「無音」を電子的な隔離壁へと変換し、ジャックを襲う情報の奔流を強引に中和していく。
「"Sister... You shouldn't be here. This place eats souls."(シスター……来るなと言ったはずだ。ここは魂を喰らう場所だぞ)」
「"I don't have a soul to lose, remember? I'm just your 'Shadow'."(失う魂なんてないわ、忘れたの? 私はあなたの『影』なんだから)」
二人の精神体が、情報の深淵で互いの手を握りしめる。
外側ではゼウスの「合理」が、内側ではシスターの「献身」が。
ジャックの存在そのものを賭けた、音のない戦争が幕を開けた。
電子の迷宮の回廊を、二人の「幽霊」が疾走する。
シスターが展開する「無音のドーム」の外側では、ゼウスが放つ高出力のデリート・パルスが、激しい火花を散らして防壁を叩いていた。
「"Zero is hiding something... in the deep end."(ゼロは何かを隠している……最深部にな)」
ジャックは、ノイズまみれの視界の中で、第37話で見つけた「最終配当(Final Dividend)」のフォルダの残響を追いかけていた。
それは、父エドワードが自らの罪を清算するために遺した、ゼウスを停止させるための唯一の「良心のコード」。
「"If we reach that folder, we can release the residents' minds. But Zeus... he's using the city's power grid as a shield."(あのフォルダに辿り着けば、住民の意識を解放できる。だがゼウスは……街の電力網を盾にしていやがる)」
『……ジャック、聴こえるわ! ……電子の波の裏側で、三つの「死の罠」があなたたちの回路を狙っている!』
現実世界から、クレアの「因果の耳」が通信回線を伝って響く。
彼女は、血を流すジャックの肉体に寄り添いながら、精神世界に潜む「未来の脅威」を音として聴き取っていた。
『……一つは、あなたの記憶を消去する「忘却の渦」。二つ目は、シスターの機能を停止させる「冷たい沈黙」。そして三つ目は……』
クレアの声が、恐怖に震える。
『……あなたの父、エドワードの姿をした「偽りの救済」よ。……ゼウスは、あなたの罪悪感を餌に、あなたを永遠の眠りへ誘おうとしている!』
「"Guilt, huh? I paid that debt a long time ago."(罪悪感か。……そんなツケは、とっくに清算済みだ)」
ジャックは、シスターを力強く引き寄せた。
「"Sister, can you silence the 'Logic'? I'm going to follow the 'Heart'."(シスター、奴の『論理』を黙らせられるか? ……俺は『心』を辿って行く)」
「"Understood... Brother. I'll give you ten seconds of 'Absolute Zero'."(了解……お兄様。……十秒間だけ、『絶対零度の静寂』をあげる)」
シスターの全身から、眩いばかりの黒い光が溢れ出す。
情報の海が凍りつき、ゼウスの演算が一時的に停止する。
その刹那を突き抜け、ジャックは父の幻影が待つ「情報の最下層」へと跳躍した。
電子の深淵。シスターが放つ「絶対零度」の波動が、ゼウスの猛烈な演算を凍りつかせている。
だが、その負荷はシスターの精神体を内側から崩壊させていた。彼女の腕がノイズとなり、情報の砂となって崩れ落ちていく。
三角形の構築。
ゼウスのウイルスに侵食され、意識が消えかけている「シスター(被害者)」と、彼女の回路を食い散らかしながらジャックを狙う「防衛プログラム(加害者)」、そしてその中心で拳を握る「ジャック」。
「"Halt! System integrity is paramount. Delete the intruder!"(停止せよ! システムの整合性が最優先だ。侵入者を削除せよ!)」
「"Integrity? You don't even know the meaning of the word!"(整合性だと? お前はその言葉の意味さえ知っちゃいないんだよ!)」
ジャックは、精神世界でのみ具現化させた「一セント硬貨」を情報の荒野に叩きつけた。
それはただのコインではない。ジャックが「無」から再起した際に培った、何物にも代えがたい「現実の重み」。
KLANG!
デジタルの海に響く、場違いなほどアナログで重厚な音。
その衝撃波がシスターに群がるプログラムを弾き飛ばし、彼女の崩壊を一時的に食い止める。
『……お、お兄様……。……早く……行って……。私の『静寂』が……もう持たない……!』
「"Don't you dare log out, Sister! I'm coming back for you!"(ログアウトなんて許さんぞ、シスター! 必ず戻ってきてやる!)」
ジャックは、シスターが命懸けで作った「無音の回廊」を駆け抜けた。
情報の速度を超えた、意志の加速。
彼は、ゼウスの核へと続く、銀色の巨大な「虚無の門」へと飛び込んだ。
門を抜けた先。そこは、かつてのヴァン・ドレン・タワーの書斎を完璧に再現した仮想空間だった。
暖炉が燃え、革張りの椅子の匂いまでが再現されている。
そしてその椅子には、柔和な笑みを浮かべた父、エドワード・ヴァン・ドレンが座っていた。
「"Welcome home, Jack. You've fought long enough. Rest now."(おかえり、ジャック。もう十分に戦った。さあ、休みなさい)」
「"You look real, Dad. But you smell like... 0 and 1."(本物に見えるぜ、父さん。だが匂いが……0と1の塊だ)」
ジャックは、父の幻影に歩み寄りながら、あえて「不殺のロッド」を腰に納めた。
「"Zeus used your face because he thinks it's my weakness. But he forgot. I already settled the account with my real father."(ゼウスはあんたの顔を俺の弱点だと思ったらしい。だが忘れてる。俺は本物の親父とは、とっくに清算を終えてるんだ)」
『……ふふ、そうだ。私はお前の記憶から作られた『理想の父』に過ぎない』
父の顔が、ノイズと共にドクター・ゼロの冷酷な顔へと歪んでいく。
『だがジャック、この『最終配当』のフォルダを開けば、お前の脳は街中の全住民の意識と直結する。その負荷に耐えられるか? お前が救おうとする人々そのものが、お前を殺す毒になるのだぞ』
モニターには、ハックされた住民たちが苦痛に喘ぐリアルタイムの映像が映し出された。
彼らの脳が、ゼウスの並列演算ユニットとして酷使されている。
「"I'm not opening it to 'Control' them, Zero."(支配するために開くんじゃないんだよ、ゼロ)」
ジャックは、自身の精神体から「最後の一セント」を父の幻影の手のひらに押し当てた。
「"I'm opening it to 'Pay' them back. Their freedom... is my final dividend."(返済するために開くんだ。奴らの自由……それが俺の『最終配当』だ)」
『……愚かな。……ならば、その『正義』と共に、情報の藻屑となれ!』
ジャックがフォルダを強制起動した瞬間、世界が反転した。
VREEEEEEEEE-!
セント・ミリオネア中のスピーカー、スマホ、そして人々の脳内に、ジャックの意識が濁流となって流れ込む。
ジャックの鼻から、現実世界で凄まじい量の鮮血が噴き出した。
「ガ、ア、アアアアッ……!」
情報の過負荷。
数千人分の「痛み」がジャック一人に集中し、彼の精神体がボロボロに剥がれ落ちていく。
だが、その苦痛の果てに、ジャックは視た。
ゼウスの鉄壁の防衛網の裏側に隠されていた、ドクター・ゼロの「本当の肉体」の座標。
奴はネットのどこにもいない。街の地下、かつて自分が皿洗いをしていたダイナーの「真下」に潜んでいたのだ。
『……ジャック! 聴こえるわ! ゼウスのシステムが……「良心」のオーバーフローで自壊を始めた!』
クレアの声。
だが、代償はあまりに大きかった。
シスターの精神体は完全に沈黙し、彼女の接続を示すランプが、赤く点滅しながら「消失」を告げている。
「"Sister... SISTER!"(シスター……シスター!)」
ジャックが虚空に向かって叫んだその時、現実世界のダイナーの床が爆発した。
地底から姿を現したのは、ドクター・ゼロ自身が操縦する、都市破壊用超巨大アンドロイド『ギガ・ゼウス』。
「"If the cloud falls, I'll crush the earth myself!"(クラウドが落ちるなら、この手で大地を粉砕してやる!)」
意識が朦朧とするジャックの前に、物理的な死の巨神が立ちはだかった。
シスターは戻らず、クレアは泣き叫び、ジャックの体は動かない。
再起したヒーローを待っていたのは、情報の海よりも残酷な、鋼鉄の現実(地獄)だった。




