第31話:Invisible Cracks
セント・ミリオネアの空は、かつてないほど高く、青かった。
空中都市の墜落危機から一年。街は奇跡的な復興を遂げ、かつての「第零区」の跡地には子供たちの笑い声が響く巨大な公園が広がっている。
だが、その平和な風景の裏側で、不穏な「音」が鳴り始めていた。
「"A peaceful city is like an old watch. You don't see the rust until it stops moving."(平和な街ってのは古い時計と同じだ。止まるまで、中の錆には気づかない)」
ジャック・ヴァン・ドレンは、スラムのダイナーの勝手口で、大量の皿を洗っていた。
かつての億万長者の手は、戦いの傷跡の上に、皿洗いとしての「生活の徴」が刻まれている。
広場では、復興を主導した旧富裕層の代表者たちが、再開発の成功を祝う式典を行っていた。
一方で、路地裏では、地価値上がりによって家賃を払えなくなった住民たちが、無言で荷物をまとめ始めている。
「……ジャック。……聴こえるわ。……「感謝」の響きが、少しずつ「疑念」に変わっていく音が」
クレアが、光のない瞳を式典会場へと向けた。
『……かつての共通の敵がいなくなった今、人々は「隣人が自分より得をしていること」に耐えられなくなっている……。……見えない亀裂が、この街を再び二つに割ろうとしているわ』
「"Greed never dies. It just rebrands itself."(強欲は死なない。ただ、名前を変えるだけだ)」
ジャックは、血とオイルにまみれていた時よりも、ずっと険しい表情で、一枚の「開発許可証」を見つめた。
それは、街を合法的に切り売りしようとする、外部からの「死神」の招待状だった。
夜の相談役室。ジャックは、クイーンが持ってきた最新の「資金流入ログ」を眺めていた。
「"Who is this 'Investor X'?"(この『投資家X』は誰だ?)」
「"A lobbyist from the capital, Jack. He's buying up the slum's debt faster than I can pull a trigger."(首都から来たロビイストよ、ジャック。私が引き金を引くより早く、スラムの負債を買い漁ってる)」
クイーンが、かつての愛銃をテーブルに置き、苛立ちを隠さずに告げる。
現在、セント・ミリオネアは「経済的自立」の瀬戸際にあった。
住民たちの共同基金は潤沢だが、国が定めた新しい都市法により、外部資本の参入を拒めない状況に追い込まれていたのだ。
『……ジャック。……この投資家Xの心臓の音……どこか聴き覚えがあるわ』
クレアが、ジャックの手首を強く掴む。
『……冷徹で、合理的で……でも、その奥に深い「選民思想」が隠れている。……彼は街を助けに来たんじゃない。……この街を「洗練された家畜小屋」に変えに来たのよ』
「"A legal invasion. No guns, no bombs. Just ink and paper."(合法的な侵略か。銃も爆弾もなし。ペンと紙だけでな)」
ジャックは、引き出しからかつての父エドワードが使っていた、一本の万年筆を取り出した。
「"Queen, keep the 'Shadows' ready. We're not fighting a war. We're fighting a 'Deal'."(クイーン、影の評議会を待機させろ。これは戦争じゃない。……『取引』だ)」
一文無しから成り上がった王は、今、物理的なアーマーを脱ぎ捨て、言葉と数字という名の「新しい鎧」を纏おうとしていた。
翌日。再開発が予定されているスラムの広場。
そこには、強制立ち退きを命じられた「住民たち(被害者)」と、笑顔で補償金を提示する「スーツの男たち(加害者)」、そしてその間に皿洗いの格好で立つ「ジャック」。
三角形の構築。
「おじさん、どいてよ! この紙にサインすれば、俺たちはもっと綺麗なアパートに住めるんだ!」
一人の若者が、ジャックを突き飛ばそうとする。
「"Wait, kid. Did you read the small print?"(待て、坊主。細かい注釈は読んだか?)」
ジャックは、若者の持つ契約書をひょいと取り上げた。
「"Provision 4: Rights of Residence subject to 'Productivity Scores'. Meaning, if you stop working, you lose your home."(第4条:居住権は『生産性スコア』に依存する。……つまり、働けなくなったら家を追い出されるってことだ)」
広場が静まり返る。スーツの男――投資家Xの代理人が、冷ややかな笑みを浮かべた。
「"Efficiency is the key to progress, sir. St. Millionaire needs to grow."(効率こそが進歩の鍵ですよ。街は成長しなければならない)」
「"Growth without people is just cancer."(人間を無視した成長は、ただの癌だ)」
ジャックは、アーマーの代わりに「圧倒的な経営的知識」を武器に、その場で契約書の矛盾を次々と論破していった。
住民たちの瞳に、「騙されていた」という怒りと、この名もなき男への「新たな信頼」が灯る。
『……ジャック、右よ! 代理人のカバンの中に、隠しカメラと音声発信機が……!』
クレアの警告。ジャックは気づいていた。
このやり取りはすべて、外部のメディアへと「暴徒が開発を妨害している」という歪んだニュースとして配信されていたのだ。
議事堂のモニターに映し出されたのは、ジャックを「街の復興を阻む正体不明の扇動者」として報道するニュース番組だった。
「"Public perception... my old friend."(世論操作か……懐かしい手口だな)」
ジャックは、画面に映る自分の顔を見つめた。
そこに映っているのは、一年前、プライムに「大罪人」として仕立て上げられた時と同じ、孤独な男の影。
だが、今回の敵はプライムのようなAIではない。
モニターが切り替わり、一人の男が演説を始めた。
その男は、ジャックに驚くほど似た「ヴァン・ドレン家」独特の傲慢な気品を纏っていた。
「"Is that... Adrian?"(あれは……エイドリアンか?)」
エイドリアン・ヴァン・ドレン。
ジャックの従兄弟であり、かつてジャックが「無能で欲深い」として一族から追放した男。
彼は今、「正統なるヴァン・ドレンの継承者」を自称し、国の後押しを受けて街の権利を主張し始めたのだ。
『……ジャック。……彼の声、聴こえるわ。……プライムのような冷たさじゃない。……もっとドロドロとした、あなたへの「劣等感」と「執着」の混ざった音……』
鏡の中に、かつての自分自身の「影」を見る。
もしジャックが破産せず、傲慢なままだったら、エイドリアンのように街を切り捨てていただろう。
ジャックは、かつての自分の「分身」と戦わなければならない運命を悟った。
「"He's using my old name to buy my new home."(奴は俺の古い名前を使って、俺の新しい家を買い叩こうとしてるわけか)」
セント・ミリオネアの夜。
スラムの街頭ビジョンが、エイドリアンの声明を繰り返し流している。
『親愛なる市民諸君。私は戻ってきた。……不確実な「共同基金」ではなく、確実な「資本」による平和を約束しよう。……明日、私はヴァン・ドレン家の正統な権利に基づき、この議事堂の所有権を国へと移譲する』
議事堂の前に集まった住民たちの間に、動揺が広がる。
一部の住民は「ヴァン・ドレン」という名の重厚なブランドに惹かれ、ジャックたちの「名もなき正義」に疑念を持ち始めていた。
「"The bank is trying to reopen, Jack."(銀行が店を開けようとしてるわよ、ジャック)」
クイーンが、武器を手にジャックの横に並んだ。
「"Let them try."(やらせておけ)」
ジャックは、折れた「白い杖」を握りしめ、闇を見据えた。
「"The Billionaire is dead. But the janitor knows where all the skeletons are buried."(大富豪は死んだ。だが皿洗いの男は、この街のどこの壁に死体が埋まってるか全部知ってるんだ)」
その時、ジャックのスマートフォンに、非通知のメッセージが届いた。
[DO YOU STILL BELIEVE IN 'NO-KILL' WHEN EVERYTHING IS LEGAL?]
(すべてが『合法』である時、それでもお前は『不殺』を信じるか?)
街の地下、かつての第零区の残骸から、再び「情報の毒」が漏れ出し始めていた。




