第30話:The Richest Man in the Slums
セント・ミリオネアの中央議事堂。その最上階にある「相談役室」のドアを、ジャック・ヴァン・ドレンは乱暴に開けた。
かつての金ピカのオフィスとは違い、そこにあるのは中古のデスクと、マドンナの店から持ってきた座り心地の悪い椅子だけだ。
「"Status, Claire. How's the 'Empire' today?"(状況はどうだ、クレア。今日の『帝国』の調子は?)」
デスクの向こう側で、最新の点字ディスプレイに触れていたクレアが、穏やかに微笑む。
彼女は今、街全体の「相互扶助ネットワーク」を管理する、実質的な最高財務責任者だ。
『……絶好調よ、ジャック。……今日の収益は、スラムの子供たちの笑顔が百点分と、マドンナからの「遅刻するな」という怒鳴り声が三回分ね』
「"Expensive as always."(相変わらず高くつく報酬だな)」
ジャックは、仕立てのいい(だが裏地はスラムの古着で作られた)ジャケットを脱ぎ、1セント硬貨を指先で弾いた。
かつて数千億の預金を持っていた時、彼は一度も「足りている」と感じたことはなかった。
だが、今の彼は知っている。
この一セントと、隣で笑う少女がいれば、世界中のどんな金庫も空っぽに見えるということを。
「"Let's get to work. The world isn't going to save its own wallet."(仕事にかかろう。世界は自分で自分の財布を守っちゃくれないからな)」
かつての億万長者は、一文無しから「絆の王」へと、最高の成り上がりを果たしていた。
昼時、ジャックとクレアは議事堂を抜け出し、いつもの「ジャンク・ヤード・ダイナー」へ向かった。
今やジャックが街を救った「影の王」であることを知る者は増えたが、住民たちの態度は変わらない。
「よお、相談役! 皿洗いの求人はまだ空けてるぜ!」
常連の労働者が、ジャックの背中を豪快に叩く。
「"Sorry, my contract's too high for you now."(悪いな、今の俺の契約料はお前には払いきれないぞ)」
ジャックは軽口を叩きながら、クレアを椅子にエスコートした。
『……ジャック。……聴こえるわ。……あなたが以前、フェニックス社から取り戻した「新エネルギーの特許」。……それを無償公開したことで、街の電力がタダになった……。……人々は今、光熱費の心配をせずに、冬を越せる喜びに浸っているわ』
「"Energy should be like air, Claire. No one should have to pay to breathe."(エネルギーは空気と同じであるべきだ。呼吸するのに金を払う必要なんてない)」
ジャックは、マドンナがサービスで持ってきた「焦げていないトースト」を一口齧った。
「"This is the real 'Profit', isn't it?"(これが本当の『利益』ってやつだな)」
『……ええ。……数字には表れないけれど、私たちの帳簿は、最高に真っ黒な黒字よ』
二人は、かつての殺伐とした戦場を思い出し、どちらからともなく笑い合った。
「"By the way, Brother..."(ところで、お兄様……)」
隣の席でノートを広げていたシスターが、真面目な顔でジャックを見た。
「"The math test is coming. I need an 'Investment' of your time."(数学のテストがあるの。お兄様の時間の『投資』が必要だわ)」
「"Mathematics, huh? My favorite language."(数学か。俺が最も得意な言語だな)」
昼食後、三人が公園を散歩していると、小さな「事件」に遭遇した。
三角形の構築。
欲張った露天商に騙され、お小遣いを全部取られそうになっている「少女(被害者)」と、高圧的な態度で偽物を売りつけようとする「詐欺師(加害者)」、そしてその間に割り込む「ジャック」。
「"Wait a minute, friend. That 'Ancient Relic' looks suspiciously like a soda bottle cap."(待ちなお、友よ。その『古代の遺物』、どう見てもソーダの瓶の蓋にしか見えないんだが)」
「なんだてめえ、余計な……! 俺はこの街の有力者の知り合いなんだぞ!」
「"Oh? Which one? Because I know most of them personally."(ほう、どいつだ? 大抵の奴なら個人的な知り合いだが)」
ジャックは、ヘルメットこそ被っていないが、かつての「大富豪」としての圧倒的なオーラを、あえて一瞬だけ解放した。
「……あ、あんた、まさか……あの……」
詐欺師は、ジャックの瞳に宿る、底知れない「本物の王」の威圧感に気圧され、小銭を返して逃げ出した。
「ありがとう、おじさん!」
少女が笑顔で駆け寄る。
『……ジャック、今の「因果」は……とても温かい響きだったわ』
クレアが、少女の頭を優しく撫でる。
「"A name doesn't matter. A face doesn't matter."(名前も顔も関係ない)」
ジャックは、少女からお礼に貰った小さな飴玉を口に放り込んだ。
「"The only thing that matters is the 'Deal'. And I just closed a good one."(大切なのは『取引』だ。……そして今、最高の取引を成立させたところさ)」
アーマーがなくても、資産がなくても。
ジャック・ヴァン・ドレンという男の「正義」は、今やこの街の呼吸の一部となっていた。
夕暮れ。ジャックは一人、かつて自分のタワーが立っていた跡地の公園にいた。
そこにある記念碑の鏡面仕上げのプレートに、今の自分の姿が映っている。
「"No gold, no shadows. Just me."(黄金もなく、影もない。ただの俺だ)」
鏡の中のジャックは、以前のような焦燥感に満ちた表情ではなく、どこか穏やかな、だが鋭い意志を宿した瞳をしていた。
ふと、背後に父エドワードの気配を感じたような気がして、彼は振り返った。
そこには誰もいない。
だが、風が父の声を運んできたような気がした。
『……ジャック、お前はついに、ヴァン・ドレンの呪縛を「富」に変えたのだな』
「"I'm just a man with a lot of friends, Dad."(俺はただ、友達がたくさんいるだけの男だよ、父さん)」
ジャックは、手の中の一セント硬貨を見つめた。
「"But if you're watching... stay tuned. The next chapter of St. Millionaire is going to be even better."(だが見ているなら、チャンネルはそのままだ。……セント・ミリオネアの次の章は、もっと面白くなるぞ)」
ジャックは、鏡の中の自分に別れを告げ、歩き出した。
過去を否定するのではなく、それを踏み台にして、彼は「新しい頂点」へと登り続けていた。
夜。議事堂の自室に戻ったジャックを、クレアが待っていた。
彼女の手には、一通の赤い封筒が握られている。
「"Another debt?"(また負債か?)」
『……いいえ。……「招待状」よ。……海の向こう、別の都市の市長から。……あなたの「再建メソッド」を教えてほしいって』
「"Exporting the 'Broke Hero' business, huh?"(『一文無しヒーロー』のビジネスを輸出、か)」
ジャックは封筒を受け取り、不敵に笑った。
「"Tell them the consulting fee is one cent... and a promise to never kill."(相談料は一セント……そして、決して殺さないという約束だ、と伝えてくれ)」
窓の外、セント・ミリオネアの明かりが星空のように輝いている。
平和は続いている。だが、ジャックの「不殺の清算」が終わることはない。
「"Let's go, Claire. The night is young, and we've got a lot of black ink to spread."(行こう、クレア。夜はまだ始まったばかりだ。……黒字を広めにいこうじゃないか)」
ジャックがヘルメットを手に取ると、一年前のあの日と同じ、スチールブルーの光がバイザーの奥に宿った。
成り上がった王の、新しい伝説の第一ページ。
彼は今日も、世界で最も裕福な「一文無し」として、闇の中へ駆け出していく。
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