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VENDYS:破産した億万長者が、不殺を誓って摩天楼を駆ける――救った命の数だけ、俺の誇りは積み上がる――  作者: 寝不足魔王


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第26話:A Cent’s Worth of Happiness

 セント・ミリオネアの朝は、かつてのジャックにとっては「金の動く音」でしかなかった。

 だが、資産を失い、第零区の最深部から生還した今のジャック・ヴァン・ドレンにとって、それは「安物のトースターがパンを焦がす匂い」と、「隣人の怒鳴り声」で始まる。


「"Status, VENDYS... No, Jack. How's the inventory?"(状況報告だ、ヴェンディス……いや、ジャック。在庫はどうだ?)」


 ジャックは、スラムの安アパートの軋むベッドで体を起こした。

 剥き出しの右腕には戦いの傷跡が残り、傍らには機能停止したままの黒いヘルメットが、文字通り「ただの鉄屑」として置かれている。

 

 現在の彼の全資産。

 ポケットの中にある、傷だらけの一セント硬貨が三枚。

 そして、台所から聞こえてくる、白い杖が床を叩くコツコツという音。


『……ジャック。……おはよう。……今朝の「因果」は、トーストが少し焦げる響きがしているわ』


 視力を失い、光のない瞳を向けたまま、クレア・ボヤンスが朝食を運んでくる。

 かつての「預言者」としての力は、今や「いつスーパーのタイムセールが始まるか」を聴き取るための日常の知恵に成り下がっていた。


「"Burnt toast, huh? Sounds like a luxury for a man with three cents."(焦げたトーストか。三セントしか持たない男にゃ、そいつは贅沢すぎるな)」


 ジャックは苦笑し、彼女が差し出した安物のコーヒーを啜った。

 だが、安らぎは長くは続かない。

 窓の外から聞こえてきたのは、住民たちの悲鳴ではなく、拡声器を通した「取り立て屋」の無機質な声だった。


「"Jack! I know you're in there! Pay the rent or give us the room!"(ジャック! 中にいるのは分かってるぞ! 家賃を払うか、部屋を明け渡しな!)」


 かつての億万長者は、一文無しの生活という「最も過酷な戦場」の真っ只中にいた。


 テーブルを囲む二人の間に流れるのは、かつての殺伐とした戦術会議ではなく、今日をどう生き延びるかという「生活の戦略」だった。


「"Listen, Claire. The landlord wants fifty bucks by tonight. We have three cents."(いいか、クレア。大家は今夜までに50ドル払えと言っている。俺たちは三セント持ってる)」


『……因果の計算は……四千九百九十七セントの赤字ね』

 クレアは杖を膝に置き、冷静に告げる。

『……聴こえるわ。……北区のスクラップヤードで、マドンナが新しい仕事を用意して待っている。……でも、そこへ行くための地下鉄代さえないのが、今の私たちの「絶望」よ』


「"A hero who can't afford a ticket. Prime would love this."(切符も買えないヒーローか。プライムが喜ぶな)」


 ジャックは、棚の奥から古びた工具箱を取り出した。

 中には、かつてのFINAL UNITの予備パーツだった小型の超高圧バネが一つだけ転がっている。


「"I'm going to sell this to the local repair shop. If I can talk the owner into it, we might get enough for the rent and a decent dinner."(これを修理屋に売ってくる。店主を言いくるめられれば、家賃とまともな夕飯代にはなるはずだ)」


『……気をつけて、ジャック。……その店へ続く道に、不穏な「音」が混ざっているわ。……情報のネットワークが死んだこの街で、誰かがあなたの「価値」を狙っている……』


 ジャックは、黒いレザージャケットを羽織り、1セント硬貨を指先で弾いた。

「"Value? I'm just a guy in a dirty jacket. Let them come."(価値だと? 俺はただの汚れたジャケットを着た男だ。……来るなら来い。今の俺は、一セントの損害さえ許さないほど『ケチ』だぞ)」


 スラムの目抜き通り。

 ジャックが目的の修理屋へたどり着く直前、路地裏で「事件」が起きた。


 三角形の頂点。

 なけなしの売上金を奪われようとしている「移動販売の老婆(被害者)」と、ナイフを構えた「飢えた暴走族(加害者)」、そしてその間に割って入る「ジャック」。


「"Stop right there, boys. That's not how you balance a budget."(そこまでだ、野郎ども。予算のやりくりってのは、そうするもんじゃない)」


「あぁ!? なんだてめえ、ただの貧乏人が……!」

 暴走族がナイフを突き出す。

 ジャックは、アーマーもリパルサーも持っていない。だが、彼の肉体には、数々の死線を潜り抜けた「不殺の技術」が染み付いている。


 SHERE!


 ジャックは、相手のナイフの軌道を「聴き」ながら、最小限の動きで回避した。

 彼は殴らない。代わりに、ポケットにあった一セント硬貨を、相手の足元の不安定なグレーチング(溝蓋)の隙間に正確に蹴り込んだ。


 CLANG!


 バランスを崩した男が前のめりに倒れ、自分のナイフを地面に落とす。


『……ジャック、右よ! 二人目が鉄パイプを振り回しているわ!』

 

 インカムではない。隣に立つクレアが、自身の杖をジャックの足元に差し出し、敵の足場を奪う。

 

「"Nice assist, Claire!"(ナイス・アシストだ、クレア!)」


 ジャックは、老婆を守る盾となり、暴漢たちの攻撃をすべて「受け流し」のみで無効化した。

 一発も殴らず、一滴の血も流させない。

 

 だが、その騒ぎの隙に、ジャックが売るはずだった「最後のパーツ」が、別の影によって奪い去られてしまった。


 暴漢を追い払ったものの、手元に残ったのは空の工具箱だけだった。

 老婆は感謝し、数枚のクッキーをくれたが、それでは家賃は払えない。


「……"Perfect. My last asset is gone."(……最高だ。最後のアセットが消えたぜ)」


「"Not quite, Mr. Van Doren."(まだすべてじゃないわよ、ヴァン・ドレン氏)」


 影から現れたのは、質素な服を着たバリスティック・クイーンだった。

 彼女の手には、先ほど奪われたはずのジャックのパーツが握られている。


「"Queen... giving up on the gun business?"(クイーン……銃の商売は引退か?)」


「"Just doing some market research. This piece of yours... it's worth more than this whole street, and you were going to sell it for a month's rent?"(市場調査よ。あんたのこのパーツ……この通り全部より価値があるわ。それを一ヶ月の家賃で売るつもりだったの?)」


 クイーンは、鏡のようなショーウィンドーを指差した。

 そこに映っているのは、ボロボロの服を着て、クッキーを齧るジャックの姿。


「"Look at yourself, Jack. You're trying so hard to be a 'nobody' that you've forgotten how to be 'someone'."(自分を見なさい、ジャック。あんたは『名もなき者』になろうとしすぎて、自分が『何者か』であることを忘れかけてるわ)」


「"I'm just a guy who wants a roof over his head, Queen."(俺はただ、屋根のある場所で寝たいだけの男だよ、クイーン)」


「"Liar. You're a man who can't walk past a crying old lady. That's your true 'Asset'. And that's why you'll always be broke."(嘘つき。あんたは泣いてる老婆を見過ごせない男よ。それが本当の『資産』。だからあんたは、いつまでも一文無しなのよ)」


 ジャックは、鏡の中の自分を見つめ、自嘲気味に笑った。

 富を捨てても、父の呪縛を解いても、結局自分は「誰かのために損をする」性質タチなのだ。


 夕暮れのセント・ミリオネア。

 家賃を払えないままアパートに戻ったジャックを待っていたのは、大家の怒鳴り声ではなく、ドアの前に置かれた大量の「お裾分け」の食料だった。


「……何だ、これは?」


『……聴こえるわ。……「ありがとう」の音が、階段いっぱいに響いている』

 クレアが、光のない瞳で廊下の奥を指差した。

『……あなたが今日助けた老婆……。彼女はこの地区の「顔役」だったの。……彼女がみんなに話したわ。名前も言わずに自分を守ってくれた、銀髪の優しい「幽霊」のことを』


 ジャックは、野菜の詰まった袋の中に、一通の封筒を見つけた。

 中には、50ドル。

 「貸しにしとくよ、ヒーローさん」という、殴り書きのメモ。


「"Great. Now I'm in debt to the whole neighborhood."(最高だ。今度は近所中に対して『負債』を抱えちまった)」


 ジャックは、クッキーを一口齧り、空を見上げた。

 金はない。名前もない。

 だが、今夜の夕食は、かつてのどの高級フルコースよりも豪華になりそうだった。


 その時、ジャックのポケットにある「古い通信機」が、聞き慣れない周波数の信号を拾った。

 それは、プライムの残党でも、ネクスト・ジェネシスでもない。

 

 [SYSTEM: NEW PROJECT FOUND. 'RECONSTRUCTION']

 (システム:新規プロジェクト確認。『再建』)


 ジャックの顔から、日常の笑みが消える。

 一文無しのヒーローの「本当の成り上がり」は、この小さな静寂の裏側で、静かに胎動を始めていた。


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