第25話:Account Balanced
セント・ミリオネア、中央広場。
かつて空中都市が墜落しかけ、ジャック・ヴァン・ドレンという名の男が「消えた」あの日から、一年が経過した。
復興を遂げた街は、皮肉にもヴァン・ドレンの名を冠さない「人々のための都市」として、かつてない活気に満ち溢れていた。
タワーの跡地には巨大な公園が造られ、子供たちが追いかけっこをし、かつての暴徒も、警官も、今はただの市民として平和な午後の光を享受している。
「……"Status, Claire?"(……状況はどうだ、クレア?)」
公園の片隅、古いベンチに座る一人の青年がいた。
ボロボロのレザージャケットを羽織り、銀髪を短く刈り込んだその男を、通り過ぎる人々は誰も「かつての億万長者」だとは気づかない。
『……世界は、とても「静か」よ、ジャック』
隣に座るクレアが、穏やかに微笑んだ。
彼女の銀色の瞳には、依然として光はない。しかし、彼女の持つ白い杖は、今や「因果を視る道具」ではなく、ただの「歩行を助ける支え」として、平和な石畳をコツコツと叩いている。
『……プライムが遺したノイズも、父さんの呪いも……全部、この街の風が運び去ってくれたわ』
「"Glad to hear it."(それは重畳だ)」
ジャックは、手の中にある「最後の一セント」の硬貨を、子供の遊びのように指の上で転がした。
彼の右腕には、かつてのFINAL UNITの痕跡である火傷の跡が深く刻まれている。だが、その手にはもう、重厚な鋼鉄の重みはない。
「……"Brother. It's time."(……お兄様、時間よ)」
影の中から現れたのは、質素な学生服を纏ったシスターだった。
彼女の瞳からは「暗殺者」の冷徹さは消え、少し不器用だが、確かな意志を持った少女の光が宿っている。
「"Is he here?"(奴は来ているか?)」
「"Yes. In the underground bank. Just like the report said."(ええ。地下銀行に。……レポート通り、誰も傷つけずに『沈黙』を奪おうとしている)」
ジャックは、ゆっくりと立ち上がった。
背負ったリュックサックの中には、マドンナが最期に「趣味で」直してくれた、あの無骨な黒いヘルメットが眠っている。
「"No rest for the broke, I guess."(一文無しに休息はない、か)」
ジャックは、微笑むクレアの額に軽くキスをし、シスターと共に、再び「影」の中へと足を踏み出した。
名前も、富も、歴史も持たない男が、今、再びこの街の「負債」を清算するために動き出す。
ダウンタウンの片隅、マドンナが営む「ジャンク・ヤード・ダイナー」。
昼下がりの店内は、安っぽい油の匂いと、労働者たちの騒がしい笑い声に満ちていた。かつての「ヴァン・ドレン」の栄華を知る者はここにはいない。ただ、誰もがこの店の看板メニューと、無愛想だが腕のいい「皿洗いの青年」を愛していた。
「おい、ジャック! サボってないで3番テーブルにコーヒーだ!」
厨房からマドンナの怒鳴り声が飛ぶ。
「"Coming, Madonna. Don't yell, my ears are still sensitive."(今行くよ、マドンナ。叫ぶな、耳はまだ繊細なんだ)」
ジャックは慣れた手つきでカップを運び、客と軽口を叩き合う。
ふと、店の片隅で新聞を読んでいた一人の女性と目が合った。
長いコートに身を包んだその女性――バリスティック・クイーンは、視線だけでジャックに合図を送り、店を出ていった。
ジャックはエプロンを脱ぎ、店の裏口へと向かう。そこには、クイーンと、彼女に並んで立つラピス・レイザーの姿があった。
「"So, the ghost is finally haunting the slums full-time?"(それで、幽霊はすっかりスラムに居着いたわけ?)」
クイーンが皮肉たっぷりに笑い、一通の暗号化されたブリーフケースを差し出した。
「"Just enjoying my retirement, Queen."(隠居生活を楽しんでるだけさ、クイーン)」
「"Retirement? With this much noise in the city?"(隠居? これだけ街が騒がしいのに?)」
ラピスが冷徹に告げる。
「"A new syndicate is rising. They call themselves 'The Shadows'. No names, no faces. Just like you."(新しいシンジケートが動いているわ。『シャドウズ』。名も顔もない、あなたと同じ連中よ)」
ジャックはケースを受け取り、中身を確認した。そこには、再び「折れた天使」の紋章を継承しようとする、新たな悪意の芽が記録されていた。
『……ジャック。聴こえるわ』
裏口の階段に腰掛けていたクレアが、光のない瞳をジャックに向けた。
『……新しい負債の音が。……でも、今回は以前とは違う。……あなたはもう、ヴァン・ドレンの罪を背負って戦うんじゃない。……この街の「明日」を守るために戦うのよ』
「"Debt is debt, Claire."(負債は負債だ、クレア)」
ジャックはケースを閉じ、空になったポケットを叩いた。
「"The bank is gone, but my credit is still good."(銀行は消えたが、俺の信用はまだ生きてるらしい)」
彼はリュックサックから、丁寧に磨き上げられた「黒いヘルメット」を取り出した。
それはかつての資産が生んだ鎧ではなく、友人が無償で直してくれた「絆」の鎧。
「"Ready, Sister?"(準備はいいか、シスター)」
「"Always... Brother."(いつでも、お兄様)」
学生カバンを放り投げたシスターの瞳に、不敵な輝きが戻る。
再建されたセント・ミリオネア中央銀行、その地下大金庫。
かつてジャックが数千億の資産を預けていたその場所は、今や「シャドウズ」と名乗る武装集団によって占拠されていた。
「"Open the vault! Every single coin!"(金庫を開けろ! 一セント残らずだ!)」
リーダー格の男が、震える銀行員たちの頭に銃口を突きつける。
監視カメラは全てハックされ、警備システムは沈黙している。通信を断絶し、恐怖で人々を支配する——それはかつて「ネクスト・ジェネシス」が使った手法そのものだった。
その時。
換気ダクトから、無骨な黒い影が音もなく舞い降りた。
KLANG!
着地と同時に放たれた衝撃波が、リーダーの手から銃を弾き飛ばす。
「"Who are you?!"(何者だ!?)」
そこに立っていたのは、マットブラックに塗装された、リベット剥き出しの無骨なヘルメットを被った男だった。
かつての黄金の装甲のような輝きはない。だが、その背中には、この一年で積み上げてきた「信頼」という名の重みが宿っていた。
三角形の頂点。
怯える銀行員たち(被害者)と、富を奪おうとする「シャドウズ」(加害者)、そして盾となる自分。
「"The bank doesn't own this money."(この銀行は、その金を所有しちゃいない)」
ジャックの声は、歪んだスピーカーを通じ、低く重厚に響いた。
「"The people who sweated for it do. And I'm here to make sure you don't take it."(汗水垂らして働いた人々が持ち主だ。……そして俺は、お前らにそれを渡さないためにここにいる)」
「"VENDYS?! No, he's dead!"(ヴェンディス!? いや、あいつは死んだはずだ!)」
「"Correct. VENDYS is dead."(正解だ。ヴェンディスは死んだ)」
ジャックは右拳のシリンダーをゆっくりと、手動で引き絞った。
「"But Jack is still here. And I'm very picky about my debt."(だがジャックはここにいる。……そして俺は、貸し借りにはうるさい性質なんだよ)」
『……ジャック、来るわ! 敵の「未来」が、情報の波となって押し寄せてくる!』
ヘルメットのレシーバーに届くのは、地上で「耳」を澄ませているクレアの声。
「"Copy that, Claire. Let's show them how a broke man fights."(了解だ、クレア。一文無しの戦い方を教えてやろう)」
ジャックは、一発の弾丸も撃たず、一人の命も奪わず、ただ「人々を守る」という純粋な意志だけで、新たな悪意の渦の中へと飛び込んだ。
金庫室の奥、リーダーの男は震える手で最後の起爆スイッチを掲げた。
その背後にある鏡張りの壁には、ボロボロの黒いヘルメットを被ったジャックの姿が映っている。
「……死ね、正体不明の化け物め! あんたさえいなけりゃ、俺たちは『新しい王』になれたんだ!」
「"Kings are overrated, friend."(王様なんてのは過大評価されてるもんさ、友よ)」
ジャックは、鏡に映る自分自身を真っ直ぐに見据えた。
かつてその鏡の向こうには、いつも父エドワードの厳しい視線や、黄金の資産に執着する傲慢な自分の影が見えていた。
だが今、そこに映っているのは、泥に汚れ、血を流し、それでも誰かのために拳を握る、ただの「ジャック」という名の男だった。
「"I don't need a legacy. I don't need a name."(遺産も、名前も、もういらない)」
ジャックは、一歩踏み出し、リーダーの喉元に右拳を寸止めした。
リパルサーの光はない。だが、その拳から放たれる圧倒的な威圧感――「不殺」を貫き通した者だけが持つ静かな強さが、男の戦意を完全に粉砕した。
「……なぜ……殺さない……。あんた、ヴァン・ドレンの亡霊なんだろ……?」
「"Van Doren is dead."(ヴァン・ドレンは死んだよ)」
ジャックは、リーダーの手からスイッチを優しく取り上げ、粉々に握り潰した。
「"I'm just a guy who's paying back the world. One cent at a time."(俺はただ、世界に借りを返してるだけの男だ。……一セントずつな)」
鏡の中の自分が、不敵に笑った。
父が望んだ「完璧な管理」でも、プライムが望んだ「静寂の秩序」でもない。
不完全で、貧しく、それでも自由な人間の意志。
ジャックは、ついに自分を縛っていた全ての「鏡」を、自らの内側から打ち砕いた。
『……ジャック。……聴こえるわ』
インカム越しに届くクレアの声。それは、因果の音を超えた、深い慈愛の響き。
『……あなたの「帳簿」が、今、完璧な円を描いた。……不殺の先にある、本当の自由……。あなたは今、誰よりも「豊か」よ』
「"Check the balance, Claire."(残高を確認してくれ、クレア)」
ジャックは、ヘルメットを脱ぎ、雨上がりの冷たい空気を吸い込んだ。
「"The debt is gone. And I'm still in the black."(負債は消えた。……そして俺の人生は、まだ黒字だぜ)」
事件は解決し、警察のサイレンが遠ざかっていく。
ジャックは銀行の裏口から、誰にも気づかれることなく夕闇に沈む街路へと滑り出した。
ヘルメットをリュックにしまい、ただの「ジャック」に戻った彼は、街角の並木道で待っていた二人の少女の元へ歩み寄る。
『……おかえりなさい、ジャック』
杖を突き、柔らかな風に髪をなびかせるクレアが、光のない瞳を正確に彼の方向へ向けた。
『……聴こえたわ。……最後の「不殺」の響き。……とても、綺麗だった』
「"A bit too loud for a quiet night, maybe."(静かな夜には、少々騒がしすぎたかもしれないがな)」
ジャックは苦笑し、彼女の肩を抱き寄せた。
「"Brother. I've calculated the profit from this 'mission'."(お兄様。今回の『ミッション』の収益を計算したわ)」
シスターが、古いスマートフォンを見せながら真面目な顔で言う。
「"Zero cents. But we gained three thank-yous and one smile from a kid."(ゼロ・セント。でも、三つの感謝と、子供からの笑顔を一つ手に入れた)」
「"Not a bad deal."(悪くない取引だ)」
ジャックは、ポケットから「最後の一セント」を取り出し、高く放り投げた。
夕日に照らされた銅貨が空中で黄金色に輝き、ジャックの手のひらに再び収まる。
富を失い、家名を失い、世界から忘れ去られた。
だが、彼の隣には魂を分かち合ったバディがおり、彼の背中には守るべき明日がある。
「"Jack, look..."(ジャック、見て……)」
クレアが、ふと空を指差した。
『……視えないけれど、感じるの。……この街の人たちが、もう「数字」や「名前」に怯えずに、自分の足で歩き始めているのを』
ジャックは、新しく再建された街の明かりを見つめた。
そこにはもう、ヴァン・ドレンの看板はない。だが、そこかしこの路地裏に、彼が蒔いた「不殺」という名の種が、静かに芽吹いているのを感じた。
「"The bank is gone. The credit is maxed out. And I'm just a nameless guy in a dirty jacket."(銀行はなくなり、限度額はいっぱい。俺は汚れたジャケットを着た名もなき男だ)」
ジャックは、クレアとシスターの手を引き、夜の帳が下りるスラムの賑わいの中へと歩き出した。
「"But as long as there's a debt to be paid... I'm still in the black."(だが、返すべき負債がある限り……俺の人生は、まだ黒字だぜ)」
闇の中へ消えていく三人の影。
その足取りは、かつて王座に座っていた頃よりもずっと軽く、力強かった。
[SYSTEM: FINAL SETTLEMENT COMPLETE]
[ACCOUNT STATUS: INFINITE ASSETS (KINDNESS)]
[LOGOUT... VENDYS]
——セント・ミリオネアの夜は更けていく。
誰も知らないヒーローの、新しい帳簿の1ページ目が、今、静かに開かれた。
【VENDYS: The Broke Billionaire - 完結】




