第18話:The Blind Fugitive
雨音さえも、今のジャックには聞こえなかった。
セント・ミリオネアのスラム、共同炊事場。
崩落した天井から降り注ぐ瓦礫の中で、ジャック・ヴァン・ドレンは泥の中に膝をついていた。
右脚の装甲は無残に砕け、FINAL UNITの内部モニターは「接続切断(NO SIGNAL)」の文字を空虚に点滅させている。
「……"Claire... Claire!"(……クレア……クレア!)」
彼は血にまみれた手で、彼女がいた場所の泥を掻き毟った。
だが、そこには彼女がいつも握りしめていた「白い杖」が、折れた翼のように転がっているだけだった。
予言者の少女は、情報の奈落へと消えた。
ジャックから「未来」を視る眼を奪い、彼をこの暗黒の街に一人、置き去りにして。
「……ハ、ハハ……」
乾いた笑いが、ジャックの口から漏れた。
資産を失い、家名を失い、そして今、唯一の魂の相棒さえも守れなかった。
不殺を貫くための代価は、ついに彼の「心」そのものにまで届こうとしていた。
「"Is this the limit of your 'Justice', Jack?"(これが君の『正義』の限界か、ジャック?)」
闇の向こう側で、シスターがゆっくりと立ち上がった。
彼女のステルス機能は依然として不全のままだが、その手に握られた漆黒の刃は、迷うことなくジャックの眉間を指している。
「"Your Oracle is gone. Your suit is a grave. Why do you still breathe?"(預言者は消えた。お前の鎧は墓場だ。なぜまだ息をしている?)」
ジャックは、折れた杖を拾い上げ、震える手でそれを強く握りしめた。
「"Because... I can still hear her."(……だって、まだあいつの声が聞こえるからな)」
ジャックは顔を上げた。
バイザーは完全に死に、視界の半分は血で塞がっている。
だが、その瞳の奥に宿るスチールブルーの輝きは、かつて億万長者だった頃のどの瞬間よりも、激しく、鋭く、研ぎ澄まされていた。
「"She didn't leave me a path. She left me a 'will'."(あいつが遺したのは道じゃない。『意志』だ)」
ジャックは、もはや動かない右脚を引きずりながら、立ち上がった。
五感を捨て、絶望さえも燃料に変えて。
盲目の逃走――いや、地獄への追撃が、今ここから始まる。
視界は漆黒。だが、今のジャックにはそれが必要なかった。
「"VENDYS... disable all visual sensors."(ヴェンディス……全視覚センサーを解除しろ)」
ジャックは割れたバイザーを自らの手で剥ぎ取った。
雨の冷たさ、風の向き、そして——シスターが移動する際に生じる、わずかな「空気の断絶」。
資産も予言も失った今、ジャック・ヴァン・ドレンに残されたのは、父エドワードさえも制御できなかった、狂気じみた「生存本能」だけだった。
「"I'm coming for you, Claire."(今行くぞ、クレア)」
一方、セント・ミリオネアの地下深く。
物理的な音を遮断された『ネクスト・ジェネシス』の調整槽の中で、クレア・ボヤンスは、暗闇の中で「響き」に集中していた。
『……聴こえる。……冷たい、真空のような静寂……』
彼女のすぐ隣には、ジャックに敗れ、帰還したサイレント・シスターが立っていた。
シスターは無言で、自身の傷ついた腕を機械的に修理している。だが、クレアの「因果の耳」は、彼女の体内から漏れ出す、悲鳴のようなノイズを捉えていた。
『……あなた、泣いているのね。……シスター。……あなたも私と同じ……「第零区」で、名前を奪われた子供の一人だったんだわ』
「"Silence."(黙れ)」
シスターの声が、冷たく響く。
「"I have no name. I have no past. I am the silence that serves the Genesis."(私に名はない。過去もない。私はジェネシスに仕える沈黙)」
『……いいえ。……聴こえるわ。……あなたの心の奥底で、ジャックが放った「音」が、まだ消えずに反響している。……あなたは彼を殺せなかった。……「不殺」という名の響きが、あなたの虚無を埋めてしまったから』
シスターの手が、一瞬だけ止まった。
その隙を突くように、地下施設の隔壁が、外側からの凄まじい衝撃で歪んだ。
KABOOM!
計器もセンサーも頼らず、ただ「クレアの気配」だけを辿って、黒い鉄塊が壁を突き破ってきた。
そこには、もはやヒーローの面影はない。
泥と血にまみれ、剥き出しの回路を火花散らせながら、獣のような執念で獲物を追ってきたジャック・ヴァン・ドレンの姿があった。
「"The bank is closed, Sister."(銀行は閉店だ、シスター)」
ジャックは、見えない瞳を真っ直ぐに彼女へと向けた。
「"I'm here to settle the debt... in person."(直接、負債を清算しに来たぞ)」
地下施設の最深部。
水銀灯が明滅する通路で、ジャックとシスターは数メートルを隔てて対峙した。
ジャックは、もはや死んでいる視覚センサーを頼りにしない。
彼は深く腰を落とし、コンクリートを流れる振動と、シスターが「存在を消そうとする際に出る逆位相のノイズ」に神経を尖らせた。
「"Come on, ghost. No eyes, no lies."(来いよ、亡霊。目がなきゃ、嘘も通じないだろ)」
SHERE!
シスターの姿が掻き消えた。
直後、ジャックの右斜め後方から、真空の刃が首筋を狙って放たれる。
ジャックはそれを「視る」のではなく、空気の僅かな「温度変化」で察知した。
KLANG!
ジャックは半身を翻し、MARK-IVのボロボロの左手首で刃を受け止めた。
火花が散り、剥き出しのジャックの肌を鋭い衝撃が襲う。
「……ッ、捕まえた!」
ジャックは受け止めた刃を離さず、そのままシスターを抱き抱えるようにして壁へと突進した。
WHAM!
背中を壁に打ち付けたのはシスターだ。だが、彼女はすぐさま膝蹴りでジャックを突き放し、天井へと跳躍する。
三角形の頂点。
調整槽に囚われた「クレア(被害者)」と、重力を無視して舞う「シスター(加害者)」、そして地べたを這う「自分」。
『……ジャック、真上よ! 「沈黙」が降りてくる!』
クレアの声が、施設のスピーカーから響いた。彼女は自身の意識を施設の制御システムにハックし、ジャックの「耳」になろうとしていた。
「"VENDYS, Overdrive the Heartbeat!"(ヴェンディス、鼓動を加速させろ!)」
ジャックは、自身の心臓に過負荷をかけ、アーマーの油圧シリンダーを無理やり限界まで引き絞った。
ドォォォン……!
着地と同時にシスターが放った衝撃波を、ジャックは自身の肉体を弾丸に変えて突き破る。
「"Why?!"(なぜ!?)」
シスターの叫びが空気を震わせる。
「"You can't see! You can't win! Why do you keep fighting for a broken girl?!"(見えないのに! 勝てるはずがないのに! なぜ壊れた少女のために戦うの!?)」
「"Because I'm broken too!"(俺も壊れているからだ!)」
ジャックは血の混じった唾を吐き捨て、シスターの喉元へと右拳を突き出した。
「"And broken pieces... they fit together!"(そして壊れた破片同士は……ぴったり噛み合うんだよ!)」
その拳がシスターを捉える直前、地下施設の奥から、ジャックの心臓を直接握りつぶすような「あの声」が響き渡った。
「"Stop, Jack. Do you really want to break what's left of your family?"(止まれ、ジャック。残り少ない家族を、本当にお前の手で壊したいのか?)」
地下施設の最深部から響く、重厚な合成音声。
ジャックの右拳が、シスターの喉元数センチで止まった。
奥の扉がゆっくりと開き、そこから這い出してきたのは、巨大な生命維持装置と一体化したディストピアの「肉体」――そのプロトタイプだった。
「……"Family...?"(……家族だと……?)」
「お前はクレアが偶然見つかった預言者だと思っているのか?」
ディストピアの残影が、ホログラムとなってシスターの隣に並ぶ。
「シスター、そしてクレア。彼女たちはアトラス計画が生んだ『双子』だ。……ジャック、お前の父エドワードは、お前を導くための『眼』と、お前を律するための『影』として、彼女たちを造り出したのだよ」
ジャックの脳裏に、強烈な耳鳴りが走る。
『……嘘よ。……そんなの、聴こえない……!』
調整槽の中でクレアが叫ぶ。だが、彼女の因果の耳は、ディストピアが突きつけた不吉な「響き」を拒絶しきれずにいた。
「シスターは、お前が『不殺』を破った時のための予備の執行官。そしてクレアは、お前が正義の道から外れないための重石。……ジャック、お前の人生に『偶然』など一つも存在しない。すべてはヴァン・ドレンの台本通りだ」
シスターが、ゆっくりとヘルメットを外した。
そこにあったのは、驚くほどクレアに似た、だが完全に感情を去勢された無機質な少女の顔だった。
「"We are... the same."(私たちは……同じ)」
シスターの唇が、震えることなく事実を告げる。
「"Born to serve the King. Born to die for the Heir."(王に仕えるために生まれ、後継者のために死ぬために生まれた)」
ジャックは、血に濡れた自分の手を見つめた。
不殺を貫くための自分の努力も、クレアとの絆も、すべては死んだ父が設計した「機能」の一部だったというのか。
「"You see, Jack? Your 'Will' is just a well-funded illusion."(分かるか、ジャック? お前の『意志』など、潤沢な資金で作られた幻想に過ぎない)」
ディストピアの笑い声が、地下施設の壁を震わせる。
ジャックのMARK-IVのバイザーに、致命的な「精神汚染」のアラートが走り、彼の正気を蝕み始めた。
「……"If I was designed... to be a hero..."(……もし俺が……ヒーローになるように設計されたのなら……)」
ジャックは、足元に落ちていたクレアの「折れた白い杖」を拾い上げた。
「"Then I'll start by breaking the designer's world."(なら、まずはその設計者の世界をブチ壊すことから始めてやる)」
「"Born to serve...? Don't make me laugh."(仕えるために生まれた……だと? 笑わせるな)」
ジャックの声は、デジタルの底から響く地鳴りのようだった。
彼の黒い装甲から、内部回路が焼き切れる凄まじい白煙が上がる。
「父さんは俺に最高の『眼』と『影』を用意したつもりだろうが……あいにく俺は、一人じゃ靴紐も結べないほど甘やかされた覚えはないんだよ!」
ジャックは、突き出していた拳をゆっくりと開き、そのままシスターの細い肩を引き寄せた。
SHERE!
シスターの反射的な「無音の刃」がジャックの胸部を貫く。
だが、ジャックは退かない。刃が背中に突き抜ける衝撃に耐えながら、彼はシスターを、そして調整槽から溢れ出したクレアを、その血濡れた両腕で強く抱きしめた。
「"You're not 'Protocols'. You're just two girls who deserve to see the morning sun."(お前たちは『プロトコル』じゃない。朝陽を見る権利がある、ただの女の子だ)」
「なっ……なぜだ! なぜシステムを、宿命を拒絶する!?」
ディストピアのホログラムが、ノイズを撒き散らして絶叫する。
「"Because I'm broke, Dystopia!"(俺が無一文だからだよ、ディストピア!)」
ジャックは血を吐きながら、最高に不敵な笑みを浮かべた。
「"I've got nothing to lose... except for these two!"(失うものなんて何もありゃしない。……こいつら二人以外はな!)」
その瞬間、ジャックの心臓から放たれた純粋な「意志の共鳴」が、シスターの洗脳チップを、そして施設の制御システムを内側から焼き切った。
KABOOM!
地下施設全体を激震が襲い、照明が次々と爆ぜる。
闇が戻る直前、ジャックは見た。シスターの、感情が死んでいたはずの瞳に、一筋の温かい涙が流れるのを。
だが、崩落する瓦礫の向こう側、施設の最深部から、さらなる「重厚な静寂」が迫っていた。
『……ジャック……聴こえる……。……「第零区」の底で……本物の亡霊が……目を覚ました……』
クレアの震える声。
シスターを救った代償として、ジャックのMARK-IVは完全に沈黙し、彼の意識もまた、深い闇へと沈もうとしていた。
「……"I'm not... finished yet..."(……まだ……終わっちゃいない……)」
王座を捨てた男の前に、ついに「ネクスト・ジェネシス」の真の支配者、そして父エドワードの「最後の遺産」が姿を現そうとしていた。




