第15話:The Price of the Soul
旧精神病院が背後で崩壊し、立ち込める塵埃がセント・ミリオネアの冷たい雨に溶けていく。
ジャック・ヴァン・ドレンは、片腕で意識を失った少女アイリスを抱き、もう片方の肩で視力を失ったクレアを支えながら、燃える廃墟から這い出した。
ヴェンディス・マークスリーの装甲はもはや鉄の残骸に過ぎず、剥き出しの関節からは黒いオイルが涙のように滴り落ちている。
「……ハァ、ハァ……"We made it... Claire..."(……やったぞ……クレア……)」
ジャックが安堵の息を吐こうとした瞬間、周囲の闇から無数のレーザーサイトが照射された。
赤、青、緑。
極彩色の死の照準が、ジャックの心臓と、彼が守る二人の少女の眉間に集中する。
「"Freeze. Not an inch, Mr. Van Doren."(動くな。一インチたりともだ、ヴァン・ドレン氏)」
雨のカーテンを割り、空からゆっくりと降下してきたのは、最新鋭の飛行外骨格を纏った『ネクスト・ジェネシス』の執行官たちだった。
その数は三十。
ボロボロのマークスリー、弾切れのリパルサー。そして、守るべき二人の人質。
不殺を貫くための「計算式」は、ここに来て完全な破綻を告げていた。
「"You've been a busy ghost, Jack."(忙しい亡霊だったな、ジャック)」
部隊の中央、漆黒のバイザーを上げた男が冷酷に告げる。
「だが、アイリス(ミストレス・マインド)の回収は完了だ。……そして、この街の不純物であるお前と、その『眼』の処刑もな」
『……ジャック……逃げて……』
クレアの震える指が、ジャックの濡れたシャツを掴む。
『……聴こえるわ。……銃口の奥で、引き金が引かれる「終わりの音」が……!』
「"Don't listen to that, Claire."(それを聴くな、クレア)」
ジャックは、アイリスを優しく地面に横たえ、クレアを自分の背後へと押しやった。
彼は、もはや機能しない右拳のピストンを、自らの筋肉だけで無理やり引き絞った。
「"I haven't paid my debt yet."(俺はまだ負債を払い終えちゃいない)」
ジャックは血の混じった雨を吐き捨て、絶望的な数の銃口を見据えた。
「"And I'm not letting you collect interest on my friends' lives!"(仲間の命で、利子を稼がせるつもりもない!)」
KABOOM!
ジャックの足元で爆辞が起こり、包囲網が火の海に包まれた。
だがそれは、敵の攻撃ではない。
ジャックが、マークスリーの残存バッテリーを自ら「自爆」させ、最後の煙幕を展開したのだ。
自爆させたバッテリーの白煙が、雨の夜を不気味に白く染め上げる。
視界ゼロ。敵の執行官たちが熱源探査を切り替えるまでの、わずか数秒の猶予。
「……"Claire, can you hear the path?"(……クレア、道が聴こえるか?)」
ジャックは、肩で息をしながらクレアの細い体を抱き上げた。
MARK-IIIの内部回路は焼け、HUDは完全に沈黙している。今のジャックは、暗闇に放り出されたただの盲目の戦士に過ぎない。
『……聴こえるわ。……ジャック、左よ。三歩進んで、十時の方向に跳んで!』
クレアの声は、もはやインカムからではなく、脳内の中心から直接響いていた。
彼女は銀色の瞳を閉じたまま、世界を構成する「因果の振動」を捉えていた。敵が引き金を引く予兆、弾丸が空気を切り裂く軌道、そして、瓦礫の崩れる微かな音。
『……今! "MOVE!"(動いて!)』
ジャックは迷わず地面を蹴った。
飛行ユニットはない。だが、クレアに導かれた彼の足は、目に見えない「安全な糸」を辿るように、降り注ぐレーザーサイトを紙一重で回避していく。
「"Incredible..."(信じられん……)」
『……驚かないで、ジャック。……私はもう「未来」に怯えてはいない。……あなたの鼓動が、私の予言を書き換える「リズム」になっているの……!』
二人の魂が、かつてないほど深く共鳴していた。
かつてはジャックが彼女を「守るべき対象」として扱っていた。だが今、二人は一人の人間として、欠けた部分を補い合う一つの生命体となっていた。
「"The bank was just a wall between us, Claire."(銀行口座なんて、俺たちの間の壁でしかなかったんだな、クレア)」
ジャックは、銃弾が背後でコンクリートを削る音を聞きながら、不敵に笑った。
「"Now that I'm broke, I can finally hear you clearly."(一文無しになって、ようやくお前の声がハッキリ聞こえるぜ)」
『……皮肉屋ね。……でも、出口はまだ遠いわ。……ネクスト・ジェネシスの「亡霊」たちが、前方の橋を封鎖した!』
ジャックの進む先、唯一の脱出路である跳ね橋の上に、再びサイレント・シスターが、実体化した「冷徹な殺意」となって立ち塞がった。
その隣には、重傷を負いながらも、アイリスの精神汚染をその身に宿したままの執行官たちが、銃口を揃えて待ち構えている。
「"Checkmate, Mr. Van Doren. Again."(チェックメイトですよ、ヴァン・ドレン氏。……何度目でしょうね)」
逃げ場のない橋の上。
不殺を貫くための「最後の代価」を、死神が要求していた。
跳ね橋の中央。土砂降りの雨が、ジャックの剥き出しの右腕を叩き、傷口を洗う。
前方には、気配すら消したサイレント・シスター。
後方には、執行官に操られ、虚ろな目で銃を構えるスラムの住民たちがいた。
三角形の頂点。
洗脳された仲間(被害者)と、無音の暗殺者(加害者)、そして選択を迫られる自分。
「"Silence... the noise."(雑音を……消せ)」
シスターの囁きと共に、見えない刃がジャックの心臓を狙って放たれる。
『……一時の方向! 刃の「因果」が空気を裂いているわ!』
クレアの声に合わせ、ジャックは自身の体を「盾」として投げ出した。
SHERE!
ジャックの脇腹を真空の刃が通り抜け、MARK-IIIの残存装甲を鮮血と共に削り取る。
「ガ、アアッ!」
「"Why do you still resist?"(なぜ抗うの?)」
シスターの影が、雨の中に溶け込むように揺らぐ。
「"Sacrifice the residents, and you can strike me. That is the logic of battle."(住民を犠牲にすれば、私を撃てる。それが戦闘の論理よ)」
「"I don't follow your logic, ghost."(お前の論理なんて知るか、亡霊)」
ジャックは、血に濡れた手で地面を掴み、強引に立ち上がった。
「"VENDYS, Overload the Resonator! Claire, give me everything!"(ヴェンディス、共鳴装置を過負荷させろ! クレア、すべてを俺に預けろ!)」
ジャックは、背中のクレアと脳波を限界までシンクロさせた。
不殺を貫くために、彼は「攻撃」を捨てた。
代わりに、MARK-IIIに残された全てのエネルギーを、クレアが聴き取った「因果の音」に変換し、橋全体へと放射する。
VREEE-!
高周波の共鳴波が、シスターが展開していた「無音の領域」を内側から爆破した。
同時に、銃を構えていた住民たちの脳内にあるミストレス・マインドの残滓が、クレアの放つ「救済の響き」によって中和されていく。
「……あ、俺たちは……何を……?」
銃を落とし、正気を取り戻す住民たち。
「"Now!"(今だ!)」
姿を現したシスターの隙を突き、ジャックは右拳のピストンを叩き込んだ。
だが、その狙いは彼女の心臓ではなく、彼女のスーツの核――「無音」を制御するエネルギー・レギュレーターだった。
KLANG!
衝撃が橋を揺らし、シスターの漆黒のスーツが火花を散らして沈黙する。
彼女は驚愕に瞳を見開き、そのまま力なく膝をついた。
「……殺さない、のか……。この私を……」
「"I'm a billionaire, remember?"(俺は大富豪だ、忘れたか?)」
ジャックは、崩れ落ちそうな体をクレアに支えられながら、不敵に笑った。
「"I can afford to be merciful."(慈悲をかけるくらいの余裕はあるんだよ)」
跳ね橋の上に、静寂が戻った。
無音の力を失い、ただの漆黒の装甲を纏った女として膝をつくサイレント・シスター。その喉元に、ジャックは震える拳を向けたまま、静かに息を吐いた。
「……"Where is the Next Genesis?"(……ネクスト・ジェネシスは、どこにいる)」
「"They are everywhere... and nowhere."(彼らはどこにでもいて、どこにもいない)」
シスターのバイザーが剥がれ、感情の欠落した若い女の横顔が露わになる。
「"The Mind was just an experiment. To see if 'human connection' could be weaponized."(マインドはただの実験だった。……『人間の絆』が兵器になり得るかを試すためのね)」
ジャックの背中で、クレアが小さく喘いだ。
彼女の銀色の瞳は、依然として光を失ったままだが、その指先はシスターの胸元に刻まれた「折れた天使」の紋章をなぞっていた。
『……聴こえるわ。……この紋章の裏側で、巨大な「時計」が時を刻んでいる……。……ジャック、マインドが見せていた楽園は、ただの「麻酔」だったのよ……。……彼らの本当の計画は、セント・ミリオネアそのものを……』
その時、シスターのスーツから、強制自爆を告げる電子音が漏れた。
BEEP, BEEP, BEEP!
「"Go. Before the 'Silent' becomes 'Eternal'."(行きなさい。……『沈黙』が『永遠』に変わる前に)」
シスターはジャックを突き放し、自ら跳ね橋の欄干を越えて、暗い海へと身を投げた。
直後、海面が白く爆ぜ、激しい衝撃波が橋を揺らした。
「……"Dammit!"(……くそっ!)」
ジャックは、意識を失ったままのアイリス(ミストレス・マインド)を住民たちの手に預け、クレアを強く抱きしめた。
ミストレス・マインドの脅威は去った。だが、その背後にいた「亡霊」たちは、より深く、より巨大な影となって、セント・ミリオネアの心臓部へと侵食を続けている。
「"Is it over, Claire?"(……終わったのか、クレア)」
『……いいえ。……本当の「迷宮」が、今、動き出したわ』
クレアが、ジャックの頬に手を添えた。
『……視えないけれど、聴こえるの。……あなたの父、エドワードが遺した「最後の遺言」が。……それは、この街の地下に眠る、さらに深い奈落への招待状よ』
ジャックは、手元の壊れたMARK-IIIのグローブを見つめた。
富を失い、家系の誇りを奪われ、今や唯一のバディさえも視力を失った。
不殺を貫くための代価は、彼の想像を遥かに超えていた。
「"Bring it on."(かかってこい)」
ジャックは、雨の夜空を睨みつけた。
「"The billionaire is dead. But the man named Jack... he's still got plenty of fights left in him."(大富豪は死んだ。だが、ジャックという男には……まだ戦う理由が山ほど残っている)」
嵐が去り、セント・ミリオネアの空に白々と夜明けの光が差し込み始めた。
だが、その光はかつての黄金色の輝きではなく、すべてを剥き出しにする冷酷な灰色だった。
ジャックは、スラムの住民たちが急造した隠れ家の一室で、包帯に巻かれた自分の右拳を見つめていた。
MARK-IIIは完全に大破し、ガレージの隅で沈黙している。予備のパーツも、修理するための資金も、もう一セントも残っていない。
「……"Status, Claire?"(……状況はどうだ、クレア)」
窓際で、白い杖を手にしたクレアが静かに振り返った。
彼女の瞳は依然として濁ったままだが、その立ち姿には、以前のような儚さはなかった。
『……街の洗脳は解けたわ。アイリス……ミストレス・マインドは、マドンナたちが秘密の療養所に隠してくれた。……でも、ジャック。ネクスト・ジェネシスの動きは止まっていない。……彼らは今、セント・ミリオネア全域のネットワークを「物理的に」切断し始めているわ』
「"Cutting the nerves, huh?"(神経を切りに来たか)」
ジャックは立ち上がり、黒いレザージャケットを羽織った。
「街を孤立させ、自分たちだけのルールで再構築するつもりだな。……親父が夢見た、完璧な管理社会として」
『……視えないけれど、聴こえる。……あなたがこれから向かう場所は、この街で最も深く、最も暗い場所……「第零区」のさらに底よ』
クレアが歩み寄り、ジャックのボロボロの手に、自分の手を重ねた。
『……私の「瞳」はもう戻らないかもしれない。……でも、私はあなたの「眼」であり続ける。……因果の響きを聴き、あなたの拳を導くわ。……それが、私の選んだ「代価」よ』
「"And I'll be your 'shield' and 'limbs', Claire."(そして俺がお前の「盾」であり「手足」だ、クレア)」
ジャックは彼女の手を強く握りしめた。
「"The bank is gone. The name is gone. But we're finally rich in what matters."(銀行も名前もなくなった。だが、ようやく本当に大切なもので満たされた気分だ)」
その時、部屋の古いラジオが、激しいノイズと共に一通の音声を拾った。
それはディストピアの電子声でも、ミストレス・マインドの歌でもなかった。
ジャックの心臓を凍りつかせるような、厳格で、しかしどこか懐かしい「父の声」だった。
『……ジャック。ここまで辿り着いたか。……不殺を貫き、孤独を受け入れ、それでも誰かを救おうとするお前の姿は……まさしく私の「最高傑作」だ。……さあ、最後の契約をしよう。……第零区の最深部、お前の「ルーツ」がお前を待っている』
「……"Old man..."(……親父……)」
ジャックは、マドンナが最後に遺してくれた、未完成の「黒いヘルメット」を手に取った。
塗装もされていない、剥き出しの炭素鋼。
[SYSTEM: BOOTING... VENDYS FINAL UNIT]
[PROTOCOL: THE LAST JUSTICE]
バイザーの中に、かつてないほど鋭いスチールブルーの光が宿る。
「"Let's go, Claire. It's time to close the account."(行こう、クレア。……清算の時間だ)」
王座を追われたセレブヒーローと、光を失った預言者の少女。
二人の影が、セント・ミリオネアの長い影の中に消えていく。
真実の迷宮、その最下層。
すべての謎が解け、すべての負債が支払われる最終章が、幕を開けようとしていた。




