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VENDYS:破産した億万長者が、不殺を誓って摩天楼を駆ける――救った命の数だけ、俺の誇りは積み上がる――  作者: 寝不足魔王


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第14話:The Labyrinth of Mind

 セント・ミリオネアの北端。霧に包まれた丘の上にそびえ立つ「セント・ジュード旧精神病院」。

 かつて父エドワードが秘密裏にアトラス計画の初期実験を行っていたとされるその廃墟は、今やミストレス・マインドの巨大な「脳」そのものと化していた。


 ドォォォォン!


 錆びついた鉄門を、黒い鉄塊が突き破った。

 ジャック・ヴァン・ドレンは、もはやMARK-IIIマークスリーの半分を失い、剥き出しの右腕を包帯で固めた姿で、その地獄へと足を踏み入れた。


「"Welcome to your own mind, Jack."(あなた自身の精神へようこそ、ジャック)」


 建物のスピーカーから流れるミストレス・マインドの声は、もはや音ではなく、ジャックの神経を直接弾く震えとなって響く。

 

 一歩、足を踏み出した瞬間。

 ジャックの視界は、前後左右を失った。

 天井が床になり、廊下が螺旋状にねじれ、壁からは死んだはずの人間たちの手が生え出して彼を招いている。


「……"Sensory overload... focus...!"(感覚過負荷だ……集中しろ……!)」


 ジャックは吐き気を堪え、壁に手をついた。

 だが、その壁はジャックの手に触れた瞬間、温かい人間の皮膚のような質感に変わり、悲鳴を上げた。


『ジャック、だめよ……! ここは現実の物理法則が、マインドの「悪意」に上書きされている!』

 背負われたクレアの声が、頭蓋骨の内部から直接響く。

『彼女はタワーの残存電力をすべて使い、あなたの脳が見る「世界」を完全に作り替えているわ。……ここで死ねば、あなたの脳は「死んだ」と思い込み、現実の体も停止する!』


「"Then I'll just have to refuse to die."(なら、死ぬのを拒否するだけだ)」


 ジャックは震える手で、マドンナが遺した唯一の武器――高圧ピストン・グラブを握りしめた。


 その時、廊下の突き当たりから、無音の風が吹いた。

 サイレント・シスターが、壁の模様と一体化するように現れる。

 彼女の姿は、迷宮の歪みに合わせて四肢が異常に長く伸び、巨大な蜘蛛のような怪物としてジャックの目に投影されていた。


「"In this world, I am the silence, and you are the scream."(この世界では、私が沈黙、あなたはその悲鳴よ)」


 SHERE!


 真空の刃が、重力を無視した軌道でジャックの首元へと迫る。

 

 王座を捨てたヒーローは、自らの正気マインドを武器に、底なしの悪夢へと沈んでいった。


 歪んだ廊下が無限に続き、ジャックの歩みは重い泥の中を行くようだった。

 壁に掛けられた肖像画の目が一斉に動き、彼の「かつての贅沢な生活」を嘲笑う。


「……"VENDYS, System Status..."(ヴェンディス、システム状況を……)」

『エラー……現実性リアリティを……計測不能……』


 頼みの綱であるMARK-IIIマークスリーのOSさえ、マインドの幻覚にハックされ、デタラメな数値を吐き出し続けている。


『……ジャック……私の手を……握って……』

 背中で息を切らすクレアが、細い指でジャックの肩を掴んだ。

『……視覚を……「見る」ことを捨てて。……ミストレス・マインドはあなたの網膜を支配しているけれど、あなたの「魂」までは届いていない……』


「"Easy for you to say, Claire... you're already in the dark."(言うのは簡単だがな、クレア。……お前は最初から暗闇の中だ)」


『……そうよ。……だから、私があなたの「羅針盤」になるわ。……聴こえる。……この迷宮の奥底で、一人の少女が泣き叫んでいる音が。……それが、ミストレス・マインドの「核」よ』


 クレアが放つ精神の共鳴が、ジャックの脳内に広がるノイズを打ち消し、一瞬だけ現実の輪郭を浮き彫りにする。

 

 豪華な絨毯に見えていたものは、埃まみれの冷たいコンクリート。

 死者の手に見えていたものは、剥き出しの電気配線。

 

「……"Found her."(見つけたぞ)」

 ジャックは血の混じった唾を吐き捨て、クレアの言葉に従って「因果の音」が最も激しく鳴り響く方向へと足を進めた。


『……彼女の正体が分かったわ。……彼女はディストピアの仲間じゃない。……十年前、あなたの父が「アトラス計画」の失敗を隠蔽するために、地下施設の爆発で切り捨てた被験者たちの、唯一の生き残り……。……彼女は、自分が受けた「孤独」を、街全体に味合わせようとしているのよ』


「"Legacy of hate..."(憎しみの遺産か)」

 ジャックは、軋む右拳を強く握りしめた。

「"My father created her. And I'm the one who has to face her."(親父が彼女を産み出し、俺が彼女と向き合う。……因縁だな、マインド)」


 その時、前方の空間が歪み、巨大な口を開けた。

 そこから現れたのは、サイレント・シスター。

 だがその姿は、ジャックの父エドワードの顔をした、巨大な「断頭台ギロチン」へと変貌していた。


「"Give me your soul, Jack."(魂を差し出しなさい、ジャック)」


 精神の迷宮は、最終段階ファイナル・フェーズへと突入した。


 視界が真っ赤なノイズに染まり、床が牙を剥く。

 

 ジャックの目の前に立ち塞がるのは、父エドワードの顔を持った、身の丈三メートルを超える鋼鉄の死神――サイレント・シスターだ。彼女の右腕は巨大な断頭台の刃と化し、左手には精神を汚染されたマドンナの幻影を吊り下げている。


「"Kill her, or I'll kill you."(彼女を殺せ、さもなくばお前を殺す)」

 父の声で囁くシスター。


 三角形の頂点。

 囚われたマドンナ(被害者)と、父の姿をした死神(加害者)、そして選択を迫られる自分。


「"VENDYS, Shutdown the vision! I don't need my eyes!"(ヴェンディス、視覚を遮断しろ! 目は必要ない!)」


 ジャックは自らバイザーの電源を落とし、完全な暗闇へと沈んだ。

 物理的な攻撃は通用しない。ならば、クレアが指し示す「因果の音」だけを頼りに動く。


『……三時の方角! 死の刃が空気を裂いているわ!』


 SHERE!


 ジャックは重力を無視して横へ跳んだ。

 MARK-IIIマークスリーの関節が悲鳴を上げ、剥き出しの右腕を刃が掠めて血が舞う。だが、彼は止まらない。


「"I'm not picking either, Old Man!"(どちらも選ばないぞ、親父!)」


 ジャックは闇の中を突進し、マドンナの幻影を抱きかかえて後方へ投げ飛ばした。

 同時に、右拳の高圧ピストンを床へと叩きつける。

 

 WHAM!


 衝撃波が迷宮の「壁」を揺らし、幻覚の構築を一時的に乱す。

 ジャックは立ち上がり、姿なき死神に向かって吼えた。


「"You are not my father! You're just a echo of my guilt!"(お前は親父じゃない! 俺の罪悪感の反響に過ぎないんだ!)」


 暗闇の中で、サイレント・シスターの「無音」が揺らいだ。

 ジャックが恐怖を捨て、自分の意志で「不殺」を選び取った瞬間、マインドの世界に亀裂が走り始めた。


「"IMPOSSIBLE!"(あり得ない!)」

 

 上空からミストレス・マインドの悲鳴が轟く。

 迷宮が崩れ、剥き出しのコンクリートの壁が姿を現した。

 だが、マインドの最後の一手が、ジャックの心臓を狙って放たれる。


 歪んでいた現実が、硝子が砕けるような音と共に剥落していく。

 現れたのは、旧精神病院の最深部――巨大な培養槽と古びたサーバーに囲まれた、冷たく狭い一室だった。


「……"Is this the end of your show, Mind?"(……これでお前のショーも終わりか、マインド)」


 ジャックは膝をつき、激しい吐き気を堪えながら顔を上げた。

 そこには、ドレスを纏った極彩色の幻影ではなく、無数のチューブに繋がれ、車椅子に座った一人の痩せ細った少女がいた。彼女の瞳は濁った紫色に沈み、その全身からは絶え間なく微弱な電火花が漏れ出している。


「"Don't look at me...!"(私を見ないで……!)」


 ミストレス・マインド――本名、アイリス。

 彼女が叫ぶと同時に、背後に控えていたサイレント・シスターが実体となって現れた。もはや父の姿ではない。ただの、機能を研ぎ澄まされた殺人機械マシンとして。


「"She is my only friend. My only voice."(彼女だけが私の友達。私の唯一の声なのよ)」

 アイリスの震える声が、スピーカーを介さずともジャックの脳に直接響く。

「"Your father took my family, my body, and my 'real' world. I just wanted to give everyone a dream where they don't have to suffer!"(あなたの父親は私の家族も、体も、現実も奪った。私はただ、誰も苦しまなくていい夢をみんなに見せたかっただけなのに!)」


「"A dream that kills them, Iris."(その夢は、みんなを殺しているんだぞ、アイリス)」


 ジャックはボロボロのMARK-IIIマークスリーを軋ませ、一歩踏み出した。

 センサーが、彼女を維持している生命維持装置ライフサポートの限界を告げている。彼女が街を汚染し続けるエネルギーは、彼女自身の命を燃料にしていた。


「"Dystopia told me... that you're just like me."(ディストピアは言っていたわ……あんたも私と同じだって)」

 アイリスの瞳から、紫色の涙が零れる。

「"A ghost of Van Doren, haunting a city that doesn't want us."(私たちを拒む街を彷徨う、ヴァン・ドレンの亡霊。……ねえ、ジャック。一緒に終わらせましょう? すべてを、この美しい悪夢の中で)」


『……だめよ、ジャック……彼女に心を預けないで!』

 背中で意識を繋ぎ止めているクレアの声。

『……彼女の孤独は、底がないわ。……あなたが優しさを見せれば、その瞬間にあなたの精神も飲み込まれる!』


 ジャックは、サイレント・シスターが構える漆黒の刃を見つめた。

 不殺。

 目の前の、死を望んでいる少女。彼女を救うことは、彼女が築き上げた偽りの楽園を破壊し、残酷な現実に引き戻すこと。

 それは彼女にとって、死よりも辛い「救済」かもしれない。


「"I'm not a ghost, Iris."(俺は亡霊じゃない、アイリス)」

 ジャックは、血に濡れた右拳をゆっくりと解いた。

「"And I'm not letting you die as one."(そして、お前を亡霊として死なせはしない)」


「"Liar! You just want to feel like a hero!"(嘘つき! あなたはただ、ヒーローの気分を味わいたいだけよ!)」


 アイリスの叫びが物理的な衝撃波となって、旧精神病院の最深部を震わせた。

 彼女の脳に直結された巨大なサーバーが異常加熱し、冷却水が蒸発してホールを白い霧で満たしていく。


 その霧の中から、サイレント・シスターが弾丸のごとき速度で突進した。

 

 SHERE!


 ジャックは、MARK-IIIマークスリーの残存エネルギーをすべて右腕の高圧ピストンに注ぎ込んだ。

 だが、彼はシスターを打たなかった。

 

 KLANG!


 あえてシスターの刃を左肩の装甲で受け止め、肉を裂かれる激痛に耐えながら、ジャックはアイリスを包み込む「精神防壁サイキック・シールド」の核へと、右の掌を押し当てた。


「"VENDYS, Sensory Overload... REVERSE!"(ヴェンディス、感覚過負荷……反転!)」


 ジャックが放ったのは、攻撃ではない。

 彼がこれまで戦いの中で受けてきた「痛み」、失った「富」、そしてそれでも捨てなかった「明日への希望」。そのすべてを、純粋な電気信号としてアイリスの脳へと逆流させたのだ。


「ガ、アアアッ! ……な、なに……この、温かい……痛みは……」


 アイリスの視界に、作り物の楽園ではなく、現実の、だが力強く生きるセント・ミリオネアの人々の姿が流れ込む。

 スラムで笑い合う子供たち。泥にまみれてアーマーを直すマドンナ。そして、ジャックを支えるクレアの祈り。


「"This is the reality you wanted to erase, Iris."(これがお前が消そうとした現実だ、アイリス。……汚れていて、痛くて、でも……救う価値がある世界だ)」


 KABOOM!


 エネルギーの逆流に耐えきれず、アイリスを維持していたサーバーが次々と爆発を始めた。

 サイレント・シスターの姿が、ノイズと共に掻き消えていく。


『ジャック、脱出して! 施設全体が自壊を始めたわ!』

 インカム越しに叫ぶクレアの声。だが、ジャックは動かない。

 彼は、過負荷で命を散らそうとしているアイリスを、車椅子ごと抱き抱えた。


「"Nobody dies... NOT TODAY!"(誰も死なせない……今日という日はな!)」


 崩落する天井。激しく火を噴くサーバー群。

 ジャックは、意識を失った少女と、光を失った預言者をその腕に抱き、崩壊する迷宮の中を、一人の人間として、死地へと走り出した。


 だが、その出口の先に待ち受けていたのは、救助隊でも、安らぎでもなかった。

 

 雨の夜空から、音もなく降りてくる無数の「黒い翼」。

 ネクスト・ジェネシスの真の主力が、ジャックの最も弱った瞬間を逃さず、死の網を広げて待ち構えていた。


「"Checkmate, Mr. Van Doren."(チェックメイトですよ、ヴァン・ドレン氏)」


 広場に響く、冷徹な一言。

 ジャックのMARK-IIIは、最後の一滴のエネルギーを絞り出し、沈黙した。


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