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答え合わせ

『キーンコーンカーンコーン』

 始業か終業か、もう何回目かも分からない鐘の音に、俺はそっと本を閉じ空を見上げる。

 いつの間にか空には茜色が差していた。俺はそのまま視線を草木に覆われた道へと向ける。

「……今日も会えなかったか」

 ポロリと零れるように独り言が落ちる。

 裏庭で一人彼女を待つようになって今日で何日目だろう。何ページ本を読み進めても、何回鐘が鳴ろうとも、何度太陽が回ってこようとも、彼女は一向に姿を見せない。

 きっと忙しいのだろう。そういえば以前、ゼミに入ってすぐ論文をまとめなければいけないのだと彼女は嘆いていた。恐らく、図書館かどこかに篭って課題をこなしているのだろう。

 彼女の邪魔はしたくないので特に連絡はしていない。それに、もともと約束をして集まっていたわけでもないし、俺も彼女も気が向いたら足を運ぶくらいのスタンスなのだから、呼び出すのはなんだか無粋なような気がした。

 それでもこんなに長く彼女と会わない日が続くのは珍しい。俺は今日こそは、今日こそは、と淡い期待を抱きつつ「真白くん」と笑いかけてくれる彼女を待ってしまう。

「……これじゃあ貸す前に読み終わっちゃう、かな」

 前髪を押さえそう呟くと、再び鐘の音が鳴り響く。

 さて、今日もそろそろ帰ろうかな。俺は本を鞄にしまい裏庭を出る。

 慣れた歩みで青々しく萌える林の中を抜け、太陽の傾いた人気のない道を進む。そうして真っ直ぐ正門へ進んだ……はずだった。

 気がつくと俺は校舎の中を歩いていた。見覚えのある風景に道順。これはどこへ向かうルートだったか。そんなことを考えていると足は自然と、ある教室の前で立ち止まった。

 その教室のドアには「写真同好会」と書かれた紙が貼ってあった。

 ……あぁそうだ。ここは俺たちの部室だ。ここ数日一度も顔を出していなかったが、架凛と尚人は元気だろうか? もしかしてサークルには彼女も来ているだろうか? ……そういえば、俺はなぜ今まで部活に行かなかったのだろう?

 ここまで来たことだし声をかけていこう。そんな気持ちで俺はドアノブに手を伸ばす。けれど無意識に向かった足とは裏腹に、伸びた手は中へ入ることを拒むように空を切る。

 思ってもいなかった自分の行動に少し違和感を覚えたが、俺は気にせずもう一度ドアノブに手を伸ばし、今度こそ扉を開ける。

「…………お疲れ様」

『おつかれー』

『お疲れ』

 夕日の差し込む部屋の中、二人分の返事が返ってくる。それは窓際にもたれ何かを飲む尚人と、自席で雑誌を眺める架凛のものだった。やはり彼女はいないらしい。また約束の本を渡せず終いだ。

 俺は茜色の部屋に足を踏み入れドアを閉める。二人は最近、色葉に会っただろうか。学部の同じ架凛ならすれ違うくらいあったかもしれない。

 今週どこかで色葉に会った?

 そう架凛に訊ねようと俺はドアの前で口を開く。けれど、その言葉は音にならず口の中で消えていった。

 差し込む茜色に紛れ、雑誌を見る架凛の目元は赤く腫れていた。視線を移すと、尚人の目元も。

「……ぁ」

 その瞬間、俺は夢から覚める。いつの間にか、カーテンの隙間から見える空は白んでいた。床に横たわっていたせいで体がギシギシと痛む。起き上がると、手元には約束したあの本が落ちていた。

 あぁ、そうだ。彼女は、もう……。


『……色葉が、亡くなったって』

 あの晩、そう告げた架凛の声は震えていた。あまりにも突然で信じ難いその言葉に、俺はそのあとの電話の内容をあまり覚えていない。後日改めて聞いた話によると、俺と別れたあと、十九時過ぎに駅前を歩いていた色葉は、スマホを操作しながら運転していた車にはねられ、そのまま救急車で搬送されたがその途中で亡くなったらしい。

 俺は架凛の電話を切ったあと、朦朧とする頭で彼女に電話をかけた。悪い夢だと信じたかった。だって、たった数時間前まで一緒にいた。楽しそうに笑っていた。またねと言っていつものように手を振ってくれた。

 こんな時間になんだと怒った声でも、迷惑がる声でも何でもいい。ただ彼女の声が聞きたかった。彼女が生きていると信じたかった。

 けれどそんな思いに反して、電話は何度かけても一向に繋がることはなかった。そして、現実はすぐに突きつけられた。

 事故から六日後、ゴールデンウィークの初日に俺たちは彼女のお葬式に参列した。ほとんど放心状態の俺を架凛と尚人が連れて行ってくれた。

 彼女の地元まで電車で向かう道中、周りがこれから始まる休暇に嬉々としている中、俺たちは一言も喋らなかった。

 ようやく辿り着いた葬式場で受付を済ませ、ロビーの奥にある部屋へとゆっくり進む。すると、ずっと靄がかかっていた思考がはっきりとしてくる。ぼやけていた音がはっきりと耳に入ってくる。ただ目の前にあるものを映していた視界が、霞んでゆく。

 もう認めざるを得なかった。見ないようにしていた外の葬式看板の名前も、祭壇に大きく飾られた写真も、棺の中に眠る彼女も、間違いなく色葉だった。そして、いつも鮮やかに輝いていた桜は全てを散らし、俺の目に何色も映さない。それが彼女がもうここにはいないという一番の確証で、確かな真実だった。

 俺は崩れ落ち、ただ溢れ出る涙をそのまま落とす。

「……ごめんなさい」

「真白……」

「…………ごめんなさい」

 隣で尚人が俺の肩にそっと手を置く。

 あの日、俺が彼女を家まで送っていたら。

 あの日、俺と出かけていなかったら。

 ……俺がいなければ。

 意味がないと分かっていても、たらればばかりが何度も何度も、俺の頭をよぎる。


 彼女が亡くなって数日が経っても、欠けた心は何一つ濾過できず、けれど涙は静かに枯れていった。

 ゴールデンウィークが明けても俺は家に篭った。彼女がいなくとも平然と流れる景色を見ることができなかった。彼女を死なせてしまった自分が平然と学校に通い、彼女から奪った日常の上で息を吸うなんてできるわけがなかった……。

 後悔を抱く毎日。なんとなく彼女に貸すはずだった本を繰り返し読んだ。そんな日々の中、いつの間にか俺は色が見えなくなっていた。視界には自分の色はもちろん、それはまるで昔のモノクロ映画を見ているような、そんな世界だった。

 彼女の笑った声はどんなだったろう。

 彼女の笑顔はどんなだっただろう。

 彼女の色はどんなだっただろう。

 あんなに手を差し伸べてくれたのに、俺は次第に彼女のことを思い出せなくなっていた。

「……薄情だな」

 零した声は小さく、暗い部屋の中に溶けていった。



「ピンポーン」

「……ん」

 インターホンの音で目が覚める。またいつの間にか寝てしまっていたようで、気がつけばリビングのソファーに横たわっていた。まだぼうっとする頭で上半身を起こす。

「ピンポーン」

 再びインターホンが鳴り、俺はのそのそと立ち上がる。インターホンの画面を覗くと、俺は目を見開いた。そこには段ボールを抱えた尚人の姿が映っていた。

 急にどうしたのだろう。その段ボールはなんだろう。というより、なぜ尚人が俺の家を知っているのだろう……。そんなことを考えながらも指は勝手にインターホンの通話ボタンを押す。

「……はい」

『あ、真白? 急にごめんね、よかったら会って話したいんだけど、今大丈夫?」

「…………」

 俺は顔を下に向ける。見ると着ている服はヨレヨレで、きっと髪の毛もボサボサ。いや、それよりも今誰かと会話ができるだけの余裕は俺にはなかった。

「……今じゃなきゃ、ダメ?」

 そう言うと、画面越しに尚人が困ったように視線を落としたのが分かる。……そんな表情をさせたい訳じゃなかったが、なんと断っても彼を困らせてしまう事実は変わりない。

 俺は静かに尚人を覗く。すると、少し間を置いてから尚人は再びカメラに視線を戻した。

「突然押しかけて無理を言ってるのは分かってる。けど、どうしても今、真白と話したい」

 真っ直ぐと尚人はカメラを見つめる。その視線になんとなく、彼と目が合っているような、そんな気がした。

 俺は目を合わせたままもう一度考える。今は本当に人に会えるような状況じゃない。けれど優しい彼がここまで食い下がるということは、何か大事な用があるのかもしれない。

「……十分、待ってもらえる、かな」

「! もちろん! ありがとう、真白」

 尚人はふっと笑みを浮かべる。久しぶりに彼の笑顔を見た。

 俺はインターホンを切り、とりあえず洗面所へ向かう。顔を洗い、やはりボサボサな髪を軽く直し、適当な服に着替える。さっきよりは人に会える格好になったが、鏡に映った自分はあの日から変わらずひどい顔をしていた。

 そのあとリビングを軽く片付けちょうど十分が経った頃、俺は玄関へ向かい、ドアを開ける。

「……おまたせ」

「全然。無理言ってごめんね、お邪魔します」

 段ボール抱える尚人の代わりにドアを押さえ、閉める。

 その段ボールは一体なんなのだろう。不思議に思うが、とりあえず俺は尚人をリビングへ案内した。

「……ソファーに座ってて。今お茶淹れるから」

「ありがとう」

 尚人はソファーの脇に段ボールを置き、腰掛ける。俺はキッチンに入り、電気ケトルに水を入れセットした。

「ちゃんとご飯は食べてる?」

 ソファーに座る尚人はこちらを見ず、正面の窓の外を眺めながら訊ねる。

「……うん」

「ははっ、そっか。あんまり無理しない程度にね」

「…………」

 俺は軽く前髪を押さえ、尚人を視界から避けるように少し屈んで、引き出しに並んだ茶葉の中からダージリンの茶葉缶を取る。

「…………架凛は、どう?」

 食器棚からポットとカップを二つ取り出し、茶葉をスプーン二杯分ポットに入れる。

「元気だよ。まだ涙ぐんだり、ぼうっとしたりすることもあるけど、架凛なりに前に進んでる」

「……そっか」

 カチッと水が沸騰したことを知らせる音が鳴る。湯気の上がる電気ケトルを持ち上げてポットにお湯を注ぎ、そっと蓋をする。二分ほど蒸らしている間、尚人は一ヶ月前と変わらず他愛ない話をした。けれど、その話のほとんどは俺の頭に入ってこなかった。俺はただ話の切れ目切れ目に「うん」と頷き返した。

 カップに余ったお湯を注ぎ、数秒置いてシンクに流す。ポットとカップ、カップの下にはソーサーを敷き、それらをトレーに乗せてリビングへ移動してローテーブルの上に置く。カーペットの上に座りポットを持ち上げカップにお茶を注ぐと、湯気ととも香りが広がった。

「うん、いい香り。やっぱり真白の淹れ方がいいのかな。最近俺が部室でお茶を淹れてるんだけど、あんまり架凛の反応がよくなくてね。また真白の淹れたお茶が飲みたいって言ってたよ」

「…………そっ、か」

 尚人の話にぴたりと止まってしまっていた手を再び動かす。二回に分けてお茶を注ぎ、トレーからソーサーごと湯気の立つカップを尚人の前へ差し出す。

「ありがとう」

 尚人はソファーに座ったままカップに手を伸ばし、ふうふうと息を吹きかける。

「……ねぇ尚人」

「なに?」

 尚人は変わらず、カップに息を吹きかける。

「…………俺、サークルに残ってていいの、かな」

「え?」

 頃よく冷めただろうカップを口に運ぼうとした尚人は、口を付ける寸前のところでカップを止める。そしてそのまま、静かに俺を見つめた。その瞳には困惑と疑問が帯びている、気がした。

 俺は、膝の上で拳を握る。

「……あそこは、色葉が連れて行ってくれた場所だから。それを色葉がいないのに俺だけがのうのうと居座り続けるのは……」

 図々しい。彼女を死なせてしまった自分があの温かい場所に残っていいわけがない。色葉は、そう思わないだろうか。

「真白」

 尚人は少し強く、俺を呼ぶ。

「お葬式の時に架凛も言ってたけど、あの事故は誰がなんと言おうと真白のせいじゃない。真白が責任を感じることは、何もないんだよ」

 尚人の言葉に、俺はあの時の架凛の姿を思い出す。彼女の棺の前で何度も謝る俺を、架凛は目を真っ赤にしながら「真白のせいな訳ないじゃない!」と、叱咤した。そのあと泣き崩れた架凛に、俺は何も返すことができなかった。

 尚人は無言のまま、カタンとカップをソーサーに戻す。時間が止まってしまったかと思うほど静寂が落ちるが、秒針の音がかすかに聞こえるので時間は確かに流れているのだろう。

 そんな普遍的で不変的な沈黙を先に解いたのは、尚人だった。

「真白はさ、色葉と出会わなければよかったって思う?」

「……え」

 俺は耳を疑うような言葉に、いつの間にか下がっていた顔を上げ尚人を見る。尚人は、カップの中を見つめていた。

「今真白が苦しんでるのは色葉が原因でしょ。だったら色葉と出会わなければこうして辛い思いをすることなかったよね」

「ちが……!」

 否定の言葉は最後まで出なかった。尚人の言ったことは事実だったから。……けれど、

「色葉と出会わなきゃ、真白は今も静かに自分の生活を送ることができた」

「……ちがう」

「俺たちとも出会わず、振り回されることもなかった」

「ちがう」

「色葉と一緒にいたこの一年は、結果として真白を不幸にした」

「違う!」

 俺は自分の全てで尚人の言葉を否定する。

 上がった息を落ち着かせるよう、深く息を吸った。

「……確かに色葉と出会わなかったら今こんなに苦しい思いをしなかった。けど、色葉と、みんなと一緒に過ごした時間が不幸せだったなんて、そんなこと絶対にない。色葉と出会わなかったらなんて、昔も今も、一度だって思ったことない」

 もっと一緒にいたかった。ずっと笑っていてほしかった。後悔だけじゃない。もう彼女の笑顔を見ることができない、それがひどく寂しかったんだ。

 いつの間にか膝の上の拳は、手のひらに爪が食い込んでしまうほど強く握られていた。熱い目頭から枯れた涙が流れることは一向にない。

「……意地悪言ってごめんね。俺もそんなこと思ってないよ」

 張った糸を弛ませるように、尚人はいつもの、穏やかな口調で言った。

「これは俺の自論なんだけどね。これからの色葉を幸せにできるのは俺たち次第だと思うんだ」

「……え?」

 尚人の言葉に俺はふと顔を上げる。尚人は、優しく微笑んでいた。

「ここでずっと悲しみに押しつぶされたら、それこそ色葉は本当に俺たちを悲しませるために一緒にいたことになっちゃう。『そんなこと絶対にない』……だよね? だったら俺たちは前に進まなきゃ。俺たちが歩みを進めることで色葉は肯定される。……きっと、色葉の存在を一番に肯定できるのは真白だと、俺は思うよ」

 俺が一番、色葉を肯定できる……。それは一体どういうことだろう?

「尚人……」

 尚人に訊ねようと声をかける。けれど尚人はテーブルの上のカップに再び手を伸ばすと、ごくごくと一気にお茶を飲み干す。

「うん、いつも通り、真白のお茶は美味しいね」

 そう言って尚人は徐にあの段ボールを取り出し、俺の前に差し出した。

「……これは?」

「この箱を預かってた人から、真白に渡してほしいって頼まれたんだ。中身は俺も聞いてない」

 俺は目の前の段ボールを見つめる。百サイズくらいの大きさで、特に箱には何も書かれていない。口ぶり的に送り主が尚人でないことは分かるが、一体誰からだろう。

 とりあえず、俺は差し出された段ボール受け取る。尚人はそっと手を離し、安心したように笑った。

「じゃあ俺は帰るね、ごちそうさま真白」

 そう言うと尚人は立ち上がり、ソファーを回ってリビングの扉を開け出る。

 俺は少し出遅れて段ボールを抱えたまま尚人の後を追う。ドアを出て廊下の先の玄関を見ると、尚人は靴を履き、玄関のドアノブに手を掛け、こちらへ振り返る。

「そうだ。さっきのサークルのことだけど、真白は色葉の答えをちゃんと知ってると思うよ。じゃあまた、……部室でね」

「あ……」

 尚人はニコリと笑うと、ドアの向こうへと消えていった。

 ガチャリと扉が閉じたあとも、俺は誰もいなくなった玄関をただ眺めた。


 リビングへ戻ったあと、俺は段ボールをソファーに置き自分のお茶を飲み干してカップを片付ける。尚人は美味しいと言ってくれたが、中身はすっかり冷めているし味もぼんやりしていて、とても美味しいとは思えなかった。

 片付けを終えて、いつの間にか不明瞭になった外の様子に俺はカーテンを閉める。俺は段ボールを持って二階の自室へ向かい、電気を点け、折りたたみ式の小さなテーブルの上に段ボールを乗せる。テーブルの前に座りじっと箱を見つめると、改めてこの段ボールは一体なんなのだろうと疑問に思う。

 俺はそっとクロス組みになっている段ボールの上の部分を開ける。……すると、そこにはたくさんの手紙が入っていた。

 俺は驚き、目を見開く。手紙を一枚取り出してみると、そこには宛名も送り主の名前もなく、ただ日付らしき数字と小さな花のマークが描かれていた。その瞬間、誰からの手紙か分かってしまう。

「……いろは」

 まさか、という気持ちで俺は段ボールを床に置き、日付の順番にテーブルに並べる。マークが二つになった四月の日付は、恐らく今年のことをさしているのだろう。

 俺はずらりと並んだ手紙の中から、マークが一つの、一番日付の古い手紙を取り、開けてみる。


『六月五日

 今日から時々、諫早くんに選んでもらったこのお手紙に私の気持ちを綴ることにしました。いえーい! ふふ、我ながら唐突だよね。けど諫早くんとお手紙の話をしていたら、いてもたってもいられなくなっちゃって(笑)いつか諫早くんと仲良くなれて、お手紙交換をできるようになった時のためにも、たくさん書いていきます! それで、届いた手紙が諫早くんにとって素敵な思い出になるものになれたらいいな。(今は考えてないけど、もしかしたらこの手紙が諫早くんに届くこともあるのかな?)

 ここからが本編です(笑)

 今日は親睦会についてみんなで話し合ったあと、諫早くんと本屋さんへ行きました。(旅行の話、ちょっと強引だったかな? ごめんね。けど、絶対に楽しんでもらえるような旅行にするから、楽しみにしててね。)

 ねぇ諫早くん。本当は駅ビルの本屋さんに行くつもりだったんだよね? でも私の家が学校から南にあるって聞いたから、わざわざ商店街の本屋さんに行き先を変えてくれたんだよね。ありがとう。直接言った方がよかったのかもしれないけど、きっと諫早くんは優しいから「そんなことないよ」って言うと思ったし、私が勝手に諫早くんなりの優しさを大切にしたいと思ったから、あそこでは黙っていることにしました。でもちゃんと諫早くんの優しさは伝わってるよ。本当にありがとう。

 あぁ、今日は本当にいい日だったな。

(お手紙っていうより、なんだか日記っぽい?)』


 一つ目の手紙を読み終える。

 ……そうだ、確かにこの日、俺は彼女と本屋さんへ行き、彼女に頼まれ手紙を選んだ。

 この手紙をよく見ると小さな花たちが控えめにあしらわれている。彼女をイメージして、俺が選んだものだ。けど、まさか、自分に向けて手紙を書いていたなんて……。

 俺は便箋を封筒にしまい、読み終えた手紙をとりあえず床に置いて、次の手紙に手を伸ばす。


『六月十八日

 旅行から帰ってきました! 終わっちゃって寂しい気持ちなのに、旅行の余韻が強すぎてまだワクワクしちゃってる(笑)

 実は昨日、集合場所に諫早くんがいるのを見て、内心すごく安心しました。(来てくれるとは思ってたよ!)けど、あんまり顔色がよくなさそうだったね。きっと無理して来てくれたんだと思う。ありがとう。諫早くんは本当に優しいね。

 旅行はどうだった? 楽しんでもらえたかな? 私はすっごく楽しかったよ。ラフティングもバーベキューもトランプ大会も、全部全部楽しかった。トランプ大会では私たちのことを知ってもらえたかな。私はちゃんと覚えたよ、諫早くんのお誕生日も好きな食べ物もその他諸々! 架凛ちゃんも尚人くんもこっそり諫早くんのお誕生日をメモしてたから、諫早くんのお誕生日は三人でサプライズパーティーでも計画しようかな? 楽しみにしててね、絶対文化祭もクリスマスもここにいたい思ってもらえるような思い出をいっぱい作るから! ……』


 どうやらこの時から俺の誕生日のことを考えてくれていたらしい。あの頃は俺ですら正式に入部するなんて全く思わなかったのに。

 もしかしたら彼女はこうなることを知っていたのかな。……いや、違う、かな。きっと彼女は、あの三人は、俺の入部関係なしにあのパーティーを開いてくれたんだろうな。……三人は、そういう人たちだ。

 あの笑顔を見ていたら伝わってきたけど、すっごく楽しかったみたいでよかった。

 俺はあれから随分経ってようやく気づいたよ。……あの時、俺もすっごく楽しかったよ。

 読み終えた手紙をまた床に置いて、次の手紙に手を伸ばす。


『六月二十八日

 ここ数日諫早くんが自分から部室に来てくれてる! ただの雨宿りだってちゃんと分かってるけどそれでも嬉しい! このまま部室に来ることに抵抗がなくなってくれるといいな。

 そして本日、七夕祭りに行くことが決まりました! いえーい! とっても楽しみ!

 そういえばミーティングが終わったあと、諫早くん窓の外を見ていたね。諫早くんは隠してたみたいだけど、その視線からは「七夕の日、晴れないかな?」っていう気持ちが伝わってきたよ。……ふふ、もしかしたらそう思いたい私の願望だったのかな? もしそうでもそうでなくても、諫早くんも七夕祭りを楽しみにしてくれていたらいいな。……』


 ……楽しみにしてたよ。お祭りも、みんなでいけることも。


『七月七日

 放課後、みんなで七夕祭りに行って来ました! 楽しかったし、嬉しかった。

 あの時、たまたま諫早くんを見つけて近づいたら驚いちゃった。だって諫早くんが困った顔で男の子と見つめ合ってるんだもん(笑)←ごめんね、笑ってないよ。

 諫早くん、泣いていたニチカくんのことを放っておけなくて、頑張って声をかけたんだよね。それにニチカくんを励ましている姿、短冊が見つかった時の笑顔、誰かのために一生懸命な諫早くんを見ると、やっぱり諫早くんは諫早くんだなって思う。(伝われー!)

 実は諫早くんのお願いごと、書いている時見えちゃったんだ。ごめんね。とっても諫早くんらしい、素敵なお願いだね。だから、諫早くんが自分以外の人の幸せを願うならって、私が諫早くんの幸せを願いました! 叶うといいな……。』


『七月二十八日

 テスト期間ももう終盤だね。諫早くんの授業のレジュメ、もう全然なんて書いてあるのか分からない(笑)法学部の専門科目って本当に難しそう……。けど、前に聞かせてくれた裁判のこと、今でもちゃんと覚えてるよ。日本が裁判員制度でアメリカが陪審員制度なんだよね。諫早くんの教え方、とっても丁寧で分かりやすい! 諫早くんはそんなことないって言うかもしれけど、親身になってお話聞いてくれるところとか、説明が上手なところとか、諫早くんは先生に向いてると思う!

 さ、あともう少し、お互い頑張ろう! それにもうすぐ待ちに待った夏休みだから!

 ……夏休みの間も、諫早くん来てくれるかな? 特に何をするわけでもないけど、来てくれたら嬉しい。それくらい、諫早くんにとって部室が気安い場所になってくれていたらいいな……。』


『八月九日

 尚人くんから聞いたけど、ここ数日諫早くんが一番に来て部室の鍵を開けてくれているらしいね。……もしかして、鍵係になってほしいと思って私が鍵を受け取らなかったと思ってるのかな?

 そんなことないよ! いや、確かに諫早くんがこのまま鍵を持っていてくれたら部室に来てくれるかなとか、そんな淡い期待は少し持っていたけど……。

 諫早くん。諫早くんが来たいと思ってくれた時にドアを開けてくれたらいいんだからね。扉を開けて諫早くんがいてくれるのはとっても嬉しいけど、諫早くんが来るのを部室で待ってるのも私は楽しいよ。……』


『八月十六日

 諫早くん、傘貸してくれてありがとうね。おかげで遅れることも、雨に濡れることもなく無事帰ることができました。

 お母さんのお誕生日会、大成功だったよ。今日のことをお母さんに話したら「ぜひ遊びに来てね」だって。今度架凛ちゃんと尚人くんも誘って四人で私の実家に遊びに来てもらおうかな(笑)?

 本当にありがとう。花火大会、いっぱい楽しもうね!』


『八月二十五日

 全然諫早くんからの返信がない。体調大丈夫かな。諫早くんが朝から顔色が悪いことに気づいてたのに、あそこまで無理させちゃってごめんなさい。

 実はあの日、諫早くんが私に貸してくれた折り畳み傘しか持っていなかったこと、知ってるの。諫早くんが来る前に架凛ちゃんに傘のことを話して、その時諫早くんが部室に戻ってなかった聞いて……。

 あの風邪、私のせいだよね。私、諫早くんに迷惑ばかりかけちゃってる。……って、私がこんなこと思っちゃダメだよね。諫早くんは私のために黙っていてくれたんだもん。だからやっぱりごめんねじゃなくて、ありがとうって言うね。ありがとう、諫早くん。

 あと、これは直接諫早くんに言うけど、でもここでも言わせて。花火が見れなかったこと、諫早くんは何も悪くないからね。絶対に諫早くんは何も責任を感じないでね。諫早くんの感じるその責任は気のせいです!

 だからまた、いつでも部室に遊びに来てね。』


 十一枚目の手紙を読み終え、俺は息を呑む。無性に、喉の奥がひりつく。

 彼女は、知っていたんだ。互いに互いを思って、黙っていた。

 ……うん、色葉のせいじゃないよ。ありがとうって言ってくれてありがとう。


『九月六日

 約束の日。返信がなくて心配だったけど、諫早くんはちゃんと来てくれた。別にケンカをしていたわけじゃないけど、諫早くんと仲直りができて本当によかった。それに、私たちと出会ったことを諫早くんが嬉しいことだと思ってくれていたことが、私はとても嬉しい。

 さぁ、明日は久しぶりの四人での活動! 絶対みんなで楽しもうね!』


『九月七日

 今日は本当に楽しい一日だったね。架凛ちゃんが見つけてくれたお店の料理美味しかったね。もう諫早くん、ちゃんと毎日食べなきゃダメだよ!

 風鈴作りは難しかったけど楽しかったね。みんなとっても上手だった! ←もちろん、私もの含んでいいよね(笑)?

 そうだ。ねぇ諫早くん、工房に向かう途中の電車でのこと覚えてる? あの時諫早くんが「四つも一つの部屋に飾るの?」って言ったこと、私たちすごく嬉しかったんだよ。あの言葉、諫早くんは気づいてなかったみたいだけど、まだ私たちと一緒にいたいって言ってるようなものだよね(笑)? それで線香花火勝負の時。あのタイミングであの言葉はずるいよ! そんなの私たち全員負けちゃうに決まってる! ……けど、本当に、本当に嬉しかったから、許してあげます(笑)

 今日は来てくれてありがとう。私の話を聞いてくれてありがとう。一緒に花火をしてくれてありがとう。写真同好会に入部してくれて、本当にありがとう。』


 俺こそ、連れて行ってくれてありがとう。話を聞かせてくれてありがとう。花火を好きにさせてくれてありがとう。……写真同好会に入れてくれて、本当にありがとう。


『九月二十日

 尚人くんが突然ティーポットを持って来てびっくりしたね! あと、諫早くんがお茶を淹れるのが上手だったことにも驚き! もう、そんな特技があったら教えてよー。……』


『十一月十二日

 ついに文化祭が終わったね。お疲れさま! 諫早くんはどうだった? 楽しかった? もちろん、私はすごく楽しかった。だけど、諫早くんと一緒に回れなかったことがちょっと残念かな……。来年は絶対一緒に回ろうね! 

 実はずっと前から諫早くんの正式入部のお祝いをいつやろうか、架凛ちゃんと尚人くんと考えてたんだ。それで文化祭が終わったあとにやろうっていうことで、休憩時間のちょっとの間、部室を開けて飾り付けをしてたの。あ、ちゃんと文化祭は楽しんでたから心配しないでね!

 文化祭中もワクワクだったけど、終わったあとも諫早くんがどんな反応をするかみんなでワクワクでした(笑)

 歓迎会、諫早くんが喜んでくれて本当によかった。改めて入部ありがとう、諫早くん!』


『十二月二十三日

 今日のお手紙(日記)の内容はクリスマスパーティについていっぱい書こうと思ってたんだけど、やっぱり最初に書くなら裏庭でのお話かな。

 カップのことは諫早くんが紙コップを使ってる姿を見るたび考えてたの。諫早くんも写真同好会の一員なのにずっと紙コップは、見ていてなんか寂しいじゃない? 架凛ちゃんと尚人くんも賛成してくれたし、今度みんなで買いに行こうね。もちろん、それぞれ諫早くんが話してくれたカラーに合わせて。

 ……実は私、諫早くんには本当に話してくれた色が見えているんじゃないかって思ってます。だって、諫早くんは私たちや周りの人のことをよく見ている、心の綺麗な人だから。きっと諫早くんの目には、私たちが見ている世界よりもさらに綺麗な世界が映っているんだと思う。……あ、何言ってるんだって思ってる? ふふ、私は真面目に言ってますよー(笑)

 桜色か……。私、桜がお花の中で一番好きだから嬉しいな! それに何かと桜には幸せを運んでもらってるから(笑)

 諫早くん……ううん、真白くん、教えてくれてありがとう。

 クリスマスパーティーは……』


『三月十四日

 真白くん、ホワイトデーのお返しありがとう! とっても美味しくて、楽しいティーパーティーだったね!

 尚人くんと二人で行ったんだってね? いいなぁー。今度私とも是非お出かけしてね。

 実はバレンタインであげた二つのチョコ、ブラウニーの方は私が作ったチョコなの。真白くんが美味しかったって言ってくれた時、私、変な顔してなかった? 大丈夫(笑)? ……』


『三月三十一日

 今日はとても幸せな一日だった。きっと生まれてから一番のお誕生日。もしかしたら泣いてる写真の方が多いかも(笑)

 ガラスペンありがとう、真白くん。このお手紙、早速ガラスペンを使って書いてるよ。やっぱりボールペンで書くより味があるね。あと、私の心持ちが違う。ペンを持つと魔法に包まれたみたいに幸せな気分になる。本当にありがとう。ずっと、ずーーーっと、大切にするね。……』


 一つ一つ夢中で読み続けた手紙はいつの間にか五十枚を超え、残るは最後の一枚。この手紙だけ宛名に俺の名前が書いてあり、そして少し紙がよれている。

 俺は少し緊張しながら手紙を手に取る。軽くシワを伸ばすように指で撫で、手紙を開く。少し、視界が悪い。


『四月二十一日

 今すぐこの気持ちを書きたくて、一つの書き残しもないように、本屋さんで同じ便箋を買って、今、駅ビルの中の喫茶店でこのお手紙を書いてます。(同じ便箋が売っていてよかった……)

 真白くん、今日はごめんね。そしてありがとう。本当に今日一日、全てが楽しかった。私、朝から……ううん、真白くんと約束した時からずっとウキウキしてたの。騒がしいかなって思って隠してたんだけど、いつの間にか全然隠せてなかったや(笑)だって本当に楽しかったんだもん。仕方ないよね!

 また一緒に行きたいな。私もね、真白くんと同じことを思っていたから、最後の言葉、すごく嬉しかった。

 ミルフィーユ、喜んでもらえてよかった。他のケーキもサンドイッチもとっても美味しかったね。真白くんの話してくれた本、早く読んでみたいな。真白くんの読んでる本は優しいお話のものが多いから、きっと本棚もそういう本がいっぱい並んでいるんだろうね。本棚を見ればその人が分かるって言うけど、私は見なくても分かるよ。真白くんがすっごく優しくて素敵な人だって。

 ふふ、私がそう言うたびに真白くんは不思議そうな顔をするよね(笑)

 じゃあ今回は特別、私が初めて真白くんの優しい人柄を知った時のお話をしようかな。


 あれは一年生の四月。授業で三号館に向かっていた時に、いつの間にか解れかけてた髪紐が風で飛ばされちゃってね。その時は授業が始まっちゃうから、終わったあとに急いで探しに来たんだけど見つからなくて。そのあとも休み時間のたびに三号館の周りを探したんだけど、やっぱり見つからなくて……。それでも大切なものだから諦めずに探していたら「どうしたんですか?」って声をかけてくれた人がいたの。

 ふふ、そう、その人が諫早真白くん、あなただったんだよ。私が髪紐のことを伝えたら、真白くんは無表情のままおもむろに空を見上げて「そうなんですね」って一言、どこかに行っちゃってね。私はその時、真白くんを不思議な人だなって思ったんだけど、それは違った。

 夕方になっても全然見つからないから、私、もうダメかもって泣きそうになっててね(笑)諦めてそろそろ帰ろうかって思ったその時、「あの」って真白くんはまた私に声をかけてくれて、しかもその手にはずっと探していた私の髪紐があったから「あっ!」って、本当にびっくりしちゃった。

 お礼を言おうと思って真白くんの顔を見たら、今度はまた違った意味でびっくり。だって真白くん、困った顔をしていたんだもん。どうしてそんな顔をしているんだろうって思っていたら、真白くん、なんて言ったか覚えてる?

「たまたま桜の枝に引っかかっているのを見つけたんですけど、その時にはもう所々紐が切れていて……ごめんなさい」

 って……。その時にようやく、真白くんのズボンと爪の間が土で汚れていて、髪の毛には桜の花びらがついてることに気づいたの。

 偶然なんかじゃない。私のために探してくれて、真白くんのせいじゃないのに謝って、悲しんでくれて。「ううん、ありがとう」って言ったら、真白くんは困った顔のまま笑って……。あぁ、この人は本当に優しくて素敵な人なんだなって、この日、私は真白くんの優しい人柄を知ったの。


 このお話、実は前に話したミサンガのことなんだけど……あれだけじゃ分からないよね(笑)それとも真白くんは忘れちゃったかな?

 もし真白くんが忘れちゃったとしても、私は一生忘れないよ。真白くんと初めて出会ったあの日を。

 私ね、あれからずっと真白くんを見かけるたびに目で追ってたの。(ストーカーとかしてないよ!)またあの笑い慣れていない不器用な笑顔が見たいなって。優しい彼の心からの笑顔はどんなに素敵なんだろうなって。

 だから真白くんがペンを忘れた時、これはチャンスだと思って必死に声をかけ続けました。きっと迷惑だったよね、ごめんね。でもそのおかげで真白くんと仲良くなれたから、私は後悔していません(笑)

 それで夢にまで見た真白くんの心からの笑顔は、私の想像以上でした。特に今日の、電車の中で見せてくれた笑顔。ずっと見ていたいと思った。真白くんの笑顔を見ていると、私も笑顔になれる。幸せな気持ちになれる。本当に真白くんはすごいね。

 あぁ、今日はいい日だったな。

 ねぇ真白くん、私、今日のことも一生忘れないよ。

 また明日、部室で……ううん、裏庭で今日のこと、いっぱい話そうね。


 追伸

 そうだ。ここまで話したからミサンガに掛けたお願いも教えるね。お願いごとは、

「いつか真白くんと仲良くなれたとき、真白くんの笑顔を見られる日がずっと続きますように」




(やっぱり恥ずかしいからこの手紙はあとで書き直そう!)』



「…………」

 最後の手紙を読み終える。

「…………っ」

 ……知らなかった。全部、全部、知らなかった。

 俺が忘れていた彼女との出会いを、彼女はずっと覚えていてくれたことを。

 彼女が俺との日々を、こんなにも望み、楽しんでくれていたことを。

 自分が否定したあの日を、彼女は一生忘れないと綴っていたことを……。

 俺はあの日、偶然見かけた女の子の探し物を少し手伝っただけだった。そんな些細なことから、彼女はずっと俺に手を差し伸べようとしてくれた。

 ねぇ色葉。君はこんなにも俺のことを素敵な人だと言ってくれるけど、色葉の方がとっても素敵な人だよ。たった一度のあの短いやりとりをこんなに大切にしてくれる人、そうはいないよ。

「…………色葉」

 色葉、本当は俺もそうだったんだ。あの日が、とっても楽しかった。……だから、俺もあの日のことを一生忘れないよ。

 完全に手紙の文字が見えなくなる。いつから俺の目にまた、こんなに涙が溜まっていたんだろう。

 けれど、この涙は前までと同じものじゃない。何も見えない、俺を深い深い暗闇の中に沈めるようなものではなく、心の内から出たような、俺の気持ちを軽くしてくれる、そんな雪解けのような涙。

 涙が左頬を伝う。

 ……もし、尚人の言葉が本当なら。俺が歩みを進めることで色葉を肯定できるのなら、よろこんで歩みを進めよう。

 ……もし、彼女が言う通りなら。俺が笑うことで色葉が笑ってくれるのなら、俺はよろこんで彼女のために、自分のために笑おう。


 いつの間にかカーテンから光が射し、モノクロだった世界に色が戻る。

 一枚一枚置いていった手紙は、まるであの日、初めて彼女と出会ったときの、満開の桜のようだった。


 あぁそうだ、これが、優しい彼女の、俺の大好きな色だ……


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