第9話「灰燼」
山を降り、見知らぬ人々とすれ違う街道を歩くこと、三日あまり。
凍てつく風の冷たさは変わらなかったが、肌を刺す空気の重さは、あの静謐な雪山の家とは明らかに違っていた。他人の気配や俗世の喧騒に、リンネルの感覚はどこか落ち着かないままでいたが、その斜め前を歩くアイゼンの大きな背中だけが、唯一の拠り所だった。
「……アイゼンさん、あの先です」
リンネルが指さした先に、かつて村を囲んでいたであろう、不恰好に連なる木製の柵が見えてきた。しかし、その境界線に近付くにつれ、リンネルの足取りは自然と重くなっていく。鼻腔を突いたのは、澄んだ冬の匂いではなく、長い時間を経てもなお消え残っている、悍ましい「焦げ茶色の記憶」──煤と、何かが燃え尽きた死の臭いだった。柵の向こうに広がっていたのは、リンネルの記憶にある、のどかな農村の風景ではなかった。
「そんな……」
言葉が、白い息となって虚しく霧散する。
そこに広がっていたのは、見渡す限りの焼け野原だった。
所々に新雪が薄く積もり、白く覆い隠そうとしてはいるものの、その隙間から覗く地面はどれも例外なく、どす黒く炭化している。かつて隣人たちが笑い合っていた家々はことごとく崩壊し、ただの黒焦げた木屑の山となって、墓標のように冷たい雪に突き刺さっていた。
「完全に焼き尽くされているな」
背後から、アイゼンの硬質な声が降ってくる。リンネルはきゅっと唇を噛み締め、黒い灰の地面に視線を落とした。
「……ここには、幼馴染の家があったんです。あっちの広い場所は、全部トマロの畑で。夏になると、みんなで泥だらけになって手伝って……。でも、もう何もない」
あの日、命からがら逃げ出したとき、村が燃えていたのは知っていた。
けれど、数年が経ち、強くなった今なら、何かが残っているかもしれないと、どこかで淡い期待を抱いていたのかもしれない。
だが、現現実残酷だった。
すべてが灰になり、文字通り何もかもが失われていた。
二人は、炭化した木屑を踏み鳴らしながら、村の中央へと進んだ。
そこには、激しい炎に炙られてなお、不気味に形を保っている一体の石像が佇んでいた。
「これは……?」
「この村が信仰していた、土地神トティスの像です」
アイゼンが眉をひそめて見上げる中、リンネルは石像を見つめながら、ぽつりぽつりと、記憶の底にある奇妙な風習について語り出した。
「この村には、昔から変わった決まりがあったんです。一年に一度、村人から一人だけ『供物』を選んで、村外れの森にある祠に捧げるんです。……でも、不思議なことに、捧げられた人は死ぬわけじゃなくて、数日経つとちゃんと村に戻ってくる。ただ……」
「ただ、何だ」
「祠の中で何をされていたのか、戻ってきた人は誰も、その間の記憶が綺麗に消えているんです。みんな『トティス様から洗礼を受けたんだ』って笑ってましたけど……」
そこまで言って、リンネルは自分の胸元にそっと右手を添えた。衣服の向こうで、ドクドクと心臓がひどく不快に波打つのを感じる。
「ぼくも、あの事件の少し前に、供物に選ばれて祠に入ったんです。でも、やっぱり何も覚えていなくて……ただ、思いだそうとすると、胸の奥がすごく冷たくなるんです」
リンネルの言葉を聞いた瞬間、アイゼンの青い瞳が、鋭い光を宿して細められた。記憶を消して生還させる、奇妙な生贄の風習。それがただの土着信仰などではないこと、そしてその「祠」にこそ、あの惨劇を引き起こした魔術師の目的が眠っていることを、百戦錬磨の男の直感が捉えていた。
「リンネル。その祠はどこだ」
「えっと……あっちの、森の奥です」
アイゼンのいつもと違う真剣な声音に、リンネルは微かな緊張を覚えながら、焼け残った不気味な森の入り口を指さした。
「案内しろ。その『神様』とやらの正体を確かめに行く」
アイゼンはそう告げると、黒い大剣の柄に軽く手をかけ、新雪と灰が混ざり合う黒い大地を、容赦なく踏み締めながら歩き出した。その背中を見つめながら、リンネルは急いでその後を追った。すべてが燃え尽きたこの死の土地で、何かが静かに動き出そうとしているのを、彼の感知能力が確かに捉え始めていた。




