第8話「出立」
暖炉の上でパチパチと薪が爆ぜる音と、汁物をすする音だけが、静かな部屋に響いていた。昼食の皿の上には、先ほどリンネルが狩ってきた白兎の肉のソテーが並んでいる。自分で狩り、自分で捌き、自分で火を通した肉。その味は、かつてただ飢えを凌ぐために噛みついていた頃とは違い、確かな実感を伴ってリンネルの身体を満たしていった。
アイゼンは自分の分の皿を平らげると、無造作にナイフを置き、感情の失せた目でリンネルを見つめた。
「もう、自分で生きる力は十分に身につけたな」
唐突な言葉に、リンネルはスープの器を持ったまま動きを止めた。
アイゼンは淡々と続ける。
「当初の約束通り、山を降りる許可をやる。村へ戻り、自分の目で確かめてくるといい」
その言葉は、いつか来ると分かっていた、この家からの卒業の合図だった。
寂しさが胸を過らなかったと言えば嘘になる。だが、それ以上に「ついに過去と向き合える」という確かな覚悟が、リンネルの胸を叩いた。リンネルは器を置くと、深く、力強く頷いた。
「……はい。ありがとうございます、アイゼンさん」
食事が終わると、すぐに旅の支度が始まった。
リンネルは、自分の身体に合わせてアイゼンが調整し直してくれた一本の鋼の長剣を背中に帯び、防寒のための厚手の外套を羽織る。荷物は最小限、干し肉と少しの水、そして火を起こすための火打ち石。もっとも、今のリンネルには、自分の胸に手を添えればいつでも灯せる『引鉄』があるため、火打ち石はただのお守りのようなものだったが。
玄関の土間で靴の紐を締め直し、リンネルは振り返った。
長年、凍える自分を守り、育ててくれた不老不死の男に、最期の別れと感謝を告げようと口を開きかけた、その時だった。ドサリ、とリンネルの隣に、もう一つ分の大きな荷嚢が落とされた。
見上げると、そこにはリンネルと同じように、旅用の黒い外套を纏ったアイゼンが立っていた。背には、かつて数々の戦場を潜り抜けてきたであろう、黒光りする大剣が背負われている。
「え……? アイゼン、さん……?」
「何だ」
「何だ、って……その格好、まさか」
困惑するリンネルを、アイゼンは冷徹な視線で見下ろした。
「私も行く。それだけだ」
「ええっ!? だって、街の人間はどうせ数十年で入れ替わるから行く理由がないって、無駄だって、前にそう言いましたよね!?」
「ただの気まぐれだ」
アイゼンは取り付く島もないほどぶっきらぼうに言い放ち、先に立って扉を開けた。滑り込んできた冬の暴力的な突風が、彼の黒い外套を激しくなびかせる。
口が裂けても、この数年で自分の生活に溶け込んでしまった少年の行く末が気になっただとか、彼が育った村がどんな場所なのか興味が湧いただとか、そんな殊勝な理由は言えるはずもなかった。アイゼンにとってこれは、あくまで拾った責任としての、ただの保護者の確認作業に過ぎない──そういうことにしておきたかった。
「呆気にとられていないで、さっさと来い。日が暮れるぞ」
「あ……待ってください!」
呆気にとられていたリンネルだったが、すぐにその顔に、隠しきれない喜びの色が広がっていく。
一人で過酷な過去へ立ち向かうと思っていた旅路に、最も信頼する、高くて美しい『壁』が並び立ってくれる。これほど心強いことはなかった。
「はい!」
リンネルは弾んだ声で応えると、アイゼンの大きな背中を追いかけるようにして、何年も過ごした雪山の家を後にした。二人の一歩が、新雪に深く、確かな足跡を刻んでいく。




