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第4話 底辺画家の美学

 ガタガタガタ……。


 窓ガラスが悲鳴を上げ、カーテンが生き物のように暴れ回る教室。


 クラスメイトたちが逃げ出し、静まり返った暗闇の中で。

 一人の少女が、口元を押さえて笑っていた。


「……ふふっ」


 ヴェナだ。


 彼女は、その細い指先が指揮者のように優雅に振るっていた。


 彼女の指の動きに合わせて、風が窓枠を叩き、机を揺らす。

 何のことはない。この怪奇現象の正体は、風の魔女による自作自演の舞台装置だったのだ。


「……これで、魔石探しの邪魔者はいなくなったね」

「恐ろしい子!」


 僕は腰を抜かしたまま、彼女のあまりの策士ぶりに戦慄した。

 天才とは、時に悪魔よりも質が悪い。


「さあ、始めよっか。アストン」


 彼女が魔力を解放する。

 教室を支配していた暴風は霧散し、いつもの静寂が戻る――はずだった。


 ピタリ。


 風が止んだ。けれど、何かがおかしい。

 風が凪いだ後に訪れたのは、安堵ではなかった。


 肌にねっとりとまとわりつくような、不快な湿度。

 そして、吐く息が白くなるほどの急激な気温の低下。


「……なんだ?急に寒く……」


 僕は思わず身震いをした。さっきまでの物理的な風の冷たさとは違う。もっと芯から、骨の髄まで凍てつくような悪寒。


 そして。

 ツン……。


 僕の鼻孔を、強烈な異臭が突いた。それは、何十年も掃除されていない古びたアトリエの床下から漂うような、腐った油絵具とカビの混じった臭い。


「……変だ」


 ヴェナの顔から、笑みが消えていた。彼女は指揮者のタクトを降ろしたように手を下げている。それなのに。


 ガタッ……。

 教室の隅。誰もいないはずの掃除用具入れが、ひとりでに揺れた。


 ヴェナはもう、風を操っていない。だとしたら――今、この教室を揺らしているのは、一体「誰」だ?


 彼女が操っていた風の魔力とは異なる、もっと重く、ドロリとした質量の高い魔力が、旧校舎の底から湧き上がってくる。


(何かが、いる)


 ズズズ……。


 廊下の奥、深淵のような闇の中から、音がした。

 濡れた雑巾を引きずるような、湿った音。


「来る……何かが来る!」


 僕は、その一点を見つめる。

 その闇の中から現れたのは人の形をした何か。

 だが、それは決定的に「人」ではなかった。


 輪郭が溶けている。

 顔面の皮膚が、まるで熱に耐えきれなくなった蝋のように、ドロリと崩れ落ちていた。

 左目は頬の位置に垂れ下がり、口は顎を超えて首元まで裂けている。


『……私ノ……顔ヲ……』


 鼓膜ではなく、頭の中に直接響くような、怨嗟の声。


『……笑ウノハ……誰ダ……』


 恐怖。

 原液のような悪夢がそこにあった。


 この廃校舎の影に溜まった澱。

 正真正銘、「本物の悪霊」。


 悪霊の、垂れ下がった眼球がギョロリと動き、僕を捉えた。


『……笑ッタノハ……貴様カァァァ!!?』

「ひィッ!?」


 悪霊の腕が、鞭のように伸びた。

 先端が鋭利なペインティングナイフのように尖り、僕の喉元へと迫る。


 ヒュンッ!!


 空気を切り裂く鋭い音が鳴った。

 刹那、僕の身体がふわりと宙に浮いた。


 ドサッ!

「痛っ……」


 僕が降ろされた場所は、悪霊の攻撃範囲の外。

 そして、僕と悪霊の間には、一人の少女、ヴェナが立っていた。


「……本当に出た」


 興奮でわずかに見開かれた瞳。

 風を従え、超常の存在と対峙するその凛とした背中。


(……かっこいい)


 不謹慎にも、僕の心は震えた。

 恐怖ではない。感動だ。彼女の姿はそれ程までに美しかった。

 描きたい。この光景を、この色彩を、キャンバスに叩きつけたい。


『……邪魔ヲ……スルナァァァ!!』


 悪霊が咆哮し、魔力の塊を吐き出した。


 ――風壁ヴェント・パナ


 ヴェナの前に暴風の壁が展開され、泥を受け止める――が。


 ジュワッ!


 泥は風の壁を侵食し、毒々しい煙を上げながら迫ってくる。


「チッ、重い……!」


 ヴェナが舌打ちをする。

 彼女の連打する「風刃ヴェント・ラミナ」が、悪霊の体を切り裂く。

 だが、相手は霧と泥の集合体。切っても切っても、すぐにドロリと再生してしていく。


『……コノ顔ガ……可笑シイノカ!?』


 悪霊が叫びながら、その崩壊した顔面を突き出してくる。


『……美シサヲ……理解セヌ……愚カ者ドモメェェ!!』


 至近距離で見るその顔。

 恐怖で縮み上がりながらも、僕の「画家の目」は、ある違和感を捉えていた。


(……あれは)


 爛れたように見える肌の質感。

 あれは、幾重にも塗り重ねられた油絵具のタッチ(筆致)だ。


 そして、あの歪んだ目鼻立ち。

 ただ崩れているのではない。

 あれは、描こうとして描けなかった、苦悩の痕跡。


 精神を病んだか、あるいは脳に障害を負い、自らの理想とする「美」を出力できなくなった画家の成れの果て。


 自ら命を絶ち、己自身を「失敗作」として呪い続けている、悲しき魂。


『……見ロォォ!コノ……歪ンダ世界ヲォォ!!』


 悪霊の悲痛な叫びが、僕の胸に突き刺さる。


 分かる。

 僕もまた、天才たちに囲まれ、自分の才能の限界に打ちひしがれ続けてきた身だ。

 理想と現実のギャップに狂いそうになるその気持ちは、痛いほど分かる。


 だが。

「……許せない」


 同情よりも先に、僕の中に湧き上がってきたのは、画家としての矜持プライドだった。

 デッサンが狂ったまま放置されている絵画など、僕の美学が許さない。


 直したい。


 あの歪んだ線を、濁った色を、彼が望んだ筈のあるべき場所へ戻してやりたい!

 もはや恐怖はない。

 僕は立ち上がった。


 ◆◆


「ヴェナ!僕に試したいことがあります!!」

「何する気!?」

「勝てるかは兎も角、その悪霊を風で拘束できますか!?」


 ヴェナが一瞬だけ振り返り、僕の目を見た。

 そこに迷いがないことを悟ると、彼女は不敵に笑った。


「いいよ、勿論」


 彼女が両手を広げる。


 ――風牢ヴェント・カファス


 竜巻のような風が、悪霊の半身を包み込むように巻き起こった。


『グオォォォ!?』


 四方八方からの風圧が、形を持たない悪霊の体を空中に固定する。


 その目前に、僕は踏み込んだ。


「聞いて!君の苦悩は理解できます!」


 僕は叫んだ。


 「線が繋がらない!色が濁る!見ているものが頭の中にある理想とかけ離れている!そうでしょう!?」


『……アァ……アァァ……』


 悪霊の動きが鈍る。


「君の作品に手を加えること許してください!本当は、こう描きたかったはずだ!違いますか!?」


 僕は右手を突き出し、全魔力を指先に集中させる。


 イメージするのは、光の絵筆。

 起動するのは、僕の唯一の武器。


 ――雷光幻影イマゴシュト美化修正レタッチ!!


 バチバチバチッ!!


 僕の指先から、かつてない強烈な紫電が迸った。

 対象を観察スキャンし、その上から「彼の理想」を強制的に上書き投影する。


「そこだ!顎のラインはもっとシャープに!眼窩のくぼみは深く!肌の色は泥色じゃない、輝くような象牙色だ!」


 光の粒子が、悪霊の顔面にまとわりつく。


 崩壊した画風の怪物が、補正をかけられたかのように、急速に描き変わっていく。

 垂れ下がった目はパッチリとした切れ長に。

 裂けた口は、理知的な微笑みに。

 腐った油絵具の質感は、滑らかな大理石のような肌へ。


『……オォ……』


 悪霊の声が変わる。

 怨嗟の響きが消え、驚嘆の吐息へと。

 割れた窓ガラスに映った自分の姿を、悪霊は見つめた。


 そこにいるのは、醜い怪物ではない。

 かつて彼が渇望し、キャンバスに描けなくなってしまった「美」。


『……コレゾ……私ノ求メタ……美……』


 悪霊は、震える手で自分の頬(だった場所)に触れた。

 その表情は、恍惚としていて、憑き物が落ちたように穏やかだった。


『……美シイ……』


 満足げな溜息と共に、悪霊の体は光の粒子となって崩れ落ちていく。


 呪いは解けた。

 ただ、「納得のいく絵」が完成したことによって。


 最後にキラキラとした光の粉を撒き散らし、悲しき画家の霊は、天へと昇っていく。


 浄化された光の中から、コロン、と小さな音がして何かが床に落ちた。


 拾い上げてみると、それは親指の先ほどの小さな碧色の『魔石』だった。


 透き通るような美しい碧。


 それはまるで、ヴェナのエメラルドの色にそっくりだった。

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