第2話 理想の脚
ビシィッ!!ゴゴゴゴゴゴッ!!
風の魔女、ヴェナの周囲には、目に見えるほどの殺気(どす黒い風)が渦巻いている。机がカタカタと震え、窓ガラスにヒビが入る。
「ち、違う!これは、その、あくまで芸術的観点からの……不可抗力で……!」
ヴェナが右手をかざした。
そこには、暴風の塊が圧縮されていた。
「……死ね」
ドォォォォォン!!
轟音と共に、僕の投影した傑作もろとも、僕自身が教室の壁まで吹き飛ばされた。
痛い。全身の骨がきしむ。
みんな僕を笑っているだろう。
最低の変態だと蔑むだろう。
でも、後悔はない。だって、あの一瞬。イメージの中で微笑んだ彼女は、僕が今まで見たどんな景色よりも、残酷なほどに美しかったから。
「ぎゃあぁぁぁぁぁ!!」
僕の断末魔が、学び舎に木霊する。壁にめり込み、薄れゆく意識の中で、僕は思った。
(……でも、あの胸の大きさは完璧に……げふッ……)
こうして僕は、入学早々にして「変態芸術家」という不名誉極まりない二つ名を、歴史に刻むことになったのだった。
風の魔女と落ちこぼれ芸術家。
二人の奇妙な関係は、この最悪な出会いから幕を開けることになる。
◆◆
放課後。茜色の夕日が、破壊された教室を朱く染めていた。
騒動の主犯――アストンが、逃げる様に寮へと帰った後の教室。
そこには、この学院の「カースト上位」に君臨するエリートたちが集まっていた。
「……災難だったね、ヴェナ」
声をかけたのは、落ち着いた赤髪をふわりと巻いた美女、ザークレシアが同情の眼差しを向ける。
「あの変態の隣なんて。……席、代わろうか?私でよければ先生に言ってあげるけど」
彼女に続き、コバルトブルーのショートヘアが凛々しい、氷魔法の使い手ルズガーナは呆れたように肩をすくめた。
そんな彼女たちの背後では、男子生徒たちが下世話な笑い声を上げていた。
「ギャハハ!お前らも『エロ・マエストロ』に裸婦画を描いてほしいんか?」
「バカ言え。ザークの裸婦画なら、レズガーナにプレゼントしてやれよ!喜ぶだろ?」
「誰がレズガーナだ、ぶっ殺すぞ」
そんな騒がしい連中の中心で。ヴェナは、机からゆっくりと顔を上げた。陶器のように白い頬には、制服の袖の跡がくっきりと赤く残っている。
「……ん」
彼女は小さく伸びをすると、友人たちの申し出に首を横に振った。
「ありがと。でも、大丈夫」
「え?いいの?あんな危険人物」
「うん」
ヴェナは椅子を浮かせ、窓際へと移動する。その碧色の瞳が捉えたのは、校庭を一人、トボトボと寮に向かって歩いているアストンの背中だった。
弱々しく、頼りない背中。
周囲は彼を「変態」と笑ったが、ヴェナの瞳は誤魔化せない。
彼女だけは気づいていたのだ。彼が放った「幻影」の、真の特異性に。
あれは単なる雷属性の応用などではない。
五大属性の理すら超えた、禁じられた領域の片鱗だったことを。
ヴェナの口元は微かに緩ませ、さっきまで実態が無かった筈の脚をぶらぶらと遊ばせていた。
「……アイツの隣、退屈しなさそうだから」
夕陽に照らされた彼女の瞳には、嫌悪ではなく、純粋な興味の色が宿っていた。
◆◆
男子寮の一室。
本来なら、僕は教室での失態を猛省し、部屋の隅で膝を抱えているべき時間だ。
だが、今の僕はイーゼルに向かい、猛烈な勢いで筆を走らせていた。
キャンバスに描かれているのは、先ほどの授業の記憶。
そう、ヴェナの裸婦画(ラフ画)だ。
(……やはり、難しいな)
ヴェナは、僕がこれまで描いてきたモデルの中で、最も難易度が高い。
彼女の美貌を再現すること自体が至難の業だが、それ以上に厄介なのが「秘められた下肢」。
彼女の脚は風。実体がない。
だが、絵画として成立させるには、人体の骨格バランスを無視することはできない。風の渦だけを描いても、何故かしっくりこないのだ。
そこに、質量が感じられない。彼女からは確かな「存在感」を感じるというのに。
困難だ。
だからこそ、芸術家魂がくすぐられる。被写体としてこれ以上は無い。
まあ、単純に彼女の容姿が僕のストライクゾーンど真ん中だという、極めて不純な理由もあるけれど。
「……一旦、描いてから、塗り重ねるか」
僕は技法を変えることにした。
まず、キャンバスの中の彼女に、理想的な比率の「人間の脚」を絵具でしっかりと描き込む。
その上に風のエレメントを塗り重ね、徐々に実体を消していくのだ。
そうすることで、風に実体の脚が持つ躍動感が乗り、その質量も感じられるようになるかもしれない。
未知の試行錯誤。
筆が乗る。
白い太もも。膝の裏の筋。ふくらはぎの曲線。
完璧だ。我ながら、神がかった筆致だ。
そして。
まさに脚を描き終わり、これから「風」を乗せていこうとした、その時だった。
ヒュゴォ……ガチャリ。
施錠されていたはずのドアノブが勝手に回り、扉が開く。
同時に、爽やかな風が狭い寮の部屋に舞い込んだ。
「……え?」
振り返った僕の目に飛び込んできたのは、夜風になびく美しい黒髪。
ヴェナだった。
「えぇ!!?ヴェナ!?なんで!?鍵ぃ?!」
心臓が喉から飛び出るかと思った。
タイミングが悪すぎる。
しかも見られた!
今、まさに彼女の生足を捏造している、この背徳的なキャンバスを!
「あ、あの、これはあくまで芸術的探求心の発露であって!決してやましい気持ちで……!」
僕はキャンバスを背中で隠し、裏返った声で叫んだ。
二度目だ。流石にこれは、僕の社会的生命のみならず、物理的生命すら危うい。
「……へぇ。凄い」
しかし、ヴェナの反応は予想外だった。
彼女は僕の部屋に所狭しと置かれた絵画を見回し、ふわりと浮遊したまま、当然のように僕のベッドの上に降り立った。
ちょこん、と座る。
そよぐ風とともに、彼女の残り香が部屋に充満した。
「……」
言葉が見つからない。
女子が……しかも学園きっての天才少女が、僕のむさ苦しいベッドに?いったい何しに?
まさか、処刑宣告か?
「ねぇ。消えちゃった」
「へ?」
「ボクの脚。……面白かったから、もう一回やって」
「脚??」
僕は呆然とした。
何を言っているのか、さっぱり分からない。
彼女は、物分かりの悪い子供に諭すように、淡々と言葉を継いだ。
「あー……分かったよ。じゃあ、あの授業と同じこと。その裸婦画のイメージを、ボクに直接ぶつけて」
言うが早いか、彼女はベッドの上で、その短いスカートの裾を無造作に摘まんだ。
「……ここ」
ふわり。
ためらいもなく、スカートの中身が惜しげもなく開陳される。
(あぁ。これは……来ましたわ)
普段なら絶対に見えない「絶対領域」のさらに奥。そこに見えた神秘を、僕は言語化するほど野暮ではない。
天才少女の思考回路は、どうやら人間離れしているようだ。
しかし困ったことに、彼女が何を求めているのか、僕には全く分からない。
ただ、眼前に広がる圧倒的な「非日常」と、彼女の真剣な眼差しに呑まれたのは確か。
やるしかない。
言われるがままに、あの授業の「やらかし」を再現する。
イメージするのは、さっきまで描いていたキャンバスの続き。
風の中に隠された、幻想の脚線。
――雷光幻影!!
バチバチバチッ!!僕の指先から、紫色の雷が迸る。
「うおっ!?」
いつもより出力が高い。放たれた光の粒子は、僕の制御を離れ、まるで何かに吸い寄せられるように、ベッドに座るヴェナの下半身へと殺到していく。
(暴走か!?)
焦る僕の目の前で、信じられない光景が展開された。
僕の脳内にある「未完成の(脚を描き足した)」ヴェナ像が、現実の彼女に重なるように投影されていく。そして――
ジュワッ……。
光が、風に溶けた。そうとしか表現できなかった。
「……んッ」
ヴェナが小さく身を震わせる。投影されたはずの光の脚が、彼女の纏う風の渦と混ざり合い、急速に「色」と「形」を――いや、「質量」を持ち始めたのだ。
まるで、空中に描いた絵が、勝手に受肉していくような不気味さと神秘。
何が起きている?僕の魔術(妄想)が、彼女の魔術(風)を侵食しているのか?それとも食われているのか?理屈なんて分からない。
ただ、僕の網膜に焼き付いた「理想の脚」が、現実世界に無理やり引き出されていく。
バチッ、ポンッ。
軽い破裂音と共に光が弾け飛ぶ。
光が収まった時。そこには、白く、瑞々しい、二本の脚が鎮座していた。
「なっ……!!なんじゃこりゃあぁぁぁぁ!!!!」
僕は腰を抜かした。幻影じゃない。そこに「在る」。
僕の描いた絵が、そのまま具現化したのか!?
「……やっぱりすごい。だけど、無意識なんだ」
ヴェナは身体を弾ませ、ベッドから降りる。
トン。
足の裏が、床を踏みしめる音がした。
「……不思議。地面を歩く感覚って、こうなんだ」
彼女は自分の新しい脚を、ペタペタと触り、膝を曲げ伸ばししている。
そして、部屋の中を恐る恐る、しかし楽しげに歩き回り始めた。
「ボクにとって、脚なんて飾りだって思ってたけど。……これはこれで、楽しいかも」
彼女はクルリとターンを決め、僕の前で止まった。
「どう?アストンの作品の出来栄えは」
「……100点満点中、5億点です」
「ふふっ、変態」
ヴェナが、ふわりと微笑んだ。
滅多に見られない、天才少女の笑顔。僕は胸を打たれたどころではない。
暴風に胸を抉られ、心臓がどこかへ消失したかのような衝撃を受けた。
なんだこの可愛い生き物は。責任取って結婚するしかないじゃないか。
「でも、感動するのはまだ早いよ」
彼女はひとしきり歩行を楽しんだ後、碧色の瞳で僕を真っ直ぐに射抜いた。そして、僕の手を取り、その新しい脚で一歩、僕に近づく。
「マエストロ。……ボクと一緒に。来て」
「え、どこへ?」
「決まってるでしょ」
彼女の吐息が、耳にかかる距離で囁く。
「……この脚の性能、もっと広い場所で試したいから」
彼女からの恵風が、僕の背中を優しく、しかし強引に押した。
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