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第1話 最悪の出会い

 カリ、カリ、カリ……。


 教室の隅。


 退屈な授業中、僕は鉛筆の芯が紙を削る、その微かな感触だけに集中していた。


 綺麗だ。


 僕の視線の先。隣の席で、腕を枕に突っ伏して寝ている少女。

 窓から差し込む春の日差しが、彼女の艶やかな黒髪を透かし、光の輪郭を描いている。


 長い睫毛。陶器のように白い肌。そして、今は閉じられているが、ひとたび開けばエメラルドの宝石すら霞む、碧色の瞳。


 ヴェナ。

 風の神に愛された、このクラスの――いや、学院きっての天才少女。


 僕は左腕で手元を隠しながら、密やかに、しかし大胆に筆を走らせていた。

 脳内で彼女の衣服を一枚ずつ剥ぎ取り、その下にあるはずの柔らかな曲線を、紙の上に再構築していく。


 露わになった肩のライン。背骨の窪み。そして、重力に逆らわぬ豊かな膨らみ。

 そう、僕は今、神聖な授業中に、隣の席の女子の「裸婦画」を描いているのだ。


 これぞ正に芸術。


 しかし、僕の想像力をもってしても、彼女の「脚」だけは正確に描くことができない。なぜなら、彼女の脚は風なのだ。いつもふわりと浮いている。物理的にも、存在的にも。


 制服のスカートの裾。

 そこから覗くのは、人間の肉体としての白い脚ではない。


 そこにあるのは、陽炎のように揺らめき、渦を巻く、半透明のエメラルド色の風の奔流。


 そう、彼女は「風の神に愛されし子」。

 人の身でありながら、その半身を精霊の世界に置いている。


 肉体の代わりに、吹き荒れる風そのものを脚として纏っているのだ。

 それは人の理から外れた、けれどあまりにも幻想的で神々しい。


『風の魔女』とも呼ばれる彼女は、まさに生きた精霊。高嶺の花。


 僕はせめて紙の上だけでも、彼女を捕まえたかった。

 特に――


(あのスカートの中は……一体どうなっているんだ。風の渦が巻いているだけなのか?それとも――)


 想像が爆発する未知の領域。

 芸術家としての探求心が抑えきれない。


 僕は鼻血を啜りながら、デッサンの精度を上げるため、こっそりと身体を低くし、今は椅子にちょこんと乗っかった彼女のスカートの中を、薄目で覗き込もうとした。


(これは下心なんて低俗なものではない。あくまで芸術的探究心であって……)


 その時。


「――アストン!!アストン・カッシアン!!」

「はひっ!!」


 突如、頭上から雷が落ちたような怒声。ビクンと身体が跳ね、鉛筆がカツンと音を立てて転がる。


 教卓には、担任のヴァーノン先生が、鬼の形相でこちらを睨みつけていた。

 分厚い魔道書で教卓を叩いた鈍い音が、静まり返った教室に響く。


「貴様……私の神聖な授業中に、よもや手遊びとはいい度胸だな」


 先生は杖を振り上げ、黒板に描かれた複雑怪奇な魔法陣を叩いた。


「答えろ。雷魔法の基礎において、魔力による放電現象を利用し、大気を励起させることで、己の脳裏にあるイメージを空間に投影させる術式。この名称は?」


 ……終わった。頭が真っ白になる。


 大気の励起?放電現象?僕の頭の中にあるのは、「ヴェナのスカートの中」についての考察だけだ。


 ここは魔術師の世界的名門、バラ=エル魔術学院。

 だが、僕、アストン・カッシアンにとっては、ただの監獄でしかない。


 本来なら僕は今頃、ホナルカエル美術学院で油絵の具の匂いに包まれているはずだった。

 キャンバスの匂いと、静寂に満ちたアトリエ。そこで自分の魂を色に乗せる。それが僕の唯一の望みで、未来だったのに。


『君の魔力は特殊だ。是非わが校の新しき道しるべになってほしい』


 今思えば詐欺の常套句。そんな一方的な理屈で、入学式の日に筆を杖に持ち替えさせられ、わけもわからずこの檻(魔術学院)に放り込まれた。


 僕は魔術になんて興味ない。才能もない。


 僕にあるのは、行き場を失った創作意欲と、無駄に高精細な「妄想力」だけだ。

 だから僕は描いている。抵抗として。あるいは、自分自身であり続けるために。


 クラス中からの冷ややかな視線。


「あいつ、また絵を描いてるぞ」

「魔力値ゴミのくせに」

「なんでここにいるんだ?」


 嘲笑?構うものか。

 僕にはこの「芸術ヴェナ」さえあれば――。


「なんだ!わからんのか!?魔学の基本だぞ!この高尚なバラ=エルの入学生でまさか知らぬとは言わせない」


 ヴァ―ノン先生のこめかみに血管が浮き出す。クラス中から、「またかよ」「さっさと答えろよ」という呆れと苛立ちの空気が、針のように僕を刺す。


 退学か。

 いや、それならそれで本望だけど、親になんて言えば……。

 冷や汗が背中を伝う。


 その時だった。


「……雷光幻影イマゴシュト


 隣から、風のそよぎのような、小さな声が聞こえた。

 え?横目で盗み見る。ヴェナは机に突っ伏したままだ。

 だが、その顔だけが、わずかに僕の方を向いていた。


「……」


「い、イマゴシュト……です!」


 僕は一か八か、その言葉をオウム返しに叫んだ。

 一瞬の沈黙。ヴァーノン先生は眉をひそめ、意表を突かれたような顔をした。


「……ほう。正解だ」


 教室の空気が緩む。僕が恥をかくことを期待していた連中が、チッ、と舌打ちをするのが聞こえた。


(た、助かった……!)


 僕はへなへなと椅子に座り込む。

 そして、信じられない思いで隣を見た。


 ヴェナは変わらず寝ている。

 けれど、確かに彼女は今、僕を助けてくれた。あの「風の魔女」が?

 誰とも関わろうとしない彼女が?


(も、もしかして……)


 僕の脳内で、都合のいい妄想が火を吹く。

 実は彼女、僕の芸術的才能に気づいているんじゃ?いや、もしかして僕のことが……好き、とか?


 ノートの端に描かれた裸のヴェナが、ふわりと微笑んだ気がした。

 ヤバい。生まれてこのかた、母親以外の女性から優しくされたことがない僕の心臓が、早鐘を打つ。


 だが、現実は甘くなかった。


「ではアストン!そのイマゴシュトを使って、このリンゴを投影してみせろ」


 ヴァ―ノン先生が、教卓にあった真っ赤なリンゴを放り投げ、片手でキャッチした。


「えっ」


「口で言うだけなら猿でもできる。実践してこそ魔術師だ。……できないとは言わせんぞ」


 まさかのおかわり。

 教室中からクスクスと笑い声が漏れる。

 無理だ。僕の魔力適性は、炎も水も風も土も、すべて最低ランクのD。雷に至っては、静電気を起こすのが関の山だ。


 高度な幻影魔法なんて、使えるはずがない。


「……絵筆でキャンバスを撫でるように。イメージをそのまま、世界に塗りつければいい」


 再び、隣から声がした。ヴェナだ。

 彼女は突っ伏したまま、眠そうな、それでいてどこか楽しげな声で囁いた。


「……君の頭の中で、個展を開くの」


 僕の頭に、電流が走った。彼女のアドバイスは、魔術的というより、どこか芸術的だった。


(できる……のか?)


 いや、やるしかない。彼女が見てくれているんだ。僕は立ち上がり、右手を前に突き出した。


 目を閉じる。イメージしろ。赤くて、丸くて、艶のある果実。リンゴ。リンゴ。リンゴ……。


 だが。さっきまで全神経を注いで描いていた「あの絵」の残像が、網膜に焼き付いて離れない。

 リンゴの赤色が、いつしか「頬の赤らみ」へ。果実の丸みが、「豊かな胸の膨らみ」へ。表面の艶が、「汗ばんだ肌の質感」へと、脳内で勝手に変換されていく。


(ああ、なんて美しいんだ……)


 画家の魂が、理性を凌駕する。僕の魔力が、勝手に筆となって空間を彩り始める。


「――出ろぉぉぉッ!」


 僕は渾身の力で、脳内の「最高傑作」を放出した。


 バチバチッ!空気が爆ぜる音がして、教卓の上に紫色の光が収束する。


 光の粒子が結合し、一つの像を結ぶ。

 それは、リンゴではなかった。


 淡い光の中に浮かび上がったのは、シーツを胸元で抱え、恥じらいながらこちらを見つめる、一糸まとわず「佇む」美少女の姿。髪の毛一本一本の質感。肌の透き通るような白さ。そして、困ったように潤んだ碧色の瞳。


 その顔立ちは、どう見ても――


「…………は?」


 教室の時間が、完全に停止した。


 男子生徒たちは目を見開き、鼻血が出そうな顔で凝視する。

 女子生徒たちは悲鳴を上げかけ、手で口を覆って凍りつく。ヴァーノン先生はリンゴを取り落とした。


 その映像は、魔素の粒子ピクセル密度があまりにも高く、そこにある「実在感」が異常だった。何より、モデルが誰か、一目瞭然すぎた。


 風の魔女、ヴェナの裸婦画。


「……アストン?」


 地獄の底から響くような、絶対零度の声。

 ギギギ、と油の切れたブリキ人形のように首を回すと。


 隣の席で、むくりと起き上がったヴェナが、能面のような無表情でこちらを見ていた。

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