第2話:【空の孤独】ウィスパーとゴーストの共鳴
パパン、パパパパン……!
軽快なドラムのハイハットが、高度一万メートルの極寒の風を切り裂く。
眼下に広がるのは、綿菓子のような雲海と、豆粒よりも小さくなった帝都の街並み。そして目の前には、白鯨のごとく悠然と空を往く、帝国銀行の『移動式空中金庫』が鎮座していた。
それは巨大な魔導機関を四基備え、常に高度を維持しながら帝都上空を回遊する、まさに空飛ぶ要塞だ。
10,000ft:暴走する馬車と消えゆく少年
「ひっ、ひぃぃぃ……! 教授、やっぱり無理です、高度計算を間違ってます! 死ぬ、確実にバラバラになって死にますぅ!」
空飛ぶ馬車の後部座席で、獣人の少年ウィスパーが耳をペタンと伏せ、床にへばりついていた。
「落ち着け、ウィスパー。君の耳なら、あの金庫の外装を打つ風の音から、内部の構造が読み取れるはずだ」
通信機から流れる教授の声は、ティータイムのように優雅で、一切の揺らぎがない。
「無理ですよぉ! 僕はただの、影の薄い迷子なんです! 前世だって、誰にも気づかれずに死んだのに……っ!」
極限の恐怖が、ウィスパーの「隠密」の才能を最悪の形で引き出した。
前世の彼は、大都会の路地裏で誰の視界にも入らず、ただの風景の一部として凍え死んだ。その「誰からも認識されない」というトラウマが、異世界の魔力と共鳴し、彼の体を透過させ始める。
輪郭が背景の青空に溶け、手足が透け、存在そのものが世界から切り離されようとする魔力の暴走。
「おいおい、ガキんちょ! 勝手に行方不明になってんじゃねえよ!」
操縦席で特製の魔導燃料ボトル――中身は度数の高い琥珀色の酒だ――を煽りながら、ゴーストが吼えた。
「ゴーストさん……でも、僕、もう自分がどこにいるか分からないんです……僕の体、空気みたいになっちゃって……」
ウィスパーの声が遠のく。意識が薄れ、空に溶け込んでいく。
「ハッ、笑わせんな! だったら俺のエンジン音を聴け!」
ゴーストは乱暴に舵を切った。馬車が垂直に近い角度で急降下し、ウィスパーの胃袋が喉元まで跳ね上がる。
「このリズム、この振動! お前が空気になろうが、チリになろうが関係ねえ。俺の船に乗ってる限り、俺が『お前はそこにいる』って決めてやるんだ。幽霊の俺が言うんだ、間違いねえだろ!」
12,000ft:ガジェット『反響増幅耳』
ゴーストが加速レバーを最大まで倒した。四基の魔導エンジンがジャズのバリトンサックスのように野太い咆哮を上げる。
「ウィスパー、教授が作ったそのクソ高いヘッドギアのスイッチを入れろ! 怖くて目をつぶってるなら、耳だけで世界を支配してこい!」
ウィスパーは震える指で、耳を完全に覆う銀色のガジェット『反響増幅耳』の感度を最大に上げた。
その瞬間、世界が「音」で再構築された。
凄まじい風の唸り、エンジンのピストンが刻むビート、ゴーストの荒い鼻息。それらすべてが波紋となって脳内に立体的な地図を描き出す。
「……あっ」
ウィスパーは気づいた。どんなに自分が影を薄くしても、ゴーストが放つ音波が自分に当たり、反射し、自分の居場所を確定させていることに。
世界が自分を無視しても、このうるさいエンジン音だけは自分を見逃さない。
「……見えた。見えました、ゴーストさん!」
ウィスパーの透けていた体に、血の色が戻った。彼は身を乗り出し、空中金庫を凝視する。
「空中金庫の右舷、三番目の排気ダクト。そこだけ魔力の循環がコンマ二秒だけ遅れてる。……あそこが、針の穴。僕たちの入り口です!」
15,000ft:クライマックス・ジャム
「よっしゃ! 捕まっとけよ、天国まで連れてってやる!」
ゴーストの操縦は、もはや飛行ではなく「舞踏」だった。
空中金庫の防衛システムが起動し、無数の魔法弾が光の雨となって降り注ぐ。だが、ゴーストはそれらをリズムに乗ってかわしていく。
「左三度、次は右! 五秒後に下降! ゴーストさん、今です、あのダクトの隙間に……突っ込んで!」
ウィスパーの指示は正確無比だった。音で捉えた「風の隙間」を縫うように、馬車が加速する。
「あいよ、お安い御用だ!」
ゴーストは馬車の主翼をパージし、機体を弾丸のような鋭い形状へと変形させた。
シュォォォォォン!!
刹那の突入。
金属同士が擦れる激しい火花と、鼓膜を震わせる轟音。
馬車は排気ダクトを突き破り、金庫内部の狭いメンテナンス通路へと転がり込んだ。
00,000ft:残響
激しい衝撃が収まり、沈黙が訪れる。
カチカチと音を立てて冷えていくエンジンの余韻だけが、通路に響いていた。
「……はぁ、はぁ……生きてる……僕、まだここにいますよね?」
ウィスパーが自分の頬を力いっぱい叩く。痛い。ちゃんと存在している。
「当たり前だ。……だが、俺の自慢の馬車をスクラップにしやがって。後で教授にたっぷり修理費を請求させてもらうぜ」
ゴーストが煤で汚れた顔で笑い、ウィスパーの頭を乱暴に、しかし温かく撫でた。
「いい耳だったぜ、ウィスパー。お前がいなきゃ、今頃雲の上のシミになってた。幽霊の仲間入りをさせるところだったな」
「……へへ、ゴーストさんのエンジン音、ちょっとうるさすぎましたけど。でも、あのおかげで、自分がどこにいるか分かりました」
通信機から、教授の満足げな声が響く。
「素晴らしいソロパートだったよ、二人とも。……さて、アイアンとルナたちが退屈している。さっさとその金庫を内側からこじ開けて、帝国の至宝を拝ませてもらおうか」
二人は顔を見合わせ、不敵に笑った。
空中金庫の奥深く。黄金の7人の快進撃は、まだ始まったばかりだ。
通路の先からは、かすかにアイアンの重火器が唸る音と、ルナの優雅な足音が聞こえてきていた。
ダバダ、ダバダ……
軽快なスキャットが、今度は金庫の密閉された空間で、静かに、しかし力強く反響し始めた。




