5
その二日後。
エルドガルドから受け取った書簡を懐に、ネフィレイシアは光の国へと旅立った。
その足取りが重いのは、まだ迷いを断ち切ることが出来ないでいるからだった。
どうするのが正解なのか、わからない。
けれどこのまま何もしないでもいられない。
魔法の杖に横向きに乗ったネフィレイシアは、冷えた風を全身に浴びながら、空中を飛んでいた。眼下に広がる荒涼たる国を過ぎたのち、山々を超えたそこに美しい都が見えてくる。光の都グラニアだ。
いつ見ても明るく穏やかで色彩豊かなその国に、胸を締め付けられる思いだった。
「あれ? なんだか今日は元気がないね」
「考えることがいっぱいあったの」
「なるほど。それで寝不足なんだ」
言ったジュニアスが、いつものように緩く笑った。
そうしてこれ以上は進ませないよというように、草原に降りたネフィレイシアの行手を阻む。
彼の背後にそびえる白亜の門の向こう──そこに目的の聖女はいるはずだった。
「顔色がよくないよ。今日は帰って休んだら?」
顔を覗き込むように言われて、ネフィレイシアは後ずさりそうになった。
確かにこの二日ほどはたくさんのことを考え過ぎて、眠ることが出来ないでいた。おかげで頭は熱っぽく、全身は倦怠感に見舞われている。
だからだろう。ジュニアスを前にしたとたん、いつも以上に落ち着かない気分になった。これから彼らを騙さなければならないのだから、当然のことではあるのだけど。
「平気よ、今日は戦いに来たわけじゃないもの」
ネフィレイシアは、エルドガルドから預かった書簡を取りだして、ジュニアスへと差し出した。
その真っ白な四角の封筒を見て、ジュニアスはわずかに眉をひそめる。
「一応聞くけど、なに?」
「エルドガルド王──私たちの王からの書状よ。これを、聖女様に渡して欲しいの」
「……なぜ?」
「私たちの国を、助けて欲しいのよ」
ジュニアスは、いよいよ怪訝な顔つきになった。
「は? なにを言ってるの?」
「もうあなたたちと争えるような状況じゃなくなったのよ。情けないけど、助けて欲しい。お願い、手紙を聖女様に」
縋るように言えば、ジュニアスは迷ったように顔をしかめながらも、手紙は受け取ってくれた。
「中を見ても?」
「ええ、もちろん」
頷いたネフィレイシアを見て、ジュニアスはすぐに封を切り、中の書状を確認した。その瞳が鋭く光る瞬間を、ネフィレイシアは見逃さなかった。
手紙を読み終えたジュニアスが顔を上げる。
「なるほどね」
ジュニアスの呆れたような物言いに、ネフィレイシアは気落ちしそうになった。けれどここで「やっぱり無理ですよね」なんて引き下がることは出来ない。
無様を承知で、ネフィレイシアは草原に両膝をついた。
ジュニアスがぎょっと両の目を見開く。
「ちょっ、ネフィレイシア……っ? なにを」
「これまであなたたちの国を散々襲っておいて、虫のいい話だってことはわかってる。あなたが怒るのも無理はないわ、ううん、当たり前よ。だって、私たちはあなたやあなたの聖女様を殺そうとしていたんだもの」
「……ネフィレイシア、わかったから、とにかく、立って」
「いいえ、このまま言わせて。──私たちの国は、本当に後がないの。私の母も病で身体の半分が動かないし、魔物に襲われて村もいくつも滅んだわ」
「……」
「だからお願い。私たちを助けて。今までのことは全て謝ります。エルドガルド陛下は、聖女様がお手を貸してくださるのなら、自分の首を差し出しても構わないともおっしゃっています」
ジュニアスは片手に持っていた書状をちらりと見返した。
「確かにそんなことが書いてあるけど、本当、勝手だよね」
ここで交渉が決裂したら、全てが終わりだった。ネフィレイシアは故郷の惨状を思い返し、ようやっと覚悟を決める。どう転ぶにしても、出来るだけのことはしなければ。ネフィレイシアはここが踏ん張り時だとジュニアスを見上げたまま、掠れた声を上げる。
「……ジュニアス、お願い。聖女様に手紙を渡して」
「……」
ジュニアスは懇願を続けるネフィレイシアと書状とを見比べ、小さく息をつく。
「君と戦わなくて済むようになるなら嬉しいけど」
ネフィレイシアに視線を定めて、言った。
「正直、難しいと思うよ。君が思っている以上に、グラニアの民は君たちを疎んでいるから」
「……助けてくれるのなら、どんな条件でも飲むわ」
「どんな条件でも? 本当に?」
「ええ」
「奴隷になれって言われても? 足に枷を嵌められて、食事も制限されて、それでも、俺たちの国で生き延びたい?」
「……そんなこと、するの」
思わず顔を硬らせてしまったネフィレイシアに、ジュニアスは苦く笑った。
「ごめん、冗談だよ。そんなこと、聖女様が絶対にお許しにならない。彼女は、とても優しい人だから」
そうして重い重いため息を吐くと、言った。
「いいよ。掛け合ってみる。でも、期待はしないでくれよ?」
「! ……ほ、本当に? いいの?」
「ああ、そう言ってる」
成功したのだ。一応、だけれど。
ネフィレイシアは嬉しくなって、ぱっと顔を輝かせていた。
「ありがとう! ありがとうジュニアス! これで一歩前進だわ……っ!」
「……まだ礼を言うのは早いと思うけど」
「いいえ。断られて当然だったんだもの、これは大変な事態だわ」
「なにその言い回し。独特だね」
くすくすと笑ったジュニアスは、これまで見たなかで一番自然な笑顔を浮かべていた。
彼は本当は、塀の向こうでは、そんな風に笑うのだろう。
そう思うと、ネフィレイシアの心は不思議と痛んだ。なんだろう、これは。
「ほら、立ちなよ」
まだ笑顔を浮かべたまま、ジュニアスは未だ地べたに手をついていたネフィレイシアの手をとり、支え起こした。すぐそばで彼のいい匂いがして、心臓がうるさく跳ねる。どうして。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
ジュニアスはまるで、王子様みたいだった。
「これで君たちとの戦が収まるのなら、俺たちだって願ってもないことだ。なんとか同盟国になれるよう、頑張ってみるよ」
「……迷惑をかけるわね」
「ですね」
そう軽口を言うジュニアスも、きっとネフィレイシアを疎んでいたのだろうに。
彼も、母やレティと同じで、全てを水に流し、平和を築こうとしているのかもしれない。だったら私は、やっぱり──。
また迷いそうになって、ネフィレイシアはジュニアスから手を離した。
そうして聞いてみる。
「聖女様は、いいお返事をくださるかしら」
「彼女の独断で決められることならね、喜んで助けに行くと思うよ。そういう子だ」
「子って……聖女様っておいくつなの?」
「十四になったばかりだよ。まだまだ子供だろ」
だからいつも、お守りをしなくちゃと言っていたのだろうか。
ネフィレイシアは、ついでとばかりに尋ねる。
「聖女様ってどんな子なの?」
あなたが守っている人は。
緑豊かな草原を、爽やかな風が遊ぶように吹き抜けた。
ジュニアスの金色の髪が揺れて、優しい瞳があらわになる。
「可愛い子だよ、おっちょこちょいで、ちょっと抜けてて。お目付役にもよく怒られて泣いてる」
「まあ」
「でも、すごく優しい子だ。お節介で、世話焼きで、人を疑うことも知らない」
そこでジュニアスの視線に、ほんの少し鋭さが増す。
「だから、もし彼女を傷つけたり騙そうとしている者がいるのなら、俺は絶対に容赦はしない」
一瞬、計画を見破られたのかと思った。けれどそうではなかった。
ジュニアスはネフィレイシアを見つめ、そっと言った。
「期待はさせてあげられないけど、聖女様を味方につけることは出来ると思う。話はそれから、かな。そうだ、連絡は、どうしたらいい?」
「私の伝令鳥を残していくわ」
「わかった、三日後までには必ず飛ばすよ」
「ええ。待ってる」
計画を聞いてくれて、伝達役を引き受けてくれて。
ジュニアスは、やっぱりいい人なのだろうか。
いい人なのだろう。
そんな彼を、ネフィレイシアは欺こうとしている。
だから先ほどから感じているこの胸の痛みは、良心の呵責なのだ。
ネフィレイシアは伝達鳥を召喚すると、それをジュニアスへと渡した。
どうしてか、今は少しでも早くジュニアスと離れたかった。
「それじゃ、お願いするわ」
「うん、君も気をつけて」
ネフィレイシアは目を瞬かせる。彼とは何度も相まみえているけれど、そんなことを言われたのは、初めてだ。
「心配してくれるの?」
「友達になるなら、当然だろ」
言って、柔らかく微笑まれる。
その笑顔に、ネフィレイシアの心はまた甘く苦しくなった。
「……そ、そうね。あなたも、気をつけてね」
「うん、ありがとう」
優しい声に、耐えられなくなった。
ネフィレイシアは杖に横向きに腰掛けると、ふわりと浮上する。叫ぶように言った。
「さよなら」
「さよなら、またね」
ジュニアスが片手を振る。まるで友人にする挨拶のように。
私は間違ってる? それとも正しいことをしてる?
凄惨な過去が聖女を許すなと言う。
けれど今の聖女にはなんの罪もないのに。
ネフィレイシアは小さくなるジュニアスの影から、目をそらした。
◆
「有り得ません。罠に決まっています」
そう言うと思った。
その夜、エルドガルド王からの書簡を持ち帰ったジュニアスは、ネフィレイシアとの約束通りに七人の騎士と王と王妃それから聖女を呼んで闇の国の援助を提案した。
国の大事を決めるために設けられた広い部屋には、二つの派閥が分かれている。
闇の国を助けるべきだと綺麗事を並べる者たちと、絶対に彼らを城へ入れてはならないと拒否する者たち。
ジュニアスは、先ほどから声を荒げている騎士の一人──ベルティオに目を向けた。
「しかし、書簡を持ってきた伝令役の魔女は明らかに疲弊していました。嘘とは思えません」
ネフィレイシアの青白い顔や、ローブから時折覗くぞっとするほどに痩せた手足を思い出して、ジュニアスは言った。
腰まである真っ直ぐな黒髪も、今は淀んで見える大きな黒目も、本当はもっと艶やかであれば可愛い子だと思うのに。いつもネフィレイシアは、ぼろぼろだった。あんな娘を相手に、本気など出せるわけがない。
よほどあの娘の国はひどい有様なのだろう。
ジュニアスは憂いながら、必死に膝をついてきた、ネフィレイシアを思った。
まるで気位の高い猫のようにつんとすまし、幾度も幾度も単身で向かってくる哀れな魔女。そんな彼女が、あんなに縋ってくるなんて、予想だにしないことだった。
「あの国は放っておいても終わる──もういいでしょう」
百年も前の恨みなど、捨て去るべきだ。
彼らはやっと歩み寄ろうとしてくれたのだから。
しかし、ベルティオは反対意見を斥けることはなかった。
「なにを世迷言を。あの国が我々になにをしたか、貴殿はもうお忘れですか」
激昂したベルティオの勢いに王妃が怯え、王がたしなめた。それでもベルティオの怨嗟は止まらない。
「あの国はかの戦争で我々の先祖を奴隷にし、服すら与えず鎖をつけて飼い慣らし、横暴の限りを尽くしたのですよ。……あまつさえあいつらは、生きたまま聖女様を火炙りにしようとした……死病? 貧困? 当然の報いでは有りませんか。あの毒は、そもそも彼らが作り出したのですから」
やはり、そこに行き着いてしまうのか。
ジュニアスは頭を抱えた。
──今もなお、ネフィレイシアの国を蝕んでいる毒。
それを放ったのは当時の聖女で。
しかしその毒を作ったのは彼ら自身だと、ジュニアスたちは伝え聞かされていた。
だから、あいつらが苦しむのは罰、当たり前なのだと、幼い頃から教育されている。
けれど、聖女だけは違った。
「あの、でもそれ、本当なのかな?」
重い空気を打ち消すような、軽やかな声だった。
ジュニアスはベルティオに気付かれないよう俯き加減で浅く微笑む。
やはり、彼女は味方についてくれるようだった。
ベルティオが王と王妃の間に座る聖女を見つめ、苛立ちを隠すことなく言った。
「事実ですと、何度申し上げたらご理解くださるのでしょうか、我が君」
「でも、それって百年も前のことなんでしょ? 誰も見てないじゃない。毒を誰が作ったかなんて、わからないわ」
「姫さま、お言葉遣いが……」
「あ、ごめんなさい」
ぺろっと舌を出した聖女に、教育係も兼ねている聖騎士──ウィンネルが呆れたような息を吐いた。それでも聖女はめげなかった。
身を乗り出し、父王から書簡を借りて読みこむ。
「ほら、このお手紙ちゃんと読んでよ。とっても字が綺麗だし、文面も丁寧だわ。切々とした思いが伝わってくる。私にはわかる、闇の国の人たちは本当に困ってるのよ。助けるべきだわ!」
「姫さま」
ウィンネルが感動したように目を潤ませていた。
「ご立派になられて……」
「でしょでしょ、もっと褒めて」
にこにこと笑った聖女──本名はユナと言う。
ユナはジュニアスを見つめると、決心したように強く頷いた。
「ジュニアス。その肩の青い鳥さんが、魔女さんの鳥なんでしょう? 早く飛ばしてあげて、きっと今も苦しい思いをしてるに違いないわ」
「わかりました」
「なりません──!」
声を荒げたベルティオに、ユナは白い頬を膨らませた。
「もーベルティオしつこい。せっかく決まりかけてたのに」
「あのような者達を城に招き入れるなど、私は断固として反対しますからね」
「……本当に心配性ね。大丈夫よ! だってもしものときはあなたが助けてくれるでしょ?」
「命に代えてお守りはしますが」
「命には代えなくていいから」
そこまで言ったユナは、ふう、と疲れたように頬杖をついた。(ウィンネルが感動の涙を引っ込めて「姫さま」と小さく注意をした。しかしユナの耳には届かなかった。)
「せっかく仲直りできるチャンスなのに……もったいない」
そうしてユナは、少し考えたように腕を組んだあと、それじゃあ、とベルティオに顔を向けた。
「こうしない? 城に入場するのは、まず伝令役の魔女さんと、エルドガルド陛下だけにしましょう。もちろん、魔力を封じてね。それから詳しく話を聞いてみましょう」
「いいお考えだと思いますよ」
ジュニアスの助け舟に、ユナはホッとしたように笑った。
穏やかな気質の国王も「それがいいだろう」と頷く。
当日は、厳重に警戒をすることとして、受け入れてみようと、そうした話になった。
「グラニアの人たちがどう思うかも心配だけど、こんなお手紙をもらっちゃ、放って置けないものね」
解散時、ユナはジュニアスにそう囁いた。
黙ってさえいれば薄幸の美少女にも見えるユナ。
その淡い金色の髪が、月光を浴びてきらきらと輝いていた。伏せた金色の睫毛は影を落とすほどに長く、黄金色の彼女の瞳を優しく守っている。
月と太陽に愛された莫大な魔力を持つ聖女。
守るべき存在に、ジュニアスは「そうですね」と笑顔を向ける。
その夜、ジュニアスは王城のバルコニーからネフィレイシアの伝令鳥を飛ばした。
大きな羽を広げ、鳥はあっという間に星空に吸い込まれていく。
これが平和の幕開けになりますようにと、ジュニアスは祈りを込めた。
読んでくださってありがとうございます。




