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緑豊かな肥沃の大地。
あるいは季節ごとに移ろう農園。
色とりどりに咲き誇る花と、底まで透る澄んだ川。
全て全て、ネフィレイシアの国にはないものばかりだった。
翌日。
城の召使いたちが洗濯に勤しみ始めた頃。
母との朝食を終えたネフィレイシアは、親友であり盟友の魔女、レティの研究室を訪ねることにした。先日協力して作ってもらった魔法の性能について、報告をしようと思ったのだ。
レティは研究室として、王城の片隅にある古びた館をあてがわれていた。(その昔、時のお妃様が建てた別居用のお屋敷なのだそうだった。)
彼女の研究は、炎や爆薬など危険物を扱うことが多いため、王城からは離れた施設で行う必要があったのだ。
ネフィレイシアは、花の一輪もない砂と雑草だらけの庭園を過ぎ、ややあって見えてくる二階建ての小さな屋敷の戸を叩いた。
「いらっしゃい! ネフィ、来ると思ってたわ」
ネフィレイシアが突然訪ねても、レティは快く迎え入れてくれた。
そうしてネフィレイシアが口を開く前に、その紅い瞳を細めて、残念そうに微笑む。
「──やっぱり駄目だったのね」
ネフィレイシアの表情で、考案した魔法の結果がわかってしまったのだろう。
ネフィレイシアは申し訳なさで胸をいっぱいにしながら、レティに謝罪した。
「ええ、ごめんなさい。あんなに手伝ってくれたのに……聖騎士には、効かなくて」
「ネフィが謝ることじゃないわ。聖女の加護がそれほど強大だったってことでしょ」
レティは言いながら「とりあえずお茶でも飲みましょう」と、踵を返した。
肩につくかつかないかの長さの、瞳と同じ紅い色の髪がふわりと揺れる。その耳元には、これまた紅い石のピアスが光っていた。魔術師の象徴でもある黒いローブの縁には、彼女自ら刺繍をしたのだという繊細な紅い花が指されている。
レティはいついかなる時も、可愛さを愛して止まなかった。
「こっちよ」
薬品棚やよくわからない実験器具、床から天井近くまで山積みになっている本などを横目に、ネフィレイシアはレティの後を追った。
いつ訪れても、彼女の研究室は混沌としていた。国からの要望や催促が激しく、片付ける暇もないらしい。
レティは優秀な魔女ではあるものの、いわゆる穏健派で、魔物も争いも怖がっていた。故にレティ自身は滅多に出陣はせず、こうして魔法の開発などの後方支援に当たってばかりだった。
けれど、その心の内は葛藤に満ちているに違いなかった。意に沿わない仕事、人を傷つけるための魔法を作らされているのだから。
ネフィレイシアを客室へ招き入れたレティが、紅茶のポットに茶葉を入れながら言った。
「ねえ、ネフィ、相談があるんだけど」
「? なあに?」
「……あのね、私、陛下に停戦をお願いしてみようと思うの」
客用の長椅子に腰を下ろしたネフィレイシアは、眉をひそめた。
背の低いテーブルを挟んだ向かいで、お湯を慎重にポットに注ぎ入れる親友を見つめる。
親友の視線は、物憂げにポットに落とされていた。ネフィレイシアはじっとその作業を見守る。
「どうして?」
「だって……これ以上戦を長引かせても、勝ち目はないもの。そうでしょ?」
レティが考えに考えて編み出してくれた炎の魔法。
あれすら効かなかったとなれば、もはや打つ手がないということなのだろうか。
それとも、繰り返される攻防に疲れ果ててしまったのか。
ネフィレイシアは、何とか親友を思いとどまらせる方法がないかと考えた。けれど、これといった案は思いつかなかった。
聖女を倒せない以上、確かに勝ち目はなかったからだ。
レティが言った。
「だからね、ネフィ。あなたにも協力して欲しいの」
「陛下の説得に?」
「ええ」
「……難しいと思うけど」
ネフィレイシアは、国王の鋭い視線を思い出して呟いた。
先王亡き後、若くしてその地位についた現在の国王は、聖女討伐に誰よりも執心している。
彼もまた、父母や兄弟──大切な家族を喪っているからだった。
「でもネフィ、無理だって諦めていたら、この国は本当に終わってしまうわ」
「レティ……」
紅茶を蒸らす間、レティは悲しげにネフィレイシアを見つめた。あの国で一度だけ見たことのある、林檎という果物に、その瞳の色はよく似ていた。深く紅く、甘い、優しい色だ。
「お願いよ、ネフィ。協力して」
親友の懇願に、ネフィレイシアは戸惑った。
(停戦──そうね、一時的に引くだけなら。)
昨夜の母の言葉も手伝って、小さく顎を引いて頷いた。
「援護にもならないと思うけど……」
「十分よ! ネフィがついてきてくれるだけで全然意味が違ってくるわ! だって、ネフィが一番聖騎士に挑んでいるんだもの」
レティはぱっと顔を明るくしたが、やっぱりすぐに悲しげな笑顔に戻った。
「ごめんね……私に勇気がなくて」
「……ううん」
魔物は恐ろしく、聖騎士は強すぎる。だから、それを怖がるレティの気持ちはよくわかった。
ネフィレイシアはにこりと笑った。
「お茶を飲んだら、早速陛下のところに行きましょう」
「ええ」
しかし、ふたりの策略は上手くはいかなかった。
その数分後。
魔物に村が襲われてしまったと、伝令が入ったからだ。
◇
「ご報告申し上げます」
こわばった表情で、ロアンデールが言った。
「昨夜。魔物の襲撃に遭い、北方の村がひとつ壊滅しました」
急遽王城の一室に集められたのは魔術師と騎士、それから国王陛下その人だった。
木製の円卓をぐるりと囲んだその数は、二十にも満たず、そうしてその全ての人間が、緊張に固まっていた。犠牲者の数をロアンデールが口にすれば、さらに空気は重くたちこめるようだった。
「魔物……そうか」
ややあって響いた国王陛下の静かな声に、ロアンデールが大きく息を吸い込む。
国王陛下は、その青く冷たい氷にも似たほっそりした瞳を、ロアンデールに向けていた。ロアンデールの声は、哀れなほどに乾いていた。
「……陛下、もはや一刻の猶予もございません。聖女を亡き者とし、国を奪還いたしましょう」
「なりません!」
そこで叫んだのは、レティだった。ネフィレイシアと共に王城へ駆けつけたレティは、凶報にひどく動揺していた。卓についた両手を震わせながらも身を乗り出して、国王に言い募る。
「今まで策を練り数を合わせてもどうにもならなかったものを、どうして勢いだけで勝てるでしょう────私たちは聖女殿に、救済を申し出るべきです」
レティの提案に、騎士のうちのひとりが、呆れたようなため息をつくのがわかった。
ネフィレイシアはそっと国王の反応を窺い見る。
円卓の上席に腰を下ろしていた王──エルドガルドは、ゆっくりと口を開いた。
「レティ。つまりお前は」
深黒色の前髪を全て後ろに流したエルドガルドは、端正な顔を曝け出したままだった。だと言うのに、そこからはなんの感情も読み取ることは出来なかった。二十代後半にして玉座を引き継いだ彼には、すべての事柄が唐突すぎたのかもしれない。父王の死も、急速に悪くなる国情も。
「この私に命乞いをしろと、そう言うのだな。あの聖女に膝をつき、頭を下げろと」
「……皆で生き延びるためです」
エルドガルドは背筋を伸ばしたまま、レティをじっと見つめていた。
「……あの国が私たちに何をしたのか、忘れたわけではあるまいな」
その反論は承知の上だったのだろう。
蒼白となりながらも、レティは毅然と顔を上げていた。そこに彼女の、揺るぎない信念を垣間見たような気がして、ネフィレイシアは目を見張った。レティはまるっきり自分の正しさを信じていた。だから震えながらも、こんなにも堂々として折れないでいられるのだ。
「陛下。どうか目をお覚ましください。罪を犯した世代はとうの昔に滅びました。我々も全てを水に流し、前に進むべきです。でなければ、このまま私たちは、終わってしまう」
場にいた大半の人間は、唸るように目を伏せた。
貧困と恐ろしい病、それに伴い減っていく人々の数。
聖女との絶対的な力の差。
あの国に勝つことはもはや不可能だと、本当は皆、気付いていた。
けれど口にはしない。
出来ない。
それを口にすれば、今まで戦ってきた者たちの命が無駄になってしまうからだ。そんなに虚しいことはない。今までの苦労が全て水の泡になるなんて耐えられない。
だから国王は目を背けていた。魔術師たちも、騎士たちも。
でも、そろそろ現実と向き合わなければいけないのかもしれない。と、レティの必死な形相を見て、ネフィレイシアはさとった。
しかし国王は「ならぬ」とレティの進言を退けた。
「降伏は出来ぬ。それだけは無理だ」
「陛下」
「だが、お前のおかげで良い策を思いついた。──ネフィレイシア」
突然自分の名を呼ばれ、ネフィレイシアは弾けるように顔を上げた。冬色の怜悧な青、鋭い視線とかち合う。
「はい」
声がひっくり返らなくて良かったと思いながら、ネフィレイシアはエルドガルドに向き直った。そうして、彼の発案を一言一句聞き漏らすまいと集中した。
それは、端的に言うと罠だった。聖女に援助を乞い近づき、内側から光の国を攻め落とそうというもの。その計画の諜報員に、ネフィレイシアは抜擢されたのだった。
しかし、計画を聞かされたネフィレイシアたちはそれぞれに顔を見合わせて困惑した。
なぜなら、これまでにも似たような作戦が実行され、しかもその全てが失敗に終わっていたからだ。
不安そうに顔を曇らせる臣下たちに、エルドガルドは鷹揚に頷いた。
「案ずるな。あの国へは、私も共に乗り込むつもりだ」
騎士のひとりが、声を荒げる。
「……っ! しかし、そのような危険を陛下に負わせるわけには」
「わかるだろう。もう後戻り出来ぬところまできておるのだ、私たちは」
言って、エルドガルドはふたたびネフィレイシアを見つめる。
「危険を承知で頼む。ネフィレイシア、計画の前段階として彼の国との橋渡しになってくれ。お前は、よく聖騎士と遭遇しているそうだから」
熱心に聖女の鍵を奪おうとするネフィレイシアを、エルドガルドは高く評価していた。
ネフィレイシアは手にしていた魔法の杖を強く握りしめる。
迷っていた。
降伏すべきか、最後まで誇り高く戦うべきなのか。
先ほどからずっとレティの祈るような視線が真横から注がれていた。
王が迫るように言った。
「急ぎ書簡を認める。お前はそれを聖騎士に渡すのだ。良いな」
ネフィレイシアは、頷くことも、断ることも出来なかった。




