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◇
「計画を実行する」
夜。ネフィレイシアの部屋を訪れたロアンデールは、小声でそう告げた。
この数ヶ月城内の人々とも友好を結んできたおかげで、監視の目は緩んでいる。とはいえ長時間の接触は危険だった。扉付近で就寝の挨拶を交わすそぶりを見せながら、ロアンデールは、ネフィレイシアの手に、小さく折りたたんだ紙を握らせる。そうして「また明日」と言い残すと、足早に去っていった。
ひとりきりになった部屋で、ネフィレイシアは急いで紙を広げた。描かれていたのは、円や線や魔術文字が複雑に配置された文様──レティの編み出した炎魔法だった。
ついにその時がきてしまったのだと、ネフィレイシアは文様を睨むように見つめる。
この紙切れだけでは術は発動しない。ただの紙だ。術を発動させるには、聖騎士たちに預けている杖を返してもらうしかない。すっかり油断しきっている今のユナに頼めば、杖は、すぐに返してもらえるだろう。エルドガルドから頼めば、なおさら。
あとは簡単だ。ユナを人質にとり、聖騎士を膝まづかせ、この国を奪う。それが復讐の終わり。
でも。
ここまできて、未だネフィレイシアは決断しきれないでいた。
ついさっきバルコニーで過ごしたジュニアスとのやり取りを思い起こしてうなだれる。彼は絶対に助けると言ってくれた。優しい人だ。騙されているだなんてこれっぽっちも考えていない。ネフィレイシアを助け励まし大切なユナを危険に晒してまで味方になってくれている。
そんな彼を裏切って、本当にいいのだろうか。
ここずっとネフィレイシアに巣食っていた罪の意識が、また頭をもたげる。──いいわけがなかったからだ。
ネフィレイシアは術式の描かれた紙をそっと折りたたむ。
犠牲になった父と病に苦しむ母。ふたりを想えば、まだ彼らを許せないと思う。憎いと思う。それでも、この怒りをぶつける相手は彼らではないとも思ってしまうのだ。
そばの大きな窓から見下ろした夜景には、いくつもの灯りが輝いている。この国で暮らす人々の灯りだ。彼らにだってなんの罪もない。
ネフィレイシアは決意した。急いで寝衣の上からローブ羽織り、暗い廊下に出る。見張りの目をかいくぐって目指すのは、レティに割り当てられた個室だった。
計画を実行するのは明日の予定だ。今ならまだ間に合う。復讐に反対していたレティなら協力してくれるはず。一緒にエルドガルドを説得して、計画は取りやめてもらおう。
ネフィレイシアは、慎重に廊下を進んだ。怖くはなかった。正しいことをしているのだという確信があったからだ。やっと──これからはやっと、ジュニアスとなんの後ろめたさもなく、本当の付き合いが出来る。
そんな未来を想像すると、不思議と心が温かくなった。
けれどその未来を実現させるためには、まず、エルドガルドを説得しなければならない。
ネフィレイシアは気を引き締めつつ、壁づたいに歩いた。と、暗い廊下の奥から、オレンジ色の揺らめく光が見えた。光はゆっくりとした速度でこちらに近づいてくる。僅かに警戒しながら、ネフィレイシアはだんだんと大きくなる光を見つめた。
「……誰?」
問いに答えるように、行く手で立ち止まったのはユナだった。
供のひとりも連れず、白い寝衣姿のまま、燭台を片手にしている。ネフィレイシアは驚いて駆け寄った。
「ユナ、どうしたんです。こんな夜更けに」
「……ちょっと眠れなくて」
「ジュニアスは? 今夜は彼がついていたはずでしょう?」
冷えますよ、とネフィレイシアは自分のローブを脱いで、彼女の細い肩にかけた。ユナはありがとうと微笑むと、悪戯が見つかった子供のように肩をすくめる。
「少しだけひとりになりたくて、わがままを聞いてもらってたの。でも、そろそろ迎えに来ちゃうと思う」
「ひとりにって、どうして……」
言いかけて、ユナの歩いてきた廊下を見やる。この奥には、エルドガルドの部屋があった。まさか、ネフィレイシアも知らないうちにふたりはそんな深い関係になっていたのだろうか。
暗闇を見つめて言葉をなくしたネフィレイシアに、ユナは慌てて否定した。
「ちが、違うわ! あなたが想像してるようなことはなにもない! 陛下とも結局お会い……してないし」
言いながらだんだんと勢いをなくし、最後は悲しそうに俯いたユナに、ネフィレイシアは首を傾げる。
「では、なにを」
「…………私もふたりきりでお話してみたかったの」
「え?」
聞き返したネフィレイシアを、ユナは羨ましげに見上げる。
「覗き見するわけじゃなかったけど、さっき、あなたとジュニアス、バルコニーでいい雰囲気だったでしょ? ……いいなって思ってしまって。だってね、私、どんな時も護衛がついてるでしょ。まあ、それは別に、いいんだけど。でも、たまには護衛なしで、陛下とお会いしてみたくなって……それで、ジュニアスに無理を言って少しだけ自由時間をもらったの。でも──いざ陛下にお会いしようと思ったら、緊張しちゃって、扉も叩けなかったわ。せっかく時間をもらったのに」
ネフィレイシアは、今にも泣きだしそうなったユナを見下ろした。それほどまでにユナは、エルドガルドに恋をしているのだろう。
「ユナ」
残念ながらネフィレイシアには、少女の恋を叶えてあげることは出来ない。けれど、和平が成り立てば、仲をとりもつことくらいは出来る。
ネフィレイシアはそっと背をかがめると、囁くように言葉をかけた。
「ユナは、陛下を愛してくださっているんですよね」
「……え? ……あ、あの」
言われてやっと、隠していたはずの恋心を打ち明けてしまったことに気づいたようだった。
ユナは必死になって、ネフィレイシアの袖を掴む。
「お、お願い、まだ誰にも言ってないの。内緒にして」
その慌てぶりを可愛く思いつつ、ネフィレイシアはしっかりと頷いた。
「ええ。誰にも言いませんとも。魔女の盟約は絶対です」
「……ジュニアスにもよ? 絶対彼、笑い転げるわ」
「そうでしょうか」
既にジュニアスも気づいていると知ったら、いよいよ泣き出してしまうかもしれない。うろたえるユナを哀れに思いつつ、ネフィレイシアは、その細い手をとった。
「案外、協力してくれるかもしれませんよ?」
「……そうかしら。反対はしないだろうけど、彼、仕事ばっかりで恋人もできたことないみたいだから、この手の話はあてに出来ないわ」
「それだけ仕事熱心なんですよ。ユナのことが大切だから」
「……そんなんじゃないと思う」
ユナを部屋まで送り届けようと歩き出したネフィレイシアの隣で、少女は、少し寂しげにうつむいた。
「私、はっきり言って彼より強いのよ。だから本当は、こんな、四六時中警護される必要なんてないの」
なのに、と深いため息をこぼす。
「ジュニアスは私を気遣ってくれてるの。私は、ずーっとこの国でみんなを守らなくちゃいけないから。それが役目で他に自由がないから、彼は、憐れんで一緒にいてくれてるのよ」
「そんなことはありませんよ」
ネフィレイシアは即座に否定する。
確かにジュニアスはいつもユナを気にかけている。何をするにも彼女が最優先で、彼女の身の安全を第一としている。けれどそれは決して憐れみからくるものではない。ユナを想ってのことだ。あれは、あの瞳は、慈しみだ。わかって欲しくて、ネフィレイシアはいつになく感情的になる。
「彼は本当に貴女を大切に想っています。どうか疑わないで」
けれどユナは首を振る。
「ありがとう。でもね、私にはわかるの。ジュニアスはいつも私に〝申し訳ない〟って思ってる」
「……どうして、そんなことを思うんです?」
ユナはほんの少し、迷ったように口をつぐんだ。
──何を言おうとしていたのか。あるいは何も言わないつもりだったのか。しかし結局ネフィレイシアにはわからなかった。エルドガルドが、声をかけてきたからだ。
「ネフィレイシア────ユナ」
低くこもったような声に振り返れば、主君エルドガルドが灯りも持たず暗闇に立っていた。驚いたのは、彼の手に奪われて懐かしい愛用の杖があったからだ。どうして。と、ネフィレイシアは杖を凝視する。
「陛下……?」
「ちょうどよかった。お前の部屋に行こうとしていたところだった。ユナは、こんなところでなにを?」
歩み寄りながら、エルドガルドはさりげなく杖をネフィレイシアへと渡す。恋に溺れているユナは、それどころではないのだろう、エルドガルドに視線を注いだままだった。
「あ、あの、少し夜風にあたりたくて」
「そうか。でもここは冷えすぎるだろう」
「いえ」
エルドガルドはユナと言葉を交わしながら、優しげな笑みを向ける。ネフィレイシアは何故エルドガルドが杖を手にできたのか分からなくて混乱していた。
まさか。エルドガルドは、晩餐会の最中、もう既に、ユナに杖のことを頼んでいた?
嫌な予感に、じわりと汗が滲みだす。
ユナは頬を染めていた。
「杖、気づいてくださったんですね。よかった」
「ああ。手間をかけた。ありがとう」
ユナの魔法はこの世界の誰よりも強く優れている。誰の目にも触れぬよう杖を一本別室へ移動させることくらい、わけもないのだろう。
ネフィレイシアは焦ってエルドガルドに詰め寄った。
「陛下、急ぎのお話が」
しかし復讐の機会を得たエルドガルドが止まるわけもなかった。
「ところでユナ。いつもの護衛役が見当たらないが、私たちは随分と舐められているのだろうか」
「え?」
ユナに向けられるエルドガルドの声は、相も変わらず優しげだ。しかしその目は笑っていない。仇敵を見下ろすエルドガルドは、ユナの手首を捕らえる。
「……陛下?」
なにが起こっているのか、お姫様はわかっていなかった。ユナに構うことなくエルドガルドはネフィレイシアに「術を」とだけ命令する。ネフィレイシアは杖を握ったまま、主君に懇願した。
「できません、陛下。どうかこのまま和平を」
そう、言いかけた時だった。
「ユナ? ……ネフィレイシア?」
ユナを迎えにきたのだろう。松明を手にゆっくり歩いてきたジュニアスと目が合う。不思議そうにこちらを見ていた彼は、やがて暗がりの奥にエルドガルドと彼に囚われているユナを見つけると、表情を一変させた。
「陛下、なにを」
そこでネフィレイシアが握りしめている杖を見つけて、すべてを理解した彼は愕然とする。さきほどまであんなにも温かかった瞳は熱を失った。
「君に、杖を返した覚えはないんだけどな」
それは、今まで一度だって聞いたことない、ぞっとするような冷たい声だった。
「違うのジュニアス、これは」
ネフィレイシアを庇おうとしたのか、叫んだユナを、しかしエルドガルドが強引に引き寄せる。ジュニアスの纏う空気がさらに冷たくなった。
「残念です、エルドガルド陛下」
ジュニアスは松明をそばの壁にかけると、ゆっくりと剣を引き抜いた。
ああ遅かった。
もっと早く決断できていれば。
ネフィレイシアは後悔にひざまづきたくなりながら、ジュニアスの剣が自分に降り下ろされる様を見つめる。杖を弾かれて、手に鋭い痛みが走る。次いでジュニアスは、エルドガルドに剣を向けた。
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