10
グラニアの白い宮殿には、たくさんの窓が設けられている。
まぶしいほどの陽光が降り注ぐ中、ネフィレイシアは、エルドガルドとジュニアスの後ろを歩いていた。これから、ユナの見舞いに向かうのだ。
見舞い用の花束を抱えたネフィレイシアは、とつとつと話す主君とそれに朗らかに応えるジュニアスを見つめる。
あの浄化実験の日から、七日が経っていた。
翌日にはユナは回復していたようなのだが、ベルティオがうるさく、結局見舞いは今日までお預けとなっていたのである。
ユナの私室は宮殿のさらに奥──ネフィレイシアたちが立ち入りを禁じられている場所にあった。
「短時間だけだけど」と、ジュニアスが断りつつ、騎士服の胸ポケットから鈍い黄金色の鍵を取り出す。それはネフィレイシアがずっと付け狙っていた、聖女の部屋に通ずる鍵だった。チラリと見えた細い鍵を、食い入るように見つめてしまう。ガチャリと扉が開いたとたん、ジュニアスと目が合ってしまい心臓が跳ねた。怪しまれはしなかっただろうか。
「どうぞ」
厳重に警護された宮殿の中。
例の如く杖も武器も回収されている無防備なネフィレイシアとエルドガルドを、ジュニアスは警戒したりしない。すんなりと、招くように誘導された。
なんとも思われていないのだ。
ネフィレイシアは顔を逸らすようにしてエルドガルドの影に隠れた。
扉の奥にも廊下は続いていて、そのさらに先の扉の向こうに、ユナはいた。
「ネフィレイシア、陛下」
広い部屋の中央、据えられた長椅子に座っていたユナが、ジュニアスに連れられたネフィレイシアたちを見て、大きく目を見開く。立ち上がり、こちらに駆けてくる彼女の顔色はすっかりよくなっていた。ネフィレイシアは、ほっと胸を撫で下ろす。
すぐそばで立ち止まったユナは、ネフィレイシアとエルドガルドを交互に見上げながら──エルドガルドのことは長い間見つめていられないようだったが──嬉しそうな声をあげた。
「びっくりしちゃった。どうしたの? こんなところまで」
「遅くなってしまったけど、お見舞いに」
「まあ」
ユナは感嘆して、ネフィレイシアから花束を受けとる。
「ありがとう」
「体調は、本当にもういいの?」
ネフィレイシアが問えば、ユナはにこにこと答える。
「ええ。治癒魔術師につきっきりで看病してもらったから。それに私、もともと身体は丈夫な方なの」
言って、握り拳を作って見せる。しかし袖から覗く白くて細い腕は、やはり頼りなくしか見えなかった。ジュニアスたちが過保護になるのも無理はないほどに。
「ユナ」
ネフィレイシアの隣から、エルドガルドが鎮痛な声をあげた。
「本当にすまなかった。ネフィから、始終を聞いた……苦しかっただろう」
ユナが倒れてからずっと、エルドガルドはこの調子だった。普段以上に言葉数が減り、食事さえまともに取ってはくれない。
〝その時〟が近いからだ。
ごめんなさい。
ネフィレイシアは心優しいユナを想って、言葉にださず謝罪する。なんの意味のないことだと分かってはいても、謝らずにはいられなかった。
「陛下がお気にされることではありませんわ」
ユナがそわそわとエルドガルドを見上げて言う。
ネフィレイシアやジュニアスと話す時とは違う。頬を染め、落ち着かなげに、けれど懸命に言葉を紡ぐ。
「私が言い出したことですし……ジュニアスたちには心配をかけてしまいましたけど、ザレンチアノを目にすることが出来てよかったと思っています」
エルドガルドが、微かに苦笑した。
「枯れた土地だったろう」
「……昔の文献を読みました」
ユナが唐突に切り出す。なんの話だろう。聖女は、静かに言った。
「昔の──大戦前のザレンチアノは、それは美しい都だったそうですね。グラニアより土地も広くて、建物は雲に届くほど壮大で、月と星で、夢みたいに美しい街だったと、古い文献に、残っていました」
そもそも大戦は、それに嫉妬したグラニアの人々が起こした戦いだとか。そんなものは作り話だとか、たくさんの説が残っている。ネフィレイシアも、エルドガルドすら知らない、美しかったはずの故郷。
「時間はかかるかもしれませんが、いつか、少しずつでも浄化出来たらいいと、私は思っています」
「……ユナ」
ジュニアスとエルドガルドの声が重なる。ユナは湿っぽくなった空気を払拭するかのように微笑んだ。
「今は手出し出来ませんけど。打開策として、ザレンチアノの方々をグラニアにお迎えする準備を進めているところです」
その話は、ネフィレイシアたちもジュニアスから聞かされたばかりだった。
ユナの魔力を以ってしても浄化させることの出来なかったザレンチアノ。ゆえに次の案として、ザレンチアノの民をグラニアに移住させる話が出ていた。
けれどそれは、口でいうほど容易いことではない。
いくらザレンチアノの住人が少ないとはいえ、これは大がかりなことだ。居住区の整備、雇用、生活様式の違い、何よりもグラニアの民が受け入れを納得するかどうか。いくら聖女が説得しようとも、そう簡単にはいくとは思えなかった。きっと、長期戦になる。
しかし、この移住計画の成否は、ネフィレイシアたちにとって問題ではなかった。
──重要なのは、ロアンデールたちを上手く侵入させること。それだけだ。
ネフィレイシアは、七日前の晩、グラニアの自室でエルドガルドと交わした計画を反芻する。
ユナが倒れたこと。
ユナの力でもザレンチアノは救えなかったこと。
その一部始終をエルドガルドに報告した。聞いたエルドガルドは、椅子に腰掛けたまま、固く目を瞑った。
エルドガルドも、あるいはユナがザレンチアノを救えたのなら、復讐をやめようと考えていたのかもしれない。けれど、その望みは絶たれてしまった。
『ロアンデールとレティを呼び寄せよう』
グラニアの宮殿では、ネフィレイシアは魔法を使うことが出来ない。だが、兄と優秀な友の協力を得れば、わずかな魔法を扱うことは出来るはずだった。そのために、着々と情報を流してきたのだから。
ネフィレイシアは慎重に頷いた。
『かしこまりました。ジュニアスに掛け合ってみましょう』
『いや。私からユナに乞おうと思う』
『陛下が……?』
言ってネフィレイシアは、ユナが彼に恋していたことを思い出した。エルドガルドはその想いを利用するつもりなのだろう。ユナの屈託のない笑顔が浮かんで、良心が痛む。あの素直な聖女は、エルドガルドのいうことなら喜んで耳を貸すだろう……でも。
ネフィレイシアの心を読み違えたエルドガルドが、安心させるように言った。
『ジュニアスはお前が思っているよりずっと強かな男だ。お前も、それで手こずっていただろう? ここは私に任せておけ』
そうだけれど、そうではない。
ネフィレイシアは迷い、口を開く。
『本当に、これでいいのでしょうか……ユナは善い娘です』
もう争いはやめるべきではないのか。
ネフィレイシアの苦言に、エルドガルドはふと冷徹な視線を返してくる。空気が変わった。
『どうしたネフィ。お前の父がどんなふうに屠られたか、もう一度話してやろうか。
私の両親も病に倒れ、数十年もの間苦しんだ。お前の母と同じ病だ。
そしてその間もこの国は、この元凶の国は、繁栄し続けてきた。罪も忘れてのうのうと。笑い暮らしてきたのだ。私はそれを許すことはできない。……ユナがどれだけ善良だろうともだ』
エルドガルドの憎しみも悲しみも、痛いほど理解できる。だからネフィレイシアはそれ以上反論することが出来なかった。
鷹揚に肘をついたエルドガルドは、まさに王族で、ネフィレイシアはただ首を垂れる。
しかし二人の計画は、思わぬ方向へ転がろうとしていた。
こちらが話を切り出す前に、彼らの方から移住計画を持ちかけてきたからだ。
これ幸いと、ネフィレイシアたちは彼らの計画を利用させてもらうことにした。
何も知らないユナは、嬉々としてエルドガルドに話しかけ続ける。エルドガルドはそんなユナを優しげに見下ろしながら、時折頷いていた。
ユナが「お茶を一緒に」と言いかけたところで、ジュニアスが申し訳なさそうに口を挟む。
「ユナ、そろそろ」
「ええ、もう?」
「君の体調を心配している人たちのことも考えてくれ」
「……わかったわ」
本当に短い時間だった。ユナは名残惜しげにネフィレイシアにも向き直る。
「来てくれて本当にありがとう。まるで軟禁状態だったから、嬉しかったわ」
「ジュニアスにお願いして、また来ますね」
「ええ」
「……都合つけるの、結構大変だったんだけど」
ジュニアスがぼやいて、ネフィレイシアたちを送るために連れ立つ。ふたたび懐から鍵を取り出す彼を、ネフィレイシアはじっと観察した。あの鍵を奪うことが出来たなら、と。
◇
その数日後。移住計画を進めるにあたり、ネフィレイシアの実兄ロアンデールと魔術師レティの入国が認められた。まずは闇の国の要人を招いて、徐々に受け入れ体制を整いていくべきだとの声があがったからだ。
それには俺も賛成だ、とジュニアスは言った。
「いきなり大勢で来られても、歓迎のしようがないからね」
定例会談が終わり、ネフィレイシアはジュニアスと共に回廊を歩んでいた。
エルドガルドは、ユナに誘われて図書館に行ってしまった。前に話した古い文献を一緒に確認して欲しいと言っていたけれど、そこにはユナの恋心が見え隠れしている。
ネフィレイシアは、隣を歩くジュニアスをちらと見上げた。
「上手くいくと思う?」
「どっちのこと?」
「……移住計画に決まってるでしょ」
「成功させなきゃ、君たちが滅んでしまうよ」
だから絶対に成功させるつもりだと、ジュニアスは淡々と言った。それがどんなに大変なことなのかわかっていて、それでもやると決めているから、迷いがないのだ。
ネフィレイシアは、凛とした彼の横顔から目を離せない。
ここは感謝すべき場面なのだろうけれど、それよりも先に、疑問を覚えてしまう。可愛げがないと自分でもわかっていながら、言葉は止まってくれなかった。
「ねえ、ジュニアス。あなたはどうしてそこまで協力してくれるの?」
「君たちが助けてくれって言ったからじゃないか」
「でも、だからって助ける義理はないでしょ。ユナだって危険な目に遭ってしまったし」
「弱気だね、何かあった?」
立ち止まり、首を傾げられる。
ネフィレイシアも足を止めて、彼を見上げる。
いったい自分は、何を話そうとしているのだろう。彼に、何を言って欲しいのだろう。
「……迷惑をかけてるわ」
「今更だろ」
「ユナの好意に甘えてる」
「君たちだけじゃどうにもならないからだろ? 仕方ないことだよ」
その通りだ。
そしてネフィレイシアはジュニアスたちを裏切ろうと企んでいる。これが寓話なら、自分は悪になるのだろうか。それとも正義の復讐と称賛されるのか。たぶん、生き残った方が正義になるのだ。
ネフィレイシアは揺れる心のまま、ジュニアスを見つめる。
彼は慰めてくれるみたいに、柔らかく笑った。
「俺は、正直嬉しかったよ。君が和平の手紙を持ってきてくれたとき。ああ、これでこの子と戦わなくて済むんだって」
大きな窓から夕日が差し込んで、ジュニアスの半身を明るく照らしていた。まぶしい、とさえ思う。
「私と戦いたくなかったの? どうして?」
「最初は君なんか相手にもしてなかったけどさ、どんどん君は力をつけて、強くなっていたから。いつか大怪我をさせてしまう気がして、怖かった。どうしてかは、俺にもよくわからないけど」
何度も何度も会っているうちに、ネフィレイシアとジュニアスは顔見知りになってしまった。
互いに名前を知ってしまい、だから、刃物をぶつけあうことに戸惑いを覚えてしまったのだろうか。
「……変な人」
「君だって変わってるよ。俺を本気で殺そうだなんてしてなかっただろ」
くすくすと笑って、ジュニアスが歩き出す。
もう少しゆっくり話をしたいと思ってしまったのは、その笑顔がユナに向けるものと近くなっていたからだろうか。もっと時間をかければ、分かり合えるような気がした。
「……あなたがもっと悪い人だったら良かったのに」
「え?」
「なんでもないわ」
ネフィレイシアは彼の後を追うように歩き出す。
ロアンデールとレティがグラニアに到着したのは、その翌日のことだった。




